10.控室で囀り合う教主と従者

 棒きれのようなもので、身体を小突かれる感覚があった。

 部屋の中は蒸し暑く、脳が蒸されたように頭が働かない。

 肩を叩かれ、ようやく、身体を起こす。

 朦朧とした頭と視界の中で周囲を見渡した。

 眩しいほどの日差しが小窓から差し込んでいる。薄汚れた部屋だった。そして、輝くようだった白い法衣も、汚れが染みつき、みすぼらしいものとなっていた。

 石のブロックでできた壁に触れると、焼けるように熱かった。ここは牢獄、そして、リーセという少女の身体だ。

 昨夜の身を刺すような冷気は消え、けだるような熱の沸き立つ室内となっていた。


「リーセ様!」


 棒切れを握った看守の横をすり抜けるようにノノが飛び込んできた。そして彼女はリーサの身体を抱きしめた。身を焼く太陽の熱さとは違う、心を満たす温かさがノノにはあった。


「ノノ……」


 リーセは声がかすれていることに気づく。喉が枯れていた。水を飲もうと革袋を手にしたが、軽く振ってみても水の音はしなかった。気づかないうちに飲み干してしまったのだ。


「リーセ様、こちらを」


 ノノが新たな革袋を差し出した。リーセはそれを受け取ると栓を抜き、天井を仰いで一気に喉へ流し込んだ。相変わらず革臭く、えぐみのある味だ。しかし、飲むのを止めることができない。口の中からあふれた水が首を伝い鎖骨へと落ちていく。

 そして激しくむせた。

 ゴホゴホと咳が止まらずに、口に含んでいた水を床にまいてしまう。

 看守が睨みつけた。


「汚すなっ。誰が掃除すると思っているんだ!」


 リーセに向かって声を荒げ、棒が振り下ろされる。彼女は痛みをこらえようと目を固くつぶったが、その痛みは来なかった。


「うぐっ!」


 代わりにノノの悲鳴があがった。彼女がリーセと看守の間に入り背中を打たれたのだ。倒れ掛かってくる彼女を抱きしめるように受け止めた。

 こんな薄汚れた室内を掃除する気など、そもそもあるはずがない。リーセが看守をにらみつけると、看守はさらに打撃を加えようと棒を振り上げた。


「やめとけ、どうせ勇者に殺されるんだ。それまでに痛みつけてしまえば戦いの面白みが欠ける」


 看守はもう一人いたようだ。姿は見えないが、声だけが届いた。


「それよりも、はやく控室に連れていってくれ」

「チッ、さっさと立て!」


 苛立たしさを隠そうとしない看守は眉間にしわを寄せる。

 リーセは棒で小突かれながら立ち上がろうとするが、ノノを抱えたままでは難しく腰を浮かすことができなかった。


「リーセ様、こちらを」


 ノノは痛みに顔を歪めながら、無理に笑顔を作ってみせた。そして、錫杖を差し出した。


「昨夜、勇者様にお願いして返してもらったのです」

「ノノ……」


 錫杖を受け取る。先端の水晶は白く濁り、ひび割れもまた痛々しく残っていた。

 それを杖にして立ち上がる。



 階段を降り、小部屋に通された。

 そこは先ほどまで閉じ込められた部屋とは違い、清掃の行き届いた部屋だった。しかし、床には血の跡のようなシミが拭き取れずに残っていたり、どこか陰鬱な雰囲気が漂っていた。くたびれた木製の机と椅子があり、壁には無数の武器が立てかけられている。それらは手入れがされておらず、赤錆に覆われていた。なお一層居心地の悪さを演出しているようにも思える。

 直ぐ近くから、群衆が騒いでいるような声が響いていた。

 リーセは椅子に腰を下ろし、その横にノノが立って並ぶ。先ほどの痛みは大丈夫なようでほっと息をつく。


「この場所は……」

「ここは円形闘技場コロッセオの控室ですね」


 それで、昨夜宿泊した場所が円形闘技場に設けられた牢屋であることが分かった。きっと処刑が決まった罪人から最後の抵抗をするための気力さえ奪うために設計されたものなのだろう。おかげで、これからの決闘の作戦を練るための時間が見事に搾り取られた。リーセは変なところで感心をする。

 そのかたわらでノノもまた落ち着かないのか忙しく視線を動かし、周囲を観察していた。


「決闘はまもなく始まるのかな?」

「どうなのでしょう……。それよりもリーセ様。そこに置いてある武器を試してみてはいかがでしょうか?」


 いまさら何を言い出すのかと思ったが、言われたとおり武器を眺めてみる。

 大剣、長方形の大盾、大槌、長い柄の斧、リーセの身長をはるかに超え、斜めにしても天井を突いている槍はどのようにしてこの部屋に入れられ、そして持ち出されるのだろうか。それらの武器を自身が扱う姿を想像する。それは武器を振り回すというよりも、武器に振り回される姿だった。勇者と戦う前に自滅する未来しか想像できずに、首を振った。

 しかし、手ぶらで戦いに挑んでも、やる気はあるのかと勇者に疑われる。彼に疑われるのは構わないが、観客が冷めてしまうのは困る。

 やはり、手に馴染む錫杖のほうがいいだろう。


「それよりも、もう少し可愛くなれないかな?」


 両手を広げると、ケープの裾もつられるようにふくれた。純白だっただけに汚れが目立ちみすぼらしく感じてしまう。

 少し変な匂いもした。自分の匂いではないと信じたい。


「気づかなくて申し訳ありません。ここへ来るときに準備をする時間もなくて、お化粧の道具やお着替えを教会に置いてきてしまいました……」

「いえ、ぴかぴかにならなくてもいいの。観客が素朴で可愛らしいと思ってくれればいいの」

「それなら、お顔を拭いて、髪をきなおして、服の汚れを払えば十分に素敵に見えると思います!」


 ノノはぱたぱたと駆け出すと、呼び止める間もなく部屋を出て行ってしまった。

 しばらくすると、タオルのかかった水桶を抱えて戻ってきた。彼女には高いコミュニケーション能力があるのだろうか。すぐさまリーセの望みを叶えるための道具を集めてくるのは、まるで魔法の様に感じた。

 そして、にっこりと微笑むとポケットから櫛を取り出した。


「リーセ様のお気に入りなので、この櫛だけは私が肌身離さずお預かりしているのですよ」

「そう……」


 もちろん見覚えはない。たしかに細かな象嵌細工が施され漆だろうか塗料により鈍い光沢を放っていたが、長年の使用によるものなのか櫛歯の部分は木目があらわになっていた。

 リーセの薄い反応を気にかけることなく、ノノは背後に回ると髪をき始めた。


「決闘は太陽が中天に差し掛かるときだそうです。外の騎士の方がまもなくだと言っていました」


 その言葉を聞いて、窓に視線を向ける。この部屋は北向きにあたるのだろうか、日差しは入っていなかった。牢屋よりも大きな窓である。しかし、この窓にも鉄格子がはめられていた。


「リーセ様、今からでも決闘を中止にすることはできると思います。私もリーセ様に罪がないことを説明いたします」


 窓を眺めている姿を見て、脱走を企てていると考えたのだろうか。リーセは首を振った。


「ノノ、何度だっていうけど、私は逃げるつもりはない。私は教主として果たさなければならないことをする。必ずやり遂げる。それにはノノの力が必要なの。できるだけ可愛く見えるようにして欲しいの」

「リーセ様……、リーセ様は何もしなくても十分に可愛らしいですよ」


 ノノは止めていた手を動かし始めた。リーセは櫛が通るたびに、その心地よさを感じる。それが櫛のせいなのか、ノノの手によるものなのかはわからなかった。

 二人がそうした時間を過ごしていると、やがて騎士風の男がリーセを呼びつけにきた。


「時間だ。これから闘技場へ案内する」

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