落ちこぼれ魔女が紡ぐ幸せの魔法

傷を負った青年

　──さわさわと顔に何かがあたる。

　それがくすぐったく、もぞもぞと身体を動かしながら、アリーシャはゆっくりと目を開けた。

　まず目に入ってきたのは、青々と茂った草。これが顔にあたっていたようだ。

　外で眠っていたのか。草に触れようとしたとき、自身の身に起きた出来事を思い出し、勢いよく上半身を起こした。

「そうでした、わたしはウィリアムお兄様に……」

　アリーシャはおそるおそる辺りを見渡す。木々が鬱蒼と生い茂り、その隙間を縫うようにして太陽の光が差し込んでいる。ウィリアムに連れて来られた場所とは明らかに異なる場所。どうやらここは森のようだ。

　震える両腕で、自分の身体を抱きしめる。家柄に自身の力が釣り合っていないことは理解していた。両親やウィリアムから疎まれていたこともわかっていた。

　それでも、夢であってほしかった。実の兄に、転送魔法陣でどこかへ転送されてしまうなど。

　視界が滲み、涙が溢れる前に袖で拭う。

　アリーシャは「いつか攻撃魔法が扱えるようになる」と信じて様々なことを試してきたが、家族はとうの昔に諦め、見限っていた。このような形で捨てられてしまうほど、不必要な存在だったのだ。

　何度拭っても止め処なく溢れる涙に、その手を止め、力なく下ろした。誰からも必要とされず捨てられ、これからどうすればいいのだろうか。ず、と鼻を啜り、ぼんやりと辺りに目を向ける。

　あの転送魔法陣は、転送したい場所にも同じ魔法陣を描く必要があると言っていた。描かなければ、どこへ行くかわからないと。

　一見、森のようにも見えるこの場所。けれど、どこにある森なのかはまったく見当も付かない。まるで、初めてダンジョンに探索へ行ったときのようだ。わからないということに、不安と恐怖を感じる。身震いせずにはいられないほどに。

　息を吐き出すと顔を俯け、再び鼻を啜ると僅かに湿っている袖で涙を拭う。そして顔を上げ、両手で自身の顔を挟んだ。パチン、という音と共に、軽く痛みが走る。

「……まずは、ここを出ましょう」

　大丈夫、と心の中で唱えながら、アリーシャは立ち上がった。服についた砂を払い、前を見据えると足を踏み出す。

　数回程度しか行ったことがないが、モンスターがいるダンジョンで長居は禁物だ。知らない場所でも、それは同じだろう。最低限でもいい、情報を得ようと、街や村を目指すことにした。

　そのあとはどうしようか。周辺を警戒しつつ、これからについて考える。

　アリーシャにできることと言えば、治癒、防御。それも、魔法使いや魔女が扱う低レベルのものに限る。元いた場所では役に立たないと言われていた力だ。どこへ行ったって、その事実は変わらない。

　がくりと肩を落とした。とりあえず、売れそうなものを売って仕事を探すしかない。元に戻る術は今のところない上に、見つかったとしても扱えないのが目に見えている。辛く悲しい現実だが、ここで生きていくしかないのだ。

　仕事は何ができるだろうか。これまでは、両親の情けで生きてきたようなものだ。

　生きていけるのだろうか。いや、どうにかして生きていかなければならない。自分の力で。たった一人で。

　そんなことを考えながらしばらく歩き続けたが、一向に森を抜けることができない。さすがに疲れてきたため、一度休憩しようと木にもたれかかった、そのときだった。

　どこからか、苦しんでいるような声が聞こえてきた。

（誰か、いる……？）

　目を瞑り、耳に神経を集中させる。やはり、少し離れたところから男性の苦しむ声が聞こえた。

　どこにいるのだろうか。そう遠くはないはず。その声を頼りに、疲労困憊の足を動かした。少し進んでは耳を澄ませ、声がした方向に歩を進める。そうして歩き続けていると、ひらけた場所に出た。

　まずアリーシャの視界に入ったのは、赤く染まった地面。金髪の男性が、大量の血を流して倒れていた。

「──っ、だっ、大丈夫ですか！？」

　慌てて男性に近づき、傍に座り込んだ。男性の背中は鋭い爪のようなもので引き裂かれており、どくどくと流れる血は地面を赤く染めている。頭部にも傷を負っており、金髪が一部血に塗れていた。

　あまりの酷さに息を呑んでいると、男性は掠れた声で「逃げろ」と、この場から離れるように血だらけの左腕を力無く振った。

（わたしが聞いていた声は、この人の……）

　痛いはずだ。苦しいはずだ。口からは血を吐き、呼吸も酷く浅い。なのに、男性はアリーシャに逃げるよう促した。更に、くぐもった声を出しながら、起き上がろうと両手を地面につけて力を入れ始める。

　そんな怪我で何を言っているのか、何をしようとしているのか。アリーシャは男性の左肩に手を置き、その動きを制す。

「動いてはいけません！　とても酷い怪我を」

「俺のことは、いい、から。君は逃げろ」

　男性が言い終えた直後、ドスン、と高いところから重たいものでも落ちたような、そんな音が響いた。音はまだ遠いはずだが、微かに地面が揺れる。

　空気が一変し、ぞわりとしたものが身体を這った。音が聞こえた方向に、ゆっくりと視線を動かす。

　今は何も見えない。だが、空からは羽音がいくつも聞こえ、アリーシャと男性の傍を生き物達が駆けていく。まるで、何かから逃げるように。

　バクバクと心臓が早鐘を打つ。足音は近付きつつあり、そのたびに地面が揺れる。何かが、ここへやってこようとしている。

「ぐ……俺の血を、追ってきたか」

　その声に意識が引き戻された。よく見ると、地面には血の跡が続いている。この男性は、今からここへ来ようとしている何かから後退してきたようだ。

「あいつが来る前に、君は早く逃げろ」

　この怪我と出血量。相当辛いはずだ。それなのに、男性は立ち向かうつもりなのか。刃毀れしている剣を支えに、歯を食いしばりながら身体を起こそうとしていた。力を入れるたびに、ボタボタと地面に大量の血が落ちる。

（……このままでは、出血多量で命を落としてしまう）

　起き上がろうとしている男性の身体に向けて、両手を伸ばした。

　目の前に酷い傷を負っている者がいるのだ。誰からも必要とされていないとしても、役に立たない力だとしても。ここで治癒魔法が使えるのが、アリーシャのみならば。

「おい、何を……」

「あ、貴方を見捨てて逃げるなんて、できません」

　息を深く吸って、力を込める。

「癒しの光よ、ここに来たれ……！」

　言い終えると、アリーシャの両手から淡い光が広がった。その光は男性の身体を包み込んでいく。

　僧侶がいるため、必要はないにしても魔法使いや魔女が治癒魔法を扱えるのは知られている。しかし、男性は何が起きているか、わかっていないように見える。

　初めて見るにしても反応が──と、今は気にしている場合ではない。光が完全に男性を包み込み終えると、雑念を振り払うように深呼吸し、更に力を込める。

　懸念があるとすれば、この治癒魔法は軽症者向けのもの。致命傷を負っている者には初めて使用する。集中するために、目を瞑った。

　地面を踏み締めるような音ともに、地面が揺れる。あとどれだけでここへやってくるかはわからないが、集中を乱してはならない。全快は無理かもしれないが、せめて男性が身体を動かせるようになるまで。

　この場から、一緒に離れられるようになるまでは。

（絶対に、治してみせます）

　アリーシャは、ぐっと奥歯を噛み締めた。