11.勇者を地に落とす戦い(前編)

 太陽の光が降り注ぐ円形闘技場コロッセオ舞台アリーナには白い砂がしきつめられ、その光を照り返していた。蜃気楼のように揺らめきながら、勇者一行の6人が舞台の中央に立っている。リーダ格のヴィルトが腕を振り上げると、闘技場を覆い包み込むようにそびえたつ観客席から、万雷の歓声が沸き立った。

 手拍子が起こり、観客たちは足を踏み鳴らした。それは地鳴りとなって、文字通り闘技場は揺れ動く。

 その様子を、リーセとノノはアリーナへと通じる通路から眺めていた。


「凄い人数です。一体何人くらいの人が観に来ているのでしょうか?」

「今日は邪教の教主が勇者に討伐される日だ。彼女は長年にわたり市民を欺き、改宗させて財を奪い取ってきた。多くの市民がこの闘技場に足を運んでいる。その数は二万人を超えているだろう」

「そんなに来ているのですか?」

「帝都へ行けばもっとでかいのがある。五万人は入るという噂だ」


 ノノが付き添いの騎士の言葉に感心したように頷く。

 リーセは二人が顔見知りなのかと思ったが、さきほど、水桶を手配してもらっただけだという事だった。

 それにしては気安くないだろうかと気をもんでいると、騎士はリーセの肩を叩いた。


「俺はお前がどれほどの悪人か知らない。だが、お前のような娘が殺されるのも、それを見て喜ぶ観衆も見たくない」


 その声に聞き覚えがあった。リーセを殴ろうとした看守を止めた男の声だ。

 男がリーセに向かって、さらに何かを告げようとしたときに、さらに観衆の声が大きくなった。

 闘技場へ視線を向けると、ヴィルトがこちらに向かって早く出てこいと催促するように、指をくいくいっと動かしていた。


「行ってくる」


 リーセは最後に革袋に入った水を口にして喉を潤した。それをノノに渡し錫杖を両手で握りしめた。


「私もお供します!」


 ノノが眉を吊り上げて腕まくりをする。


「馬鹿なこと言わないで!」


 リーセはノノの肩を抑えて、くるりと反転させると騎士の方へと押し出した。


「待っていて。暇だったら、その騎士をルセロ教団に勧誘しておいて」


 そういって、闘技場に向かって歩き始める。

 その通路は暗い影の世界だった。途切れた先は光があふれ、その中心に勇者が立っている。

 リーセはその境界まで進んだ。そこで大きく一呼吸する。次の一歩こそが本当に引き返すことができなくなる最後の一歩だ。影の中からもう一度勇者を見る。

 相変わらずの燃えるような蒼い髪と瞳。それは太陽の下でも映えていた。そして昨晩は温かいベッドでぐっすりと眠れたのであろう血色の良い肌。赤く切り裂くような唇の端をわずかに上げ、笑みを作っている。

 手が差し出された。その手がリーセを呼び込むように動かされる。

 歓声が絶叫へと代わり、再び闘技場が揺れた。


 リーセは口元を真一文字に結び一歩踏み出す。そこはやはり光の世界だった。天から降り注ぐぎらついた陽光がリーセの足元に小さい影を作り出す。目がくらむような明暗だった。

 リーセが進むとその影はあたりまえのように追ってくる。

 幼い彼女の姿を見た観客がざわつく。しかし、その困惑もすぐに罵声へと変わり、リーセへと降り注いだ。彼女はそれに逆らうように胸を張った。

 その態度が気に入らなかったのか、アリーナに石やごみ屑が投げ込まれた。

 そのうちの一つが彼女をかすめ、頬に赤い筋が浮かび上がる。それでも一歩踏み出そうとしたが、足が震え、つまずき、倒れそうになるのをかろうじて錫杖で支える。

 地面に落ちた影が観客の罵声と彼女自身の震えによって揺れている。

 リーセは呼吸を整えて、姿勢を正す。そして、空を見上げ目を細めた。激しく降り注ぐ罵声、その向こうには彼女を焼きつけようとする太陽。


 リーセが歩みを再開すると、会場が静まり返る。

 その時、初めて彼女は視線を観衆に向けることができた。崖のように周囲に聳え立つ観客席スタンドから見下ろす観客たち。その数は二万人だと衛兵が言っていたことを思い出した。その視線のすべてがリーセに注がれている。

勇者一行のその奥には、巨大な長方形の旗が垂れ下がるように吊り下げられ、その裾が風になびいていた。その時、初めてリーセの頬をなでる風を感じる。闘技場の熱狂がその感覚さえも奪い去っていた。

 その旗の下には壮年の男が立っていた。羊毛で出来た長い一枚布を体に巻き付けたような衣装を着ていた。その布は白地に赤紫の縁取りが施されている。

 その男が人差し指を立て観客を制止しているのであった。

 同じような服装の男たちが、その男の周囲を囲むように座り、さらに下の段にはリーセと同じような法衣を着た者たちの集団が座っていた。赤い帽子と法衣だった。一瞬、ルセロ教団の枢機卿団かと考えたが、そんなはずはない。彼らこそ勇者をルセロ教団に遣わした世界教団の者たちだ。そうすると、指を立てている男はフールハーベントの街の元老院の者なのだろう。



 先ほどとは異なり、静寂に包まれたアリーナを歩き、勇者一行の前にたどり着いた。

 ヴィルトが進み出てきた。そしてリーセと十歩ほど間合いを開けて立つ。

 剣を抜く素振りは見せない。この場でリーセに何かができるとは考えていないのだろう。


「顔色が悪いようだが、よく眠れなかったのか?」


 気の利いた返事を考えたが何も思い浮かばなかった。


「昨夜の威勢はどうした。怖気づいたのか?」


 ヴィルトが薄笑いを浮かべる。こんな子供を嘲笑し、剣を振り下ろすことに喜びを感じているのだろうか。まったくもって勇者らしくないと思った。これ以上この男のことを名前で、そして様付で呼びたくないと思った。

 だか、ここで彼や観衆の感情を煽るような返事をしてはいけない。そして喉の調子を試すために彼の名前を呼ばなくてはならない。


「魔王を……」


 緊張で声が詰まる。リーセは喉に手を当てて小さく咳払いをする。


「魔王を、ヴィルト様は倒せるの?」

「残念だが、お前の死に目までに間に合いそうもない」


 声を潜めていた観客が一斉に沸き立つ。

 そして、ヴィルトの言葉に対する拍手が乾ききったアリーナに降り注いだ。

 リーセは視界の端で観客の声援を止めていた男を見る。男はまだ、指を立てたままだった。振り返ると、通路の先端にノノの姿があった。試合中は劣勢になった者の逃亡を防ぐために扉が閉じられるはずだが、まだ開いていた。彼女は両手を胸の上で重ね、じっとリーセを見つめている。

 ヴィルトへと視線を戻す。相変わらずにやついた笑みを浮かべている。その舐め切って、人を見下した眼差し。リーセが睨み返すと、彼は肩をすくめおどけるようにして身をわずかに引いた。

 観客席から笑い声が漏れた。

 この期に及んでも、ルセロ教団が信仰し、いや、世界教団を含むこの闘技場にいる者たち全てが信じる神は姿を現さない。やはり、この世界にも神はいないのだろう。神がなにもしないのなら、リーセがするしかない。

 神はいない。魔法も使えない。力だって後ろで見守るノノの方が強いだろう。ヴィルトには遠く及ばない。錫杖の水晶は白く濁ったままで、味方をび出すことはできない。そして唯一の頼みであるツヴィーリヒトもいない。

 この場にいる誰もがリーセは勇者一行に敗れると予想しているだろう。そしてルセロ教団が犯した罪を背負って処刑されることを望んでいるだろう。

 頭を下げ地面を睨みつける。太陽の光はアリーナで反射し、リーセの顔を照らす。こんなところまで光は追ってくるのだ。

 諦めたように大きく息をついて、肩の力を抜く。しかし、眼差しだけは強く地面をにらみつける。この場にいる誰からも悟られない様に。強く。さらに強く。

 自分と教会に残してきたわずかな人を守る。誰の許可もいらない。


 だって、神はいないのだから。


 リーセが錫杖を軽く浮かせると、地面には小さな点のような影が残る。それをドンと突いた。

 観衆が勇者一行に寄せる信仰を地の底へ突き落とす。試合開始の合図ではなく観客の声が静まるのを待って、リーセは勝手に始めることにした。

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