第38話

「瑪瑙君には感じるかな?NTRの波動を」


「いや、全然」


フラれた人間に備わる特殊能力のことなのかな?


「駄目だな~瑪瑙君。私は春樹君と冬歩ちゃんと結ばれる未来がしかと見えてるの」


「ほ~、その根拠は」


「『後輩』ちゃんからは港区の匂いがするの」


「失礼すぎるだろ」


詳しくは港区女子で調べてもらえばいいと思う。言葉では灰銀を諫めたが、叶からはどことなく港区の匂いがしてしまう。


「でもさ、大学生になったら東京で外はキラキラで中はドロドロな人たちとたくさん関わると思うんだ。そしたら、同世代の子たちと話が合わなくなるんじゃないかな?」


普通にありそうですぐに反論できない。地方住みの田舎女子たちが港区に行けば、経営者やイケメンとたくさん関わってそれが標準になってしまうらしい。


そんな破滅的な未来を歩まないように春樹には頑張ってもらおう。


冬歩的には叶が港区に染まった方が都合が良いんだろうけど……


「冬歩ちゃんもそう思うでしょ?」


「え、ああ、そうね」


さっきから冬歩の元気がない。NTRの話となったら、食いついてきたのに、今は全くそんな様子がない。


「ごめんなさい。尾行はここまでで良いわ」


冬歩が足を止めた。


「は?」


「今日はありがとう。二人には迷惑をかけたわ」


「あ、ああ」


申し訳なさそう言うと、春樹たちとは真逆の方向を向いた。


「私は本屋に寄ってから帰るわ。また、明日、学校で会いましょう」


制止する間もなく、歩いて行ってしまった。どうしようかと考えていると灰銀と目が合った。


「どうする、瑪瑙君?」


「どうするもこうするも、せっかくの日曜なんだ。残り少ないとはいえ、休日を満喫しないともったいないだろ?」


冬歩の尾行の手伝いから解放されたのなら、やりたいことをやるのみだ。ただ━━━


「それもそうだね。私たちもカラオケにでも行く?瑪瑙君だけにリサイタルを開いてやってもいいぜ?」


……なにその魅力的な提案。普段の俺ならホイホイついて行ったんだろうなぁ。


「悪い、これからやることがあるんだ。だから、灰銀さんは先に帰っててくれ」


灰銀は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに意味深な微笑を浮かべた。


「瑪瑙君」


「なんだよ……」


「ツンデレはモテないぜ?」


「うるさいな……」


察しの良さでも天才なのかよ。



千寿パークには巨大な立体駐車場がある。その屋上には休憩スペースがある。肌で風を感じられるし、ベンチもあるし、自動販売機もある。『魚屋通いの猫』さんの新作が出たら、俺もそこで読むことがある。


ただ、梅雨も明けて本格的に夏にさしかかってきたところだ。そんな中で、外に出ようなんて物好きは中々いない。よっぽどのことがない限りはだ。


目論見通り、冬歩がベンチに座っていた。ポニーテールは解かれていて、眼鏡とベレー帽は外されており、両手で缶ジュースを握っていた。俺に気が付くと、目を見開いた。


「瑪瑙……?」


「ここの本屋の特典を買い忘れててな。俺としたことが、とんだドジを踏んだ。ついでだから、ここで本を読みに来ただけだ」


「そう……」


ベンチは冬歩が座っているが、一席分は空いてる。冬歩がいるということで、席に座らないというのは気に入らないから、無理やり座る。


「唯煌さんは?」


「先に帰った。明日の放課後、部室に行くってさ」


同じ目的を持つ同士、灰銀はかなり冬歩を気に入っているようだ。


「それで何の用かしら?そろそろここを降りようと思うのだけれど……」


「は?冬歩に用なんてあるわけがないだろ?」


「ここの本屋の特典を購入したっていうのは『魚屋通いの猫』宛に届いていたわよ。ねぇ、『魚屋さん』」


良い笑顔だなぁ……さっそく恥をかいた。


「……俺からのメッセージなんて無視されてると思ってたよ」


売れっ子作家だ。毎日何百通とメッセージが届くに違いない。そんなものに一つ一つ目を通していては、時間がどれだけあっても足りない。


だから、読まれないことを前提でメッセージを送っていたんだけどなぁ……


「不本意だけど、第一のファンにはミジンコくらいの感謝はしているのよ?」


驚いた。冬歩にお礼を言われるなんて思わなかった。


「何千、何万文字と書いた文章が誰にも評価されないのは本当に辛かったわ。なんで、こんなの書いてるんだろうって虚無になった期間もあった。そんな中で、『魚屋さん』が送ってくれる感想だけが私の支えだったわ」


「そうか……」


ファン冥利に尽きる。


「いつか会えたらお礼を言おうと思っていたわ。貴方のおかげで私は小説家になれましたって。それがまさか瑪瑙だったなんてね……ネカマは慣れてるけど、ご近所の大嫌いな貴方だとは夢にも思わなかったわ」


「お互いな」


サイン会に行ったときのことが思い出される。アレから俺と冬歩の力関係が固定された。悪い方に。


「ねぇ……瑪瑙から見て、私って天才?」


「いきなりなんだよその質問……」


「いいから答えなさい」


意図は分からないが質問に答えるのは簡単だ。


「天才だよ。俺は『魚屋通いの猫』さんのことをそう思ってる」


「そうね。そうやって私のことを一生崇めなさい」


「うぜぇ……」


悔しいが、事実上の敗北宣言だ。引退を聞いただけでうろたえてしまったのだから。


「私のことを天才小説家だと思ってくれるファンの賞賛は悪くないわ。クリエイターは自分の作ったものがその他大勢に認められた時だけに報われるのよ」


「俺には一生分からん感覚だな」


「そうね。これは与える側、生み出す側にいる私たちだけの特権だもの……」


特権という割には冬歩の言葉に寂寥感が感じられた。


「私は皆に言われる天才って言葉は大好きよ。でもね、兄さんに”天才”って言われるのだけは少し寂しいのよ。理由はわかる?」


「分からん」


「……少しは考えなさいよ」


とは言われても、この手のクイズは答えても当たらないのだ。ソースは灰銀。天才の思考なんてよくわからん。


『天才』という言葉には色々な意味がある。例えば、なんでもできる万能な人間を天才と呼んだり、一芸に秀でて世界を変えた人間を指したりする。世界で何億、何兆と稼いでいる実業家やプロスポーツ選手を言うこともある。


共通するのは凡人にとっては見上げなければならない星のような存在だ。


結論、改めて何も分からん。


「灰銀も冬歩も俺にとっては間違いなく、天才側の人間だ。そんな人間の気持ちを凡人が分かるわけがないだろう?」


「ええ。そうよね。瑪瑙だものね」


いちいち俺を罵倒しないと気が済まないのかこの女は。


冬歩は一度ため息をついた。


「兄さんの”天才”には理解できないものに対する諦めが含まれてるのよ……」


そう口にした冬歩の声からは悲哀が滲み出ていた。


「私の作品の意図はわかるでしょ?」


「まぁな……」


冬歩の主戦場は現実世界の恋愛だが、異世界やVR、ローファンタジーなども作品としてはある。けれど、例外なく、春樹と冬歩の恋愛がメインになっている━━━冬歩の作品は春樹へのラブレターだ。


「兄さんは私と瑪瑙の恋愛小説だと勘違いしてるのよ?あの時だけは兄さんと瑪瑙に殺意が湧いたわ」


俺関係ないじゃん……


口にしようと思ったがそれは憚られた。


「どれだけ書いても兄さんは私の想いに気付いてくれない……!挙句の果てには、どこにでもいそうなかわいい子をたぶらかして私を捨てる始末。本当に嫌になるわ。私の十年間の片思いはどうなるのよ……!」


冬歩の声が震え、そして、涙がこぼれ落ちた。


「作家って言うのは自分の秘めた想いを文字にして、文章にして伝えるのが生業なのよ?『文章が緻密』?『感情表現が豊か』?『キャラ同士の恋愛が尊い』?『純文学みたいだ』?『十万部を突破した』?『大ヒット』?『アニメ化』?━━━世間の声はどいつもこいつもクソだらけ!何も分かってないじゃない!」


缶が潰されて、中身が冬歩の服を濡らしたが、意に介していなかった。


「私が一番伝わってほしい人に届いていないじゃない!?大好きって毎日毎日毎日、伝えているのに何も届いていないじゃない!?世界中の人間が私の意図を理解してくれたって、兄さんに伝わらなかったら意味がないじゃない……!」


冬歩から荒々しい雰囲気は消えた。そして、感情を押し殺すように嗚咽を漏らした。


「なんで兄さんは私を”天才”なんてつまらない枠組みに閉じ込めて、私の想いに気付いてくれないの……?私はただ、進条春樹に恋をしている、ただの女の子なんだよ……?私を女の子として見てよ……ずっと一緒に居てよ。お願いだから、私の知らないところで勝手に幸せになんてならないでよ……」


冬歩から力が抜けた。


「こんなクソみたいな世界、滅んでいいわ……こんな苦しいなら誰か、私を殺してよ……」


ふと、ベートーヴェンのピアノ曲で『エリーゼのために』を思い出した。


ベートーヴェンがエリーゼという女性に対して求婚するために送った歌らしいが、ベートーヴェンは生涯独身だ。つまり、恋は成就していない。


それでも、世界的な名曲として、今なお受け継がれており、たくさんの人に愛されている。


そんな状況をベートーヴェンはどう思ったのだろう。


エリーゼに受け入れられなくて悲しんだのだろうか?それとも世界中で売れて喜んだのだろうか?


故人に何を聞いても答えが返ってくるわけがない。


同じような状況で苦しむ冬歩に何かしてやれることはないかと格好つけて自分の蘊蓄を頼りにしてみたが、結局、何もできることはなかった。


本当に無力だな、俺。

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