19.その輝きはあまねく世界を照らし出し

 背嚢を下ろすと解放された気持ちになった。

 肩ひもで強く締め付けられていた部分がじんわりとむずがゆくなる。

 妙に体が軽く浮いた感じがする。その不思議な感触を味わいながら川の畔まで歩み寄った。そこは白い砂利が敷き詰められた広い河原だ。その中央を水は勢いよく流れている。ルセロ教会のある焦熱しょうねつ峡谷きょうこくからフールハーベントの街へと向かっていた。

 澄み渡った綺麗な水である。水深が深くなっている所に視線を移すと、太陽の光を受けて白く輝く水面の下を潜むように黒い背びれを覗かせる魚影がちらついて見えた。


「毒蛇じゃなくてあれを捕まえればいいのに……」


 リーセのお腹がぐぅとなった。串にさして塩焼きにするととても美味しそうだ。

 水中に手を差し込むと冷たくて心地よい感触がさらさらと手のひらを伝い流れていく。

 リーセは手を洗ったあと顔も洗った。頭を突っ込んで水をがぶ飲みしたい衝動に駆られるが、ラメールに「生水は飲むな」ときつく言われていたので我慢をする。

 拭くものがなく顔と手をぶらぶらとさせていると、追いついてきたノノが、布切れを渡してきた。リーセはそれで顔を拭いた。


「ノノも顔を洗ったら?」

「はい、足をつけると、むくみも取れて、体もすっきりしますよ。リーセ様」


 ノノの言葉を聞き、リーセは靴を脱ぎ足を水につけた。


「ふああああぁ……、気持ちいいぃ……」

「……リーセ様ぁ、私が顔を洗おうとしている水の前で足をつけないでください」


 情けない声を上げるノノに謝りながら、リーセは川下のほうへと移動して、大きな石に腰をおろした。

 川幅はあるが、歩いて渡れそうな浅さであるように思える。


「水も汲めますし野営場所をもっと川岸に近づけたほうが便利なのではないでしょうか?」


 ノノは遠くで背嚢から野営の道具を取り出しているラメールに視線を送る。彼は砂利の途切れた位置で野営の設営をするつもりだ。


「もし夕立が来たら流されるかもしれないからかな? それに夏はあまり雨がふらないそうだけど、これだけの水が流れているのを見ると上流では雨が降っているのかもしれない」

「教会の辺りは、雨は降りませんが雪は積もりますね」


 ノノは上流にある教会を思い浮かべるようにしてつぶやいた。だとすると、大地が雪解けの水を吸っているのだろう。しかし、あの赤茶けた大地に保水の能力などあるのだろうか。焦熱などと言われているが、その奥まで踏み進めば雪渓や氷河があるのかもしれない。



 太陽は地平線の上にあった。

 水平に差し込む光は大地にあるものすべてを赤く染めていた。しかし、その光も世界を覆う天上までは届かず、空は青黒く深みを増し、ひとつまたひとつと星が瞬き始めている。

 太陽の近くにも、一粒の宝石のように一際きらめく星が浮かんでいた。

 リーセはその星をじっと眺める。それは彼女の知っている星なら自ら光を放っているのではなく、太陽の光を受けて反射しているだけだ。しかし、この大地から一番近い位置にあるその星は、どの星よりも明るく輝いて見える。

 その時、焚火にくべられていた生木がぱちんと音を立てて弾けた。


「お前たちが信じている星だ」

「あの星が?」


 ラメールはリーセの言葉をきいてぽかんと口を開く。


「お前、教祖だろ……、神が泣いているぞ」

「記憶を忘れたてのほやほやなもんで……」


 リーセは頭をかいて星を眺めた。彼女の隣に腰を下ろしていたノノは、その星に祈りを捧げるように胸に手を置いて頭を下げていた。


「何をお祈りしているの?」

「今日一日の感謝です。明日の朝になれば星は東の空にありますので、その日の平穏を祈ります」

「明けの明星、宵の明星……」

「そのとおりです。そう言えば、リーセ様はお祈りがお嫌いでしたね」


 そう言ってノノが目を細めて微笑む。わがままで、冷酷で、毒蛇を掴んでメイドを鞭打ち、お祈りを拒む教祖。その上、記憶をさっぱりと忘れのほほんとしている。

 彼女は一体、リーセの何に惹かれて付き添っているのか。これ以上、リーセの悪行のエピソードが増えないことを明星に祈るばかりだ。

 リーセは聖堂や自身の部屋にあった星の配置を思い出す。あれは明星を示していたのだ。方角も合わせているのだろうか。

 さらに、彼女はこの星は元の世界にあった星と同じだと思い至る。夜明け前と夕暮れ後に強くこの世界を照らしているが、それは月と同様に太陽の光を受けているだけだ。


「明日からは川沿いを伝って上流へ向かっていくことになる」


 ラメールが木の棒で薪を慣らしながらつぶやく。

 石で囲まれた焚火の上には吊るされた鍋がのっており、ぐつぐつと煮えていた。

 移動のときに汗をかぎすぎたせいで、服はまだ乾ききっていない。その湿り気が彼女の体温を急速に奪おうとしていた。

 そして、体温が奪われるとともに、体が強張っていく。軽く動かすだけで、身体は筋肉痛で悲鳴を上げ始める。

 少しでも体を温めようと、炎へと手を伸ばす。

 その手の上に、鍋からよそわれた具で満たされた木製のお椀が、すっと差し出された。


「食え。体の中から温めておくんだ」


 リーセはそれを受けとって膝の上に置いて、中身を覗き込んだ。


「あまり食欲がない」

「体も弱っているが、内臓も弱っているんだ」


 ラメールからスプーンを受け取りながら、それだけではないとリーセは考える。

 たしかに、この場所にたどり着いて荷を下ろしていたときはお腹が減っていたのだ。

 しかし、ノノとラメールが毒蛇をさばき、鍋に放り込むのを見てしまった。さらには、その辺に生えていたサボテンのような植物から葉肉を取り出して、鍋の中にぶち込んだ。空腹の頂点を極めていたリーセの食欲は瞬く間に落ちていった。

 リーセは麦がゆの中に浮かぶ白い肉片と、緑色のゼリーのような物体を避けながら、スプーンで掬って口に運ぶ。


「おいしい」


 塩味が効いている。そして、脂分が麦に絡まって喉の通りをよくしていた。さらに熱い物体がお腹の中へと落ちたあとは、香辛料の辛みが口の中を刺激した。


「そらそうだろ……。一気に食うなよ。ゆっくり咀嚼して食べろ」


 ラメールはそう言って、リーセのスプーンの向かう先を見ている。ノノも同じく息を飲んでみていた。彼らはリーセが毒蛇の肉と葉肉を避けて食べていたことを見抜いていたようだ。

 その無言の圧力はそれらを口にするまで、消えないように思えた。

 リーセは意を決して、毒蛇の肉と謎の植物の葉肉をスプーンですくい、一息に口に運んだ。

 弾力はあるがさくっと噛みきれる感触と、ゼリーのようなとろみのある歯ごたえが重なり合う、不思議な感覚が口の中に広がった。

 肉はあっさりとして食べやすく葉肉も植物を連想させる生臭さはなかった。


「ぐっ……、これも美味しい」


 リーセはお椀の中のものを夢中でお腹の中へかきこんだ。

 ラメールとノノは穏やかな笑みを浮かべながら、その様子を見守っている。

 微かに地平に残った夕日と、焚火の炎が三人の顔をちりちりと赤く照らしていた。



 すっかりと夜の帳が降りて、満天の星空の下に小さな焚火を囲む三人の姿があった。

 リーセは体中の痛みに耐えながら寝ころんでいた。筋肉痛は時間の経過とともに広がりひどくなっていく。そしてお腹側を焚火のほうへ向けて丸まっていたため、背中が冷えていた。

 冷えは冷気だけではなく、地面からも伝わってきた。

 体を動かして寝返りをうちたいが、身体がうまく動かず、毛布の端を掴み引っ張り寄せた。


「リーセ様、寝付けませんか?」


 ノノが声をかけてきた。

 今は彼女だけが見張りと火の番の為に体を起こしている。

 見張りは当番制で、ノノはこのあとラメールに交代し、明け方がリーセの順となっている。


「大丈夫」


 そう言って、目をつぶったが、疲れは頂点にあるはずなのに、目がさえてしまって寝付くことができなかった。

 ノノは立ち上がると、リーセのそばに座りなおした。


「川の音しか聞こえません。時々、遠くで鳥か獣の鳴き声が聞こえますが、この星空と、焚火の明かり、世界には私たちしかいないようです」


 焚火の明かりに目を凝らす。普通の野生動物なら炎を見れば去っていくだろう。しかし、魔物はこの灯りを頼りに攻撃を仕掛けてこないのだろうか。炎の向こう側で眠るラメールに視線を送る。彼を包む毛布は小さく緩やかに上下に動いていた。

 リーセは視線を夜空へと向けた。光の粒子が河となって空を流れているのが見えた。月を探したがどこにもなかった。新月なのか、まだ上っていないのか、それともこの世界には月はないのだろうか。

 月のない世界だと、自転の周期は速くなるはずだ。果たしてこの世界の一日は、元の世界の一日と同じ長さなのだろうか。

 そんなことを考えていると、この世界に来た日の事を思い出す。教会に差し込んでいた光、あれは月だったのだろうか。

 そんな他愛もないことを考えていると、ノノの手がふくらはぎに触れた。


「リーセ様、凝っているようなので、このノノがマッサージをしますね」


 彼女の手のふれた場所が熱を持ち、そして痛みや疲労を溶かしていくような気がした。


「牢屋に入れられたときはお助けできませんでしたが、何があってもこのノノは一緒です。ノノがリーセ様をお守りしますので、安心して眠ってください」


 ノノの温もりを感じながらリーセは静かに瞳を閉じた。

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