18 水戸角と映画を観た後

 全裸になった俺を前に、黒白は鼻歌でオクラホマミキサーを奏でる。

 そして、穏やかな笑みを浮かべつつ、俺の顔面の下半分から足の指にかけて、丁寧な手つきでカミソリを走らせる。……剃った毛は畳に落ちていくに任せつつ、適宜カミソリを替えつつ。

 それが終わると、今度はウィッグネットを頭にかぶせてきて、コスメポーチ片手に俺の顔面を化粧し始めた。……いの一番に、渾身の傷跡消しメイクを落とすところから始めた。傷口がジンジンと痛む。

 実に慣れた手さばきだった。迷う素振り一つ見せず、熟練の画家のような手つきで塗りたくっていた。

 オクラホマミキサーは既に止んでいる。俺はキャンバスではないので、無言のまま描かれる気まずさにムズムズし、「上手ですね」と感想した。出来栄えを見ていない段階で上手も下手も分からないだろうと、言ってから気付いた。

 しかし黒白は特に気分を害した様子でもなく、ただただ穏やかな笑みで、

「タコちゃん相手に何遍もやっとったっすもんねぇ」

 と懐かしむだけだった。

 ……式長さんの名前を出されると、どう返事していいやら難しい。余計なことを言って無駄に刺激するのも避けたいし、「そうなんですね」と相槌するのが適当だろう。そうした。

 すると、会話はそこで途切れてしまった。……今の黒白は、俺を化粧することにしか関心がないようだった。

「なぜ黒白は俺をメイクするのか」

 ということについて、当然俺は考えようとするのだが、……只今の俺は、「俺はいま考え事をしているのだな」と痴呆じみた薄ぺらな感想を算出することしかままならず、熟考に至ることは出来ずにいた。

 環境である。

 気の触れた人間が、鼻息が掛かるほどの至近に居る恐怖感、口で呼吸していても鼻腔の辺りに異臭が滞留する気持ちの悪さ、肌に纏わりつく鬱屈とした熱気、汚物に塗れた室内の有り様、……この環境下では思考に逃げることすら叶わない。ただひたすら周囲を取り巻く不愉快要素の数々を己の内部に取り込み続け、そして絶望と共に嘆息するということしか出来ない。……脳髄はむしろ積極的に委縮し、思考活動を放棄したがっているように思えた。と思えた。

 どれくらいの時間が経ったか、顔面のメイクが終わると、今度は首周り、肩、胸など、顔面に比べて幾分か簡素ではありつつ、全身のメイクに取り掛かる黒白であった。

 注文の多い料理店を連想する。連想は熟考せずとも出来る思考活動であるから出来る。すなわち彼が俺の毛を剃ったりするのは食べ易くするためであり、すなわち彼が俺に塗りたくっていたのは美味しく頂くための調味料であり、すると彼は暴食の壱陽に暗示を受けて、異常食欲を来しているのかもしれないぞ。いやでも、黒白には極性同意が効かないんじゃなかったっけ。あれ、するとそれは、つまりその、ううん。

「牛護さんは学生時代、何の部活しとったんですか?」

 黒白が俺の脇腹を塗りながら尋ねてくる。

「……帰宅部か幽霊部員ですね」

「あー、なんかそんな感じするっすね。……俺はね、小中は陸上で、高校は水球部に入っとったんすよ」

 自分語りしたいための、前振りとしての質問ということらしかった。

俺は、「ああ、それで体型がガッシリしてるんですね」と相槌する。

「まあね。……で、その時のマネージャーがタコちゃんやったんすよ」

 黒白は慈愛に満ちた顔つきになりつつ、思い出を語らう。

「あの子は背ぇ高くてその上美人やったんで、それはもう男子部員共からひっきりなしに好意向けられとったんすけど、『自分より背が高くない人は無理』って言うんで部員の七割か八割は対象外になって、身長一七九センチ以上の上澄み同士で小競り合ってからなんとか俺が恋人の座をもぎ取ったんすわ。入学して一年は経っとったかなぁ」

「……そしたら式長さんとは、もう十年近くの付き合いだったんですね」

 毒にも薬にもならない返事をする。出来るだけ相手を刺激しないように。

 黒白はゆるりと首を振り、「いや、そんな長い付き合いにはならんかったんすよ」と答える。

「なんせタコちゃんは、俺らが高校三年の時に死んでもうたんでね。……なんで、あの子と俺が交際しとった期間は、せいぜい一年かそこらやったんすわ」

「…………心中お察しいたします」

 そうか。式長はずっと前に死んでいたのか。

 まだ高校生の、二十歳にもなっていない時分に…………………………?

「うん、そうなんすよね。心中お察しやったんすよ。お察し申し上げます言うてね」

 黒白は俺の腹部を塗り広げつつ、話を続ける。

「で、そんな感じで俺が自分の部屋ン中でお察ししとったら、妹がどこで仕入れてきたんか俺の高校の黒セーラーだの黒髪ロングのウィッグだの調達してから、タコちゃんになりきって俺のこと慰めてくれよるんですわ。……妹は五百円の円って書いて『まどか』言うんすけどね」

 黒白は、ことさら俺のヘソの穴を執拗に塗りたくりつつ語る。

「俺はもう、そんなことされよう日にはね、円にブチギレてしもたんすわ。……『死者を冒涜しとるんか』って、『そういうことはお兄ちゃんにやらせろ』って、連日連夜妹をカスタマイズしとったんすわ。……一から化粧覚えたり、ウィッグに整髪剤かけたり切り揃えたり、体格の差を制服の着せ方で誤魔化してみたりとか、とにかく執念でタコちゃんを完全再現したろってやっとって、……半年くらいかな。俺は円のことタコちゃんとして認識したうえで、ちゃんと果てることが出来たんすわ」

 黒白は俺の背中を塗り広げつつ、さぞ感慨深そうに懐かしむ。

「後にも先にも、アレが俺の人生の絶頂期でしたなぁ。……妹っていう、どんだけ頑張っても勃起なぞ不可能な相手をして、ちゃんと興奮して絶頂する。明確に円をタコちゃんにカスタム出来たっちゅう証左ですからな。……その日だけで何回射精したのか分からんすもんね」

「…………………………………………………………」

 異常環境のあまり、俺は話がちゃんと聞けていないのだろうか。

 そうでないとしたら、彼の話はあまりにも………………………………。

「ただね、一通り再現タコちゃんとのプレイを楽しんどったのも束の間、致命的な問題が発覚しよったんすわ」

 黒白は俺の手の指先を磨きつつ回顧する。

「というのもね、プレイ中に黒セーラーをちょっとはだけさせたり、パンツずらしたりする分には大丈夫やったんすけど、あんま脱がしすぎると扮装が破綻して、円にしか見えんくなってしまうんですわ。……これがなんで起こるのかって、単純に俺の扮装技術が不足しとったからですな。黒セーラーっていうタコちゃんのトレードマーク無しでは成り立たんくらい、当時の俺の扮装技術は未熟やった」

 黒白は俺の下半身に着手しつつ、以下略。

「そう来たらもう、俺は更なる技術向上に取り組まなあかんとなりました。……カジュアル系からフォーマル系から、アニメキャラのコスプレからメンズファッションから、何から何までひたすら円に着せつつ、その上でタコちゃんに見せるためにはどうすればええかを模索しとりました。……どんな格好しとっても、見る者に『タコちゃんや』と錯覚させられるクオリティの扮装を、……私服姿のタコちゃんと駅前で待ち合わせして、そっから浴衣に着替えさせたり、全裸にひん剥いたりして、翌日に解散するその時まで一時たりとも円の面影が思い浮かばないような、そんな完全完璧な扮装を俺は追及しとりました。いずれは結婚する気でおったんでね」

 股のあたりをテープとか切ったり貼ったりして女性器を再現しつつ、云々。

「で、そういう風に頑張っとったら、段々と本質的なことが分かってくるんすよね。……すなわち、人間には『核』が存在する。この核というのは換言すると『その人らしさ』であって、……この『核』があればこそ、久しぶりに会う旧友の見た目が当時と全く違っていても、あれは旧友の○○君だなと認識することが出来る。つまり扮装とは、扮装させたい対象の『核』を再現するのはもちろん、その人本来の『核』を徹底的に毀損するということもせなあかんわけですわ。……まず、円を徹底的に円でなくしてからでないと、どれだけタコちゃんの核を再現させようと思っても、円の面影がチラついてしまうんでね」

 太ももから膝にかけて塗りたくりながら紡ぐ。

「よっしゃ分かったと。俺も俺で覚悟が決まっとらんかったんやなと。……妹の人生を全否定しつつ、その下地にタコちゃんの人生を塗りたくっていくっていう、その一連の行為の本質を自分は知らんぷりしとったんやなと。……さんざんまぐわっといて、いつまで俺はお兄ちゃんぶっとるつもりやって、心機一転して修羅になろうとしとった矢先でしたわ。ボスが俺の前に現れたのは」

 膝から足首にかけて取り掛かりつつ。黒白は語る。

「ボスは言いました。『式長鯛子の死は事故によるものではない』、『極性者という異能力者の差し金だったのです』と」

 俺の足の甲から裏まで愛おしみつつ。

「俺は、……円も大学卒業したとこやったんで、金貯めて日本から脱出して、海外で結婚するつもりやったんすけど、……事故やなくて事件やったなんて、そんな話聞かされた日にはもう怒り心頭ですわ。新婚生活は敵討ち済ませてからやって心に決めて、超越会入りし、しばらくは北風探偵社の社員としてダミーの仕事こなしつつ、……極性者狩りの指示が下るのを待っとったんすけどね」

 足の爪を磨きつつ。

「まさか円までやられるとはねえ」と。

 そうしている間に化粧が完了し、次は衣装を着せられる。

 ブラの内側には床一面に転がっている最悪の緩衝材を詰められ、湿気ったショーツ、タイツ、黒セーラー、……腰上までの長髪ウィッグをかぶされる。細部を引っ張ったりずらしたりして調整されていき、……俺は、穏やかに微笑みつつも真剣な眼差しをしている黒白に対し、

「心中お察しいたします」

 とすら言えなかった。

 俺は【同意】していたからだ。

 彼の苦悩も、絶望も、発狂も、その何もかもに感じ入ってしまったからにはもう、……軽々に相槌など出来なくなったから。

 それに、俺は円が扮する式長鯛子しか見たことがないが、……彼女ならこういう場合、「心中お察しいたします」なんて言わないだろうなとも思ったから。

「うん、上出来」と。

 黒白は俺のウィッグを最終調整してから、ことさら口角を釣り上げて笑み、……俺は両肩を掴まれて後ろを振り向かせられ、部屋の隅まで連れていかれる。

 そこにはスタンド型の姿見があった。足元から頭のてっぺんまで、全てそこに映っている。

 牛護金次は消滅していた。

 俺の眼か頭が狂っていなければ、そこで両目と口をバカッと開いて驚愕しているのは、上下黒のセーラー服を着た女子高生だった。

 体つきや顔つきも、成人男性とは到底思えぬ、中性的とかでもない、完全な女子高生だった。

 ただ、俺の知る式長鯛子とは、どこか違うように思えた。

 式長と比べると全体的に輪郭が柔らかく、

 式長と比べると丸顔で、

 式長と比べると目の位置は低く、瞳は大きく、

 総じて幼い感じの仕上がりだった。……男性から女性へと扮装させるにあたっての、それは女子高生らしさを脚色し過ぎた結果なのだろうかとも勘繰ったが、

「我ながら傑作っすねえ」

 全裸の黒白は満足げに、身を屈めて鏡を覗き込んでいた。

「俺のこと励まそうと、頑張ってタコちゃんの真似して慰めてくれた時の円にそっくりですわ」

 あ、そっちだったのか。道理で。

 そして黒白は、再び俺の肩を掴んで、自分の方を向かせ、……右腕で俺を抱き締め、左手で俺の後頭部を掴み、唇を合わせてきた。

 口呼吸を防がれたため、生ゴミのような体臭を至近距離で嗅ぐ羽目になる。……口内が掻き乱されドロドロになり、高熱が伝播し、大木の幹のごとくそそり立ったものを俺の腹部に押しつけてくる。

 妹では興奮しないんじゃなかったのか? ……いや、違うのか。

 俺は男だ。そういう意味では絶対に妹にはなり得ない。どれだけ姿かたちを似せたところで。

 だから安心して欲情できるのだろう。……亡き妹の幻影を抱擁して愛でつつ、もし円が妹でなければその慈愛から派生していたであろう恋愛とか性愛についても、諸々すべて混ぜこぜにした上でキスすることが出来るのだという、そう。そういうメカニズムに違いなかった。

 しばらく愛でられた。押し倒され、スカートの中をまさぐられた。

 本能的な嫌悪感が全身を迸る、今すぐにでも相手の喉笛に噛みついて噛み千切って、この場を一目散に去りたい気持ちで一杯になるが、一方で極性者としての俺の本能は、黒白の混沌な愛を受け止めて同意したがっており、ともすれば彼に対して恋慕すら覚えている。性器は一向に不能のままだが、手の平は相手の頬を、背中を、肩を撫でていた。

 いよいよ事態は究極に至ろうとしていた。明確な段階を超えようとしていた。黒白の方には一切の躊躇いなど見られず、真っ直ぐ俺の眼を見ていて、……俺の方は、ただ息を切らしつつ展開を静観していた。

 水戸角が帰って来るまでに済めばいいなとは思っていた。

 玄関のドアが開く音がした。

 黒白は夢中でいて、勢い衰えることなく、……その間にも、足音は和室に接近しつつある。

 二人分の足音。

 この時点で異様だ。……壱陽に所在がバレたのか?

 俺はこの段になって初めて、黒白に対して抵抗を示すが、……元水球部の膂力を前に無力の極みであり、むしろ相手を興奮させてしまったらしく、展開が急になりつつあった時分。

 引き戸が開放される。

 ダイニング側から我々を見下ろす影が二つ。

 一つは、眼帯に白コートの女。無表情で部屋を一瞥した後、我々に目を呉れる。

 そして、彼岸より僅かに前に出て、並び立ち、……部屋の様子には無関心で、俺の方も見ず、ただ黒白だけを鷲のような厳しい目つきで睨む、褐色肌の少年。

 ……少年にしては前髪が長く、日本人にしては彫りの深い、肌の浅黒い、……半袖とハーフパンツで、裸足の出で立ち。

 この異常事態をして無感動であり、

 只者ではない。

「念のため、変装してから出て下さいと言うつもりでしたが、……ここまで変わり果てているとは」

 彼岸は冷ややかな眼差しをこちらに向け、両手はコートのポケットに突っ込んだまま、深みのある低い声で感想する。

 黒白は、直ちに返事はせず、……のっそりと立ち上がり、歪んだ姿勢で不安定し、

「質問ええですか」

 刺々しい声色遣いで尋ねる。

「手短でよければ。我々が自由に動ける時間は有限ですので」

 彼岸は右手の裾を捲り、内側につけた無骨な腕時計を見る。

「俺らに盛岡タイラと接触するよう命じたのはなんでですか?」

「話した通りです。壱陽の残虐さを分かりやすく知らしめ、壱陽討伐のモチベーション向上に繋げるための企画でした」

「情報収集するついでではなく? あくまでモチベーション向上のためだけにやらせたと?」

「タイラ程度の人間から得られる情報なら既に集め終わっていました」

 彼岸はにべもなく言い放つ。

 半身になり、引き戸の枠にもたれ、独り言のように呟く。

「黒白はタイラの容体を観察したらすぐ退散すればよかったのに、勝手に独断で事情聴取などしたから、……壱陽を無駄に警戒させることになり、そのせいで妹は殺されてしまった。……きっと兄の愚行を恨んだでしょう。『もっと賢い兄が良かった』と」

「………………………………………………………………」

 黒白は、ガリガリ、グチグチと、後頭部を掻き毟りはじめる。

 ……俺の推測は、当たってしまっていたのだ。

 彼岸は、情報収集という意味合いでは全く無駄な行動として、我々と盛岡タイラを面会させ、……そして、黒白円は我々のモチベーションアップと引き換えに殺されたのだ。

 死の意味が変わった。

 有意義な死が、無意義な死に変わった瞬間だった。……しかし。

 と、俺が疑問の脳に切り替わろうとしていた矢先、それを先回りして黒白が投げかけた。

「……指示が悪かったでしょ。探偵を名乗りつつ被害者と面会しろって言われたら、そんなん聞き取り調査するに決まっとるでしょ。探偵ってそういう職業なんやから」

 そう。行間を深読みした黒白の側にも問題はあるとは言え、……彼岸は彼岸で、黒白に注意を促すべきだったのだ。……タイラ氏に深入りしすぎてはならない。壱陽に気取られてはならないのだと。

 コミュニケーションエラー。黒白円を死なせた責任は、彼岸にもある。……と思ったのだが、

「ええ。そのように解釈される可能性は考慮していました」

 彼岸は何ら悪びれず、なおも半身に構えたまま放言した。

「私は、『この言い方をすれば黒白は勘違いするだろうな』と思っていた。……つまり、全ては案の定だったのです。私はこうなることを予測していました」

 黒白は、……うんともすんとも言わない。この角度からでは、どんな表情をしているのかも分からない。

 彼岸は、ただの強がりとかではなく、本気でそう言っている。

 なのだと。

 眼帯をしていない右目は、何ら動揺していなかった。

 首が回り、冷ややかな眼差しを向ける先は、直立した黒白の顔。

「動機ですよ」

 彼岸は己の考えを淡々と開示する。

「殺人に至るまでには強い動機がなくてはならない。ただ私が『殺せ』と命じただけでは不安が残る。ここぞという時に極性者を迷いなく殺せるだけのモチベーションと動機を与えれば、その不安は幾分か軽減される。……私が飼いたいのは人ではなく、修羅なのです」

「………………………………………………………………」

 黒白は頭を掻くのをやめる。

 しばらく彼岸と無言で睨み合った後、

「それってさ」と。

「壱陽駆除計画の当日までに、ボスはどないかして俺らを壱陽に襲わせる気でおったってことですよね。……その展開に持っていくため、手を変え品変えする気でおったと」

「ええ」

 彼岸はにべもなく言い放つ。

「黒白円が犠牲になるようにしつつですね。あれは戦力になりませんから」

「……おいおいおいおい」

 黒白は両手で前髪をかき上げつつ、「おい」と。

「おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい」

 黒白は、それでもまだ耐えた。

 両手で顔面をすっぽり覆い、無理やりに絶叫を抑え込みつつ、徐々に吐き出し、

「あんたと出会ってから俺は不自然すよ」と。

 くぐもった声で訴える。

「俺は円のこともタコちゃんのことも大好きやのに、こない危ない計画に己が参加するって段になっても、遠ざけんと近くに置いといて、色々手伝わせたりして、……矛盾しとるんすよ。不自然なんすよ。誰かに操られとるとしか思えんくらい。……ボスがそうさせたんすよ。俺に暗示でもかけたんすよ。最初から何もかも仕組んどったんや…………………………」

 彼岸はにべもなく、

「言いがかりでは?」と吐き捨てる。

「う、」

 黒白が決壊する。

「うううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう」

 両手で顔面をゴシゴシと擦り、全身が震え、筋肉が隆起し、……生白い肌がぬらりと光り、ヨダレなのか何なのか汁をこぼしていた。

 今にも爆発寸前の最中、黒白は両腕をダランと下ろし、震えと隆起も引いて、……嵐の前の静けさとでも言おうか、底知れない感じを湛えて佇んでいた。

 その時だった。

 黒白は腰を曲げて床に手を伸ばすと、畳を片手で引き剥がして持ち上げた。

 繊維に爪を差し込んだのか、指を抉り入れたのか、……とにかく、今の彼ともなると、それすらも可能だった。……己の肩の高さまで持ち上げ、彼岸を睨んだ。

「ふむ、これが気違い力」

 彼岸はようやく身の危機を感じたのか一歩引く。

 そこを目掛けて、黒白はラケットでも振るみたく、……一歩大きく踏み込み、全身の筋肉を漲らせ、……大きく振りかぶった畳を、右上から左下にかけて思い切り叩きこんだ。

 横薙ぎの攻撃は引き戸もろとも吹っ飛ばし。ダイニングと和室の仕切りがなくなる。

 畳から舞い上がったホコリが視界を不良にし、……うっすらとその奥に見えるのは、褐色肌の少年が彼岸を肩に乗せて、悠然と佇んでいる姿だった。

 自分より一回りも二回りもある相手を片手で軽々と担ぎ、壁際まで後ろ向きのまま跳躍してのけたのだ。

 しかし黒白は何らの感動も示さず、畳を片手で掴んだまま彼岸らに寄っていく。

 対する彼岸は少年の肩から降り、身を屈めて少年の耳元に何か囁く。少年は鷲の如く厳格な目つきで黒白を睨み、返事も頷きもしない。

 黒白と彼岸の距離が、一畳分まで接近する。

 再度、黒白は畳を右から左にフルスイングした。面ではなくフチが当たるように、かつ広範に攻撃が行き渡るように、ほぼ水平に横薙いだ。

 が、少年は畳に踵落としを決め、両手をポケットに突っ込んだまま床に叩きつけて抑えた。

 黒白は唸り声を出しつつ畳を持ち上げようとするが、少年の上からの抑えつけにより阻まれ、その間に彼岸は距離を取り、一対一の構図になる。

 膠着状態はそう長くは続かず、黒白が手負いの熊の如く咆哮しつつ腕を振り上げると、畳は弧を描いて持ち上がり、少年は半ば弾き飛ばされつつバク宙して着地するのだが、そこへ黒白が容赦なく畳を振り下ろし、少年は避け、モノクロの室内は滅茶苦茶に破壊され、……荒ぶる鬼神と化した黒白を、どうにか仕留めようと少年が隙を窺う攻防が、明確に開戦していた。

「………………………………………………」

 俺は和室の真ん中で立ち上がる。目の前の凄絶な戦闘を眺めつつ思う。

 少年の正体について気にならないわけではないが、それより強く思うことがある。

 ……彼岸は、ここで黒白に殺されておくべきなんじゃないか、という想いだった。

 なんというか、考え方に義がない。……我々の壱陽に対する殺意を高めるため、あえて円が死ぬように誘導したなど、人としての道を外れている。人間の命とか精神とかを軽んじすぎている。……黒白に洗脳めいたことをしていた容疑もある。「あんたと出会ってから俺は不自然すよ」と彼は言っていたのだ。

 俺は死にたい。唾棄すべき人殺しだと自覚しているから。

 ただし、彼岸に殺されたいと思う気持ちは、すっかり失せていた。

「あなたは牛護金次ですか?」

 彼岸は激戦の遠巻きから、俺に呼びかける。

 この見た目では牛護金次だと確信できないらしい。俺は「ええ、まあ」と返事する。

 彼岸は腕時計を気にしつつ、

「玄関先に車が停めてあります。水戸角も居るので先に乗り込んで下さい」と顎で示した。

 水戸角が人質ということだ。従わなければ殺すと。

「………………………………」

 俺は打ち倒された引き戸をどかし、下敷きになっていた俺の服やらスマホやらを回収して、……黒白の武運を祈りつつ家から出る。

 不思議なことに、家の外は随分と神妙だった。

 まだ夕方にも差し掛かっていない時分、本来ならもっと人通りがあるはずなのに、びっくりするほど人の気配がない。……後方の家屋から漏れ出る咆哮や破壊音の他は、信号機の電子音くらいしかなく、……ある種、夢の世界に迷い込んだような不気味さがあった。

 そして、家の前に車を停めているという話だったが、……これがそうなのか?

 俺は行く手を塞ぐように待ち構えていた、白色のマイクロバスと相まみえる。

 五人程度で移動するにはいささかオーバーだ。……水戸角以外にも誰か乗っているのか? あるいは何か乗せているのか? 迂闊に足を踏み入れたくない。

 運転席を覗き込むと、厳めしい顔つきをしたワイシャツ姿の中年男性が、ハンドルを握ったまま前方を見据えていた。バスはアイドリングしており、いつでも出発できるようにしていた。

 目が合いそうになり、俺は車の側面に回り込む。

 ……後部座席の窓は、内側からカーテンで隠されている。

 隠すような何かがそこにあるか、隠してするべき何事かをそこでするために相違ない。

 ……俺は一呼吸してから、意を決し、後部座席のスライドドアを開いて中に乗り込んだ。

 まず、前部座席と後部座席の間に仕切りがあった。

 そして、横長の後部座席は対座ベンチシートだった。……左右の壁に沿って、だいたい六人掛け程度のベンチが、それぞれ取り付けられていた。

 天井に取り付けられたルームランプが、灰色の車内を無機質に照らしている。

 奥側のベンチには、麻袋を頭から被せられ、手と足を縄で縛られた人間が二人。

 恐らく両方とも男性で、……ドアから一番遠い隅に座っている方は、両手をモゾモゾと捏ね合わせて落ち着きがなく、……その肩に寄り添うようにしているもう片方は、意識がないのか極めて静かである。息をしている気配はある。

 手前側のベンチの真ん中には、水戸角が座っていた。

 ブラウンに染めた髪は三つ編みにはしているものの、リング状ではなく団子状にして両耳の後ろに纏めており、オーバーオールスタイルで帽子もかぶっている。

 何かしらスマホを見ていたようだが、こちらを向いて両目を見開き、

「式長さん?」と上擦った声をあげた。

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