かくして宵の明星は覚醒した

 リーセは身体を起こす。転んだときに打った頭が痛む。手をむけると、そこには小さなこぶができていた。


「あいたた……、ん? んんっ、喉も痛い……」


 叫び声を上げ続けたせいで、喉まで痛み出した。

 ふんだりけったりだった。

 部屋を包み込んでいた埃が収まり、朝靄が晴れるように視界が開けた中、石の台座の上に立つ人影が見えた。その影は黒い外套に身を包み、リーセを見下ろしていた。

 長身だった。男のようだった。扉からの光はその首元までしか届かず、黒髪であることは見て取れるが、その下の表情まではわからなかった。

 ふと笑みを浮かべたのか、白い歯が見えた。そして鋭い牙の様に伸びた犬歯が見えた。

 リーセは慌てて近くに落ちているはずの剣を探したが、それよりも早くその男は、台座から飛び降りて彼女の前に立った。その動きはまるで鳥のようだった。外套を翼のように羽ばたかせ、舞い上がったと思うと、音もなくふわりと舞い降りる。

 男は片膝をついて屈むと、手を伸ばした。


「怪我をしているな」


 白くて長い指だった。その指先が、法衣がはだけているふくらはぎに触れる。その指は足先へと流れ、やがて鏡の破片を踏んだ傷口に触れた。男は声には出さず呪文を唱えるように唇を震わす。

 それは端正な顔立ちだった。黒髪の隙間から伏せられた切れ長の目が覗き、その下、長いまつげに縁取られた黒い瞳がリーセの足をじっと見ていた。白く透き通るような肌に、高く通った鼻梁。赤い唇と細い顎。彼は本当に、どんどんと棺を叩いていた男だろうか。その顔を眺めるだけで、息が詰まる思いがした。


「立てるか?」


 いつの間にか、男の視線がリーセの顔に向けられていて大きな鼓動が一つ胸を打つ。

 足裏の痛みは消えていた。男が差し出した手を掴み、二人で一緒に立ち上がる。やはり、長身だった。彼を見るには彼女は顔を上げなければならなかった。

 何も言えず、男を見つめていると、男の指先が、彼女の喉元と、頭のこぶにも触れる。

 瞬く間に痛みが引いていった。


「他に痛むところはないか?」


 彼はそう言って、白い帽子を拾いあげた。ぱんぱんとはたいてリーセの頭にのせる。

 この帽子に何か意味があるのかと考えながら、帽子の裾を引っ張って深くかぶった。

 彼女の様子を見届けると、男は窓を覆うカーテンを取り払った。部屋の中が月の光で満たされた。男は窓のそとに浮かぶ月をじっと眺めたあと、視線をリーセへと戻した。


「最後にあったのは、お前の母親が死んだ時か? 月の流れを読むと、10年以上の歳月が流れているはずだが……」

「えっと……」


 リーセが答えようとしたとき、すっと伸びた手が彼女の顎を掴み、くいっと上げられる。男は眉をわずかに寄せたまま、リーセを覗き込むように顔を寄せてきた。黒い瞳が彼女を包み込むように捉える。

 リーセの身体は硬直したように強張り、心臓がどくどくどくと先ほどまで聞こえていた騒音のように早鐘を打った。


「リーセ……、ではないな?」


 その言葉により、呪縛が解けたのかリーセの身体が動くようになった。彼女は男を両手で押し返した。


「私も何がなんだか。気がつけばこの体になっていて、教主だって言われるし、枢機卿だというハゲ親父に襲われそうになるし、あなたにはマジックショーの手伝いをさせられるし! 10年ぶりってどういうこと? あなたはあの棺の中に10年間も眠っていたというの? それに、この子……今は私だけど、母親が死んだってなに?」

「ハゲている枢機卿……、顔も頭もオイリーな男か?」


 リーセはこくこくと頷いた。


「10年の歳月が流れても変わっていないのであれば、その男は枢機卿団長だ。名はベルナール。お前の母親を殺し、私をこの棺に封じこめた。そしてこの教団の実権を握った」


 男ははき捨てるように言った。


「ベルナール……」


 新たな知識が増えた。しかし、あの男とはもう二度と会わないはずだ。どうでもよい情報だった。


「お前にはもう一人の眷属けんぞくがいる。だからベルナールも容易に手が出せなかった筈だ。その男がお前の身を守り続けていただろう?」

「眷属?」


 男が頷いた。


「お前の持つ錫杖のクリスタルには、人狼ウェアウルフが宿っている。お前が窮地に陥った時、救出のために姿を現すはずだ」

「人狼? そんなのがいるの?」


 そのような化け物が姿を現せば、ベルナールの事などどうでもよくなるほどの大騒ぎになるはずだ。しかし、勇者が攻め込んでくるような世界なのだ。この場所はフェアリーテイルに登場するファンタジーの世界と考えたほうがよさそうだ。もしかすれば、その人狼が勇者たちを追い払ってくれるかもしれない。

 そんなことをぼんやり考えているうちに、あの錫杖でベルナールを殴りつけたことを思い出した。

 はっとして、台座に立てかけたままの錫杖に駆け寄った。その先についているクリスタルを確認する。たしか、最初に手に取った時は透き通っていたが、今は白く濁っている。よく見ると、亀裂が入っていた。


「ああっ!」

「……、なるほど。しかし、案ずるな。そのクリスタルには自己修復能力がある。時が経てば奴も姿を現すだろう」

「どのくらい?」

「さあ、分からぬが、数日、いや数年……、数十年後かもしれない」

「それでは間に合わない! いま、勇者一行がこの教会を攻めて来ているの」

「勇者? ベルナールが何かをしでかしたのだと思うが、事情が読めないな……」


 男が顎に手をやって首をかしげる。そう言えば、この男は10年もこの部屋の棺の中で眠っていたといった。そして、先ほど鋭い犬歯を見た。


「もしかして、あなたも人間じゃないの?」

「私か? 私は吸血鬼ヴァンパイアだ。名をツヴィーリヒト」

「ツヴィーリヒト……、ツヴィーリヒトね。少し言いにくい」


 男がわずかに口角を上げる。


「それはあざなだ。真の名ではない。私の名は、本物のリーセが知っているだろう」

「本物を名乗るつもりはないけど、私も一応、本物じゃない?」


 ツヴィーリヒトがククっと喉を鳴らす。


「どのような術なのかはわからないが、リーセの身体に精神を転移させたのだな?」

「待って。私が自分の意思でこの体に転移したみたいなこと言っているけど、そんなことないから。さっきも言ったけど、気がつけばこの体になっていて、大体、私の暮らしていた世界には、当たり前のようにそんな術はないし、人狼だって、吸血鬼だって空想上の生き物だから。ツヴィーリヒトのようにマジックショーのネタを仕込むために10年も棺の中に入っていられる人なんていないから!」


 リーセが一歩詰め寄ると、男は一歩引いた。


「あと、どのようにしたのかわからないけど、あなたの様に人の怪我を治せる人もいないから!」

「……なるほど。お前は異世界からリーセの身体に転移してきたのだろうな。そこには魔族も魔法もないと」

「魔法があるの? 私にも使えるの?」

「お前は、ホモ・ルミナスだ。その素質はあるが、しかし素養はない」

「ホモ・ルミナス?」

「人族には、ホモ・サピエンスとホモ・ルミナスという二つの系統がある。ホモ・サピエンスは人族の大多数を占める種ではあるが、魔法は使えない。一方、ホモ・ルミナスは魔法の素質を持つが、魔法を扱えるかどうかは、その者の素養次第だ」

「なるほど。異世界から転移してきた私にはその『素養』がないのね」


 ツヴィーリヒトの言葉を聞いて、がっくりと肩を落とした。


「何を落ち込んでいる。魔法が使えなくても生きていくには問題ないだろう」

「勇者一行が攻めてきていると言ったでしょ? 勝てなくても追い払うことができれば……。そうだ、あなたの吸血鬼の力なら、この教会を守ることはできない?」


 リーセが問いかけると、ツヴィーリヒトは両腕を広げ、軽く息を吸い込み瞳を閉じた。

 彼に見られているという圧力がなくなったおかげで、随分と気が楽になった。改めて彼の顔を覗き込む。

 美しい顔立ちに身体が吸い寄せられていく。詳しく見ようと踵を浮かすと、突然、彼が目を開いた。

 黒い瞳の眼差しに射抜かれたような気がした。


「ひっ!」


 我に返って後退あとずさる。


「……、何かあったか?」

「ななな、なんでもない!」


 ツヴィーリヒトの言葉にぶんぶんと首を振った。


「気配を飛ばして勇者一行の様子を探ってみた。彼らは既に教会の門の前まで来ているようだ。それと、残念な話だが、私の力では彼らの半数を倒すことはできる。だが、そこまでだろう」


 気配を飛ばすも、様子を探るも、彼は目を閉じていただけだ。おそらく、それもまた、魔法の一種なのだろう。

 彼の言葉にうなだれることもなかった。彼が勇者一行を倒すことができるのなら、リーセよりも先にベルナールが彼を目覚めさせていたことだろう。教会を滅ぼしてまで、対立を続けることはないはずだ。

 それとも、なにか別の助かる方法を考えていたのだろうか。


「それで、一体、何人で攻めてきているの?」

「六人だな」

「六人! たったそれだけの人数を相手に、枢機卿の十二卿は尻尾を巻いて逃げたというの?」

「……そうはいうが、私の知る十二卿は烏合の衆だ。とても彼らに太刀打ちできる集団ではない」

「んん? その十二卿の一人に封じ込められたのではなかったのでしったっけ?」

「くっ、言ってくれるじゃないか」


 ツヴィーリヒトがついと顔をそむけた。それを追って覗き込もうとすると、彼に押し返された。


「お前が人質に取られていたんだ」

「私の為に10年間もこの棺に封じ込められていたというの?」

「正確には、お前ではないリーセを守るためであるが、私とデンメルングは血の契約により、お前の一族に仕えることになっている」

「デンメルング?」

「その中にいる人狼の男だ」


 彼はリーセが手にしている錫杖の水晶を指でさした。


「それで、どうするつもりだ? お前だけなら逃げられるところまで逃げてやる」

「逃げられるところまでとは?」

「この場所より、日が昇るまでの時間で行けるところまでだ」


 やはり吸血鬼は太陽の光の下では生きていられないのか。

 逃げ出すのは構わないが、昼の間に追いつかれた場合、完全に動けなくなるというのは致命的だった。


「この教会は、何を祀っているのかしらないけど、神様に出て来て頂いて解決していただくというのは?」


 ツヴィーリヒトの目が見開かれた。


「ルセロ神か? 本気でそんなものが存在すると考えているのか?」

「……」


 人狼や吸血鬼がいるのだから、神だっていたっていいじゃないかと思ったが、黙っておくことにした。

 もしかして、人狼や吸血鬼もまた冗談ではないだろうか。彼のマジックショーの演出ではないだろうか。美しい顔に騙されそうになるが、彼は先ほどまで棺をどんどんと叩いていた情けない男なのだ。

 そう考えて、頭を触る。たんこぶは消えている。そして、リーセという少女の体の中に自分がいる。少なくとも魔法の力はあるようだ。

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