17 ■■の■■を知った後
兵庫県神戸市兵庫区、松本通。
車二台が余裕をもってすれ違える幅の生活道路が、定規で引いたみたく直角に張り巡らされ、両脇の歩道がタイル張りになっているような洒落た街並み。住宅街ではあるが徒歩で十分圏内に駅があり、そこまで行けば飯屋もパチンコ屋もある。アーケードもあるし。
水戸角の自宅は、その一角に建っていた。
道路沿いの二階建て。外壁は青白く、3DKの室内は一人で住むには広すぎるように思えた。
内装は、玄関から入ってすぐのダイニングキッチンに関してはモノクロで統一されているが、……それ以外の浴室とか、トイレや和室については、やる気が失せたのか色とりどりだった。
また、椅子が二脚あったり、食器が二つずつあったりと、やはり同居人の存在が窺える箇所が複数あったが、少なくとも俺と黒白が住み始めてから一週間は誰も訪れなかった。
別に詮索はしない。
俺と水戸角は、別になんでもないのだから。
「………………………………………………」
一週間前。
大阪市をどうにか脱出し、水戸角の自宅に転がり込んだ我々がまずしたのは、式長の生首を冷凍庫に隠すことだった。
というのも、兵庫に向けて逃走している最中、彼岸から電話が掛かってきたのだ。……彼女は我々が事情を説明するまでもなく、既に事の顛末を知っており、簡潔に二つだけ命令した。
「出航までの三週間、大阪の外で身を隠しなさい」
「渡された生首はバレないように遺棄するか、溶かすか凍らすかしなさい」
結果、我々は水戸角の自宅に転がり込み、生首は冷蔵庫の冷凍室で保管するに至った。……それから一週間経つが、今のところ敵から襲撃されたりとかもない。
では、敵から逃げ回るわけでもない我々が、何をして一週間を過ごしていたのかというと、……共通して言えることは、「来るべき時に備えての行動」的なことは、誰もしていなかった。
俺はパチンコしに出かけるかタバコ吸いに出かけるか、社用スマホで漫画を読むか家事するかして過ごし、
水戸角はダイニングのテレビで映画を観るか家事するか、運動するかして過ごし、
黒白は一階の和室から出てきたところをしばらく見ていない。時おり妙に甘い声で歌う声が壁越しに聞こえてくるくらいで、後の時間をどう過ごしているのかは検討もつかなかった。
……このまま何の策も講じぬまま船に乗ったところで、為す術もなく船内で殺害されるのは目に見えている。
だが、仮にも「身を隠せ」と命令されている以上、敵陣営を探るような行動に出るのも得策とは言えず、……結局、各々が好きなように過ごしている。
今日は朝から、水戸角に誘われて二人で映画を観た。
ダイニングで、テーブルを挟んで座り、……洋画の、復讐物語を観た。
コメディやほっこり系ではない。彼女はカタルシスを求めているのだろう。
恋人が殺害されたことの敵討ちを主人公が見事果たすという、一連のシナリオを追うことで、……精神的鬱積の疑似的な解放を目論んでいるのだろう。
実際、映画鑑賞し終わった後の水戸角は、いささかオーバーなくらい慟哭した。
見かねて背中を擦ってやったりしても、しばらく泣いたままだった。インスタントコーヒーをアイスで出してやり、一口か二口飲んだあたりで、ようやく泣き止んだ(コーヒーが飲める程度に自然と落ち着いたという見方のほうが正しいかもしれない)。
ふと、水戸角は映画の感想を一言も話さないまま、震えた声で別のことを語った。
「ウチはさ、極性者を問答無用で殺すんは反対やったんやけどさ、…………何の罪もあらへん民間人を殺して、あまつさえ首を切り落として渡してくるような連中は、……言い訳の一つもさせんうちに、殺さなあかんのとちゃうかな」
両手で支えたコップに視線を落としつつ、彼女は明確な殺意を示した。
「……このままやられっぱなしでいいわけはないよね」
俺は毒にも薬にもならないような返事の仕方をしつつ、席に戻った。
ハッキリせえへん人やなと詰られるかもと思ったが、そんな元気もないという風に、水戸角はスンスンと鼻を啜っていた。
そして、しばらく両者とも無言のまま、エンドロールを眺めて薄暗い顔をしていたが、……完全にシークバーが行き止まると、水戸角は残っていたコーヒーを全て一気に飲み干し、
「ちょっと買いもんしてくる」
と出て行った。
俺はテレビを地デジに入力切替し、何かしらニュース番組をそのまま流しつつ、洗い物とかしながら思う。
……一週間前、黒白は、「壱陽に人生壊された被害者と触れ合おうのコーナー」と題し、俺と水戸角をタイラ氏と会わせた。この面会は彼岸の計らいということだった。
この言い回しに、俺は違和感を覚えていた。「非倫理的だ」とか、そういう意味ではなく。
聞き取り調査ではないのか? と。
被害者と面会し、加害者側の手口やその他情報などを引き出す。……我々がしたのは、現にそういう「聞き取り調査」のはずだったのだが、……その調査が済んでから黒白は彼岸に連絡を取っていなかったはずなのに、彼岸はその後の電話で、
「出航までの三週間、大阪の外で身を隠しなさい」
と言っていたのだ。……すなわち、彼岸は壱陽がキナ臭い船舶事業を運営していることを、調査結果を聞くまでもなく予め知っていた風だったのだ。
それだけなら、「彼岸はタイラ氏と我々の会話を盗聴でもしていたのだろう」で片付けてもいいかもしれないが、……しかし彼女は、式長の口内に差し込まれていたチケットの乗船日が、三週間後であることも知っていたのだ。
タイラ氏の会話で出た、出航のスケジュールに関する情報と言えば、「ツァンティが入っている沖縄行きの船は年に二回出る」ということと、そのうちの一つは冬頃であることぐらいで、……もう一つの船が二〇二五年の何月の第何週に出るのかとかは、誰も口に出していなかった。
彼岸は、どうやってその日程を知った?
盗聴でなければ盗撮か? 超高性能の隠しカメラが我々の動向を微に入り細を穿つ精度でもって常に映像に収めていたのか? 彼岸はチケットの日付をカメラの映像で確認し、「次の出航は九月の第二週なんだな」と把握した上で命令の電話を寄越したのか?
彼岸が盗聴ないし盗撮によって、我々の調査結果をリアルタイムで共有していたという線は、まあ有り得なくはないのだが、
彼岸は予め、ツァンティのこともそこで繰り広げられる壱陽の悪だくみも何もかも、全部を知っていたという線も有り得るのではないか?
……そう、有り得てしまうのだ。
彼岸は何もかも全てお見通しであり、だから情報収集活動などをわざわざ我々にさせる必要はなかったのだが、……しかし、被害者と我々を対面させたら、打倒壱陽のモチベーションが高まるかもしれないと思い、……単純に、部下に気合を入れさせるためだけにタイラ氏と面会させたのだという可能性は、充分に有り得てしまうのだ。
言い換えると、
情報収集活動という意味では別にしてもしなくても構わなかったタイラ氏との面会により、式長は犬死させられたのではないか。
と考えられてしまうのだ。
「壱陽に人生壊された被害者と触れ合おうのコーナーですわ」
「そないした方が色々イメージし易いしモチベーションも上がるやろっていう、ボスの粋な計らいですわ」
モチベーション向上のためという、ふわっとした目的は提示しつつ、
「聞き取り調査するために被害者と会う」とは一言も言わなかったのだ。
「………………………………………………………………………………」
俺は、……木目調のスライド扉で仕切られた、畳の部屋を見やる。
……この一週間、黒白が家から出た形跡は、深夜帯のみである。
つまりそれ以外の時間帯は家の中に居るはずなのだが、食事時のタイミングですら我々の前に姿を現さない。……早い話が、誰とも顔を合わせたくないということらしい。
……精神状態が回復していないのは明らかなので、こちらから扉を開けて励ましてやろうかとも考えたが、水戸角に「次は殴られるだけじゃ済まんかもよ」と忠告され、……だから今は、黒白が自発的に出てくる時を待っている。
殴られるだけでは済まない。錯乱のあまり俺を殺すかもしれない。
そしたら黒白は、警察に捕まるか犯行を隠蔽するかしなくてはならなくなり、いずれにせよ自由に行動できなくなるから、……式長の敵討ちをするのも必然的に困難になり、一時の気の迷いで俺を殺してしまったことを悔いつつ、自害するまである。それでは誰も救われない。
だから俺が彼にしてやれることは、日中は出来るだけ家から出るようにして、彼が部屋から出やすいようにしてやることだけなのだ。俺や水戸角が家に居ない間は部屋から出てきているようだから………………………………………………。
洗い物が済んだ。テレビでは大阪市平野区で一週間前に発生した、二十代前半の女性の生首持ち去られ事件について報じている。テレビを消す。
……俺は洗面台の前に立ち、一週間前までの俺とは全く違う見た目であることを確認する。
髪は黒染めし、顔と首の傷は化粧で隠している。……やり方は水戸角に習い、自力だけでも時間さえかければ誤魔化せるようになった。
服装もタイトなものに変えて、……シルエットからディティールから、俺と分からないように仕上がっている。これなら滅多なことがない限りバレないだろう。
「よし」
俺は財布と社用スマホと合い鍵だけ持って、家から出る。……まだ昼前だから、とりあえず涼めそうな場所を探して、マンガ読むなり動画見るなりして時間潰して、腹が減ったらマックかケンタッキーで済ませて、それから晩飯時までパチンコして帰ろうかな。化粧が落ちるからサウナとか行けないし、他にすることないしな………………………………………………。
俺は歩みを止めて、家に戻る。……動画を視聴するためのイヤホンと、タバコを吸うためのタバコとライターがないことに気付いたのだ。
鍵を開けて、靴を脱ぎ、ダイニングに繋がる扉を開く。
そこで俺は、ドアノブを掴んだまま硬直した。
黒白と出くわしたからだ。
全裸で、左手の前腕を重点的に全身に切り傷があり、筋肉質な肉体は不健康に生白くなっていて、……髪はぼさぼさに乱れ、脂ぎっており、……冷蔵庫の前に立ち、勃起した陰茎を右手で握り締め、血走った眼を見開き、息を切らしつつこちらを振り向いていた。
冷蔵庫は下から二番目の段が開いており、そこは式長の生首があるはずの場所だった。
……俺はこの瞬間、自分がどうするべきなのか一切分からなくなった。
このまま何も取らずに立ち去るべきなのか、無言で必要な物だけ回収してから立ち去るべきなのか、……何か声をかけるべきなのか、だとしたら慰めてやるのが正解なのか、または叱るべきなのか、……選択肢だけがポツポツと思い浮かぶばかりで、その内のどれが最適解なのか合理的に判断できない。折角の化粧が台無しになるのではないだろうかと思われるほど、汗が噴き出て止まらない。
黒白は左手で後頭部を掻き、しばらく目を見開いて俺を睨んでいたが、……やがて陰茎から右手を離すと、冷凍室を閉じ、……なおも後頭部を掻き回しながら、照れ臭そうに苦笑し、
「帰ってくんの早かったっすね」と。……酒なのかタバコなのか、ガラガラにしわがれた声で。
「……あ、その、……タバコとか、イヤホンとか、持って出るの忘れてて」
言いつつ、テーブルの上にそれらが置かれたままであることを確認する。
黒白は、
「ああ、……そういうこと。出かけるには必須のアイテムですな」
ペタペタと、ダイニングの奥からこちらに向かってきて、途中で俺の忘れ物を手に取り、
和室の引き戸を開け、そこに放り投げ、中を覗き込んだ後、「おっ」と感嘆の声を漏らし、
爽やかな笑顔で振り向いて、部屋の中を指差しつつ、
「俺ン部屋の中にありましたわ。取ってええですよ」と。
「……………………………………」
これは、誰がどう見ても中々にヤバい案件というか、……あえて詳細に検討するまでもなく、何らかの
しかし俺は、無言のまま全裸の彼を横切り、部屋の中へと踏み入った。
……なぜかって、その方が安牌だと思ったからだ。
というのも、このまま俺が脇目も振らず一目散に逃げ出そうと試みたとして、カンガルーの如く発達した大腿筋を持つ彼の駆動力を前に、そもそも家から出られるのかどうかも怪しいし、……そうやって逃げる素振りをしたせいで、彼の神経を逆撫でしてしまい、そのまま逆恨みを受ける羽目になるのだとして。
その逆恨みの程度が、ただ殴打したり蹴ったりでは済まない可能性は、充分以上にあるのだ。……彼を人殺しにしないためには、俺はお望みどおりにしているべきだった。
部屋の中は荒れ放題だった。
恐らくは自慰に使ったであろう、クシャクシャに丸めたティシュが床一面に転がり、恐らくは排尿に使ったであろう、薄黄色いペットボトルが部屋の隅にいくつも転がり、恐らくは大便や吐瀉物をそこにしたであろう、ハエの集るバケツも部屋の隅にあり、酒の空き缶、タバコの吸い殻、錠剤の空き瓶、……そして、部屋の奥に投げ捨てられたイヤホンとタバコの手前に、……黒セーラーの上下と黒タイツが、きちんと敷かれていた。
異臭。そして熱気。
この真夏に、エアコンはおろか扇風機すら回しておらず、換気もしていない。……あるいはそれは、異臭を外に漏らすと近隣住民に怪しまれるかもしれないからという、彼の気配りなのかもしれないと、……気狂いの頓珍漢な発想にもなる。
鼻を衝く不愉快さに苛まれつつ、こうなるに至るまでの一週間を想像して、……俺は、最近読んだ漫画の内容を全て忘却するほどの、激しいショックを受けていた。喉が急速に乾燥して、なぜだか血の味がした。
引き戸が閉められる。
黒白は丸めたティッシュを踏み潰しつつ、蹴飛ばしつつ、部屋を右に左にと行き交い、……やがて、コンビニに売っているような安っぽいT字カミソリを拾い上げ、薄ら笑いを浮かべて俺に告げた。
「脱いで下さいよ」
唯々諾々と従った方が安牌だと判断したのは、他ならぬ俺自身だ。
正気でない指示を、正気でない俺が承諾した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます