8. 真実

「ホァの本当のお父さんもね、もうこの世にはいないんだ」

 帰り道を夫と並んで歩きながら、ユエは語った。

戯子猿ゼンビェンヴァン。猿の怪。昔話にさ『猿を産んだ花嫁』とか『猿じじい』とかあるでしょ?」


 男女が幸せな結婚をし子を成したが、産まれたのは三匹の猿だった。母親は子を抱えて吠え声をあげ、慄く産婆や夫を押しのけて密林へ消えて行ったという話。


 とある老人は人から慕われていたが、独り身で一生を終えた。荼毘に付したところ、その頭骨は猿のものだった。そして、老人が若い頃に取った奇行が思い出される話。


戯子猿ゼンビェンヴァンは人を襲い、その皮をかぶり、その人として暮らすんだ。皮がなじんだら、奇行はおさまる。だから結婚式でも唄ったでしょ? 『猿ならお前の皮を剥がなきゃならん』って」

「じゃあ、あの父親は偽物じゃないですか!」

「……偽物だけど、本物として生きて死ぬ。それが芝居なのか心まで成り代わっているのか、わたしにもわからないんだ。わたしは……あのお父さんを本物と扱った。少なくとも猿は、芝居を全うしてくれたから」

 退治しなくていいのか、と夫が問う。野放しにして子供ができたら、その子供はいずれ人を襲うじゃないかと。

「しない。それに、あの村の人の何人かは、もう猿だと思う。奇行を取る間、お父さんが一度家を空けたって聞いたでしょ? たぶん……自分の家族か、群れの仲間を呼んだんだと思う」

 だったらなおさら、と困惑する夫の腕にユエは手を添えた。

戯子猿ゼンビェンヴァンにとって、正体を知った人間は敵だよ。だから、わたしは知らない振りをした。奴らと戦いになるのは、絶対に避けたかった。依頼も対価も畏れも受け取っていなくて、きみとモンチャンを連れて、そんな危険は冒せないよ」

 ユエはあの村に手を出すつもりはない。誰かの家族や友人に疑いをかけ、それを奪うことを、進んでやりたくはない。

「わたしの目的は、きみに取り憑いた幽霊をにおくる事だった。それは果たしたよ。ホァを穏やかに送り出せたんだ。それで、よしとさせて欲しい」

 沈黙がおちた。しばらくして「ねえユエさん」とクォンは言った。

「もし、私がその戯子猿ゼンビェンヴァンだったら、どうします?」

 夫の黒い瞳を見つめて、ユエは答えた。

「猿でもなんでも、わたしは愛してる」

 きみが、人でもモノの怪でも、どちらでもいいって言ってくれたみたいに。


 その時、背後の茂みに物音がした。


 振り返った夫妻は、ひとりの少女が茂みから出てくるのを見た。

 黄色の胴布イェム、海老茶の筒袴。すり切れた山笠。黒玉のような瞳がこちらを見た。

「なあ、あんさんがた。おら、化け猫さんを買いてえんだ」

「ホァ!?」

 クォンが叫び、ユエは夫を制する。――お前か! と沸き上がる怒りを堪えて、ユエは言った。

「わたしがその化け猫だよ。きみの村のモノの怪を退治した帰りなんだ。だから、おうちに帰りな。お父さんが待ってるよ」

 このまま立ち去れ。そして芝居を全うしてくれ。これは自分勝手で矛盾した憤りなのだから。――ホァを殺したのは、お前か。

 しかし、猿はホァの姿で、かすれた低い声を発した。

「お前、見た」

 すっと身体が冷えた。

「ガノイで見た。お前、犬に喰われたのに生き返った。強い娘、あの娘」

「よせ! 帰って父親と過ごせ!」

 警告を発するが、猿の声はやまない。

「お前の中のあの娘よこせ。あの娘の皮よこせ。お前の中身よこせ。お前の皮もよこせ。お前のかぶった猫の皮、よこせぇ!」

「クォン! 離れて!」

 叫んで、夫から素早く距離を取る。合わせるようにホァの猿が駆けた。その姿から想像もできない身のこなしで、脛を狙って噛みにくる。

 足を引いて避ける。素早く後ろに飛び退り、平笠を外して投げて牽制する。

「たらない、たらない、この皮ではたらない」

 猿が額を指でつかんだ。

「見ないでクォン!」

 皮が裂ける。赫々あかあかとした毛皮が覗く。ばりばりと人の皮を脱いで、腕の長い猿が出る。少女の皮に収まっていたとは思えない、人の大人ほどの猿。

 ぐぐ、とユエの喉から呻きが漏れた。お前、

(ユエ、いけるぞ!)

「んやぁぁあああ!!」

 密林に猫の咆哮。猫の魔法「猫纏ねこまとい」。

 首から上を真珠色の毛が覆い、口が裂け、牙が覗く。頭頂に三角の耳がピンと立つ。

 化け猫ユエが、金と琥珀の瞳を怒りにたぎらせて叫ぶ。

「芝居を全うできない、半端者の戯子猿ゼンビェンヴァンが!!」

 地を蹴り、矢のように真っ直ぐ跳んだ。

 猿が横跳びに避け手を伸ばしてくる。強い力で左腕をつかまれ、引き寄せられる。

(猫は!)

 腕の長い猿は、強みを活かしてまず掴んでくる。二人の勘はそれを読む。

「すり抜ける!」

 左腕をすぽんと抜いた。右手は猿の脇腹に触れていた。

「猫の爪は」

 猫の魔法「引き裂く指」。指でなぞった所が、魔法の強さに応じて深く裂ける。

 猿が飛び退く。もう遅い。魔法は発動している。触れられている状態で動けば、それは指がなぜるのと同じ事だ。

「――鋭い」

 空中で、どす黒い血を撒き散らしながら、赫毛の猿が上下に別れた。

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