9 お喋りプレイの後
彼女は全裸のままソファに座っている。コンドームの口を縛っている。
ローテーブルに置いて並べる。右から一発目、二発目、三発目である。
腕組み、「ふん」と思案顔する。
「回数ごとに量も少のうなっとーし色も薄なっとーけど、このグラデーションの仕方からしてあともういっぺんくらいは出来そうやん? な?」
右隣でぐったりとする俺の顔を、真顔で覗き込んでくる。
「……あと三十分くらいだし、無理じゃないかな」
俺が苦笑ながら返すと、彼女は鼻で息を吸い、「ま、このぐらいで潮時かなぁ」と伸びする。
立ち上がり、「シャワー浴―びよ」と足取り軽やかに風呂場へ。……バスチェアに腰掛けて、首から下にシャワーを当て始める。
……あ、そういえばセルフ洗体だった。
このまま待っていても彼女が体を洗ってくれることはないのだ、と思い出し、俺も彼女の隣に座る(なぜバスチェアが二個も?)。シャワーヘッドを受け取り、頭からお湯を浴びる。
「種明かしからするわ」
彼女はボディソープを腕に塗りたくりつつ切り出す。……俺はシャンプーを髪で泡立てつつ、「種明かし?」と鸚鵡返しする。
「午護さんは覚えとらんかもわからんけど、本来ウチは言葉責めだけでイかす嬢や。……で、今から種明かしするのんは、その『言葉責め』の仕組みについてってわけ」
「……そんな簡単に話してしまっていいものなの?」
「別にええわい。やり方だけ聞いて真似しようとしたって、結局ウチにしか出来んからな」
以後、洗体しつつ、一つのシャワーをシェアしつつの談話。
「ウチにはな、相手の性欲に同意することで、その気持ちを極端にさせる能力があるんや。……って言うても、あんまりピンと来んかな」
「いや、分かるよ。……あの、集団極性化みたいな話だよね。……複数人で同じ意見を同意し合っていると、段々とその意見が過激になっていくみたいな…………」
「(目をパチクリしてから洗体に戻り)まあ、うん、そう。そんな感じ。……よう知っとーね、集団極性化なんて言葉。学校で習うような知識でもあらへん思うけど?」
「俺の話は一旦いいよ。まずは聞かせて」
「ん。……で、ウチはだから、その同意の力つこて性的サービスを生業にしとったわけなんや。さっきの場合やったら午護さんの、『二週間ずっと溜め込んだ時のムラムラ具合』に同意して、その興奮を極限まで引き上げたろって目論んどった。……勃起して、射精に至るまでな」
「でも、そうはならなかった」
「そこや!(指でこちらを差しつつ)なんで午護さんには同意が効かんの? 三発も出したってことは性欲はあるはずやんな? 今も体洗いもってウチの体チラチラ見よーし、むしろ人より性欲強い部類に入りそうなのに、同意はまるで通らん。……今まで前例あらへんねや。なんで効かんの?」
一応、心当たりはあった。
それは、「俺自身が同意の能力者だから同意が効かなかったのでは」という可能性だ。
ゲームとかではもはや恒例の設定である。……火属性のモンスターには火属性の攻撃が効きにくい、といったゲームシステムと同じ要領で、同意属性の人間には同意が効きにくいのではないか…………こんな具合だ。
だが、俺はこの仮説を思いつきつつも、……それを軽々には言い出せずにいた。
というのも、「俺もまた同意の能力者なのだ」とカミングアウトした場合、そこから連鎖式に色々な誤解を生むのではという危惧があったのだ。
例えばこんな風に。
「え、牛護さんもそうなん?」
「じゃあウチのこと指名したんは、ウチが同じ能力を持つ人間やって分かった上でってこと?」
「いや怖いて。意味分からんもん」
「だって、それならなんで今の今まで黙っとったん? ウチが同意を何回も不発してイライラしとった時とか、どんな気分で寝転んどったの? 内心ほくそ笑んでたわけ?」
「ていうか、もしかしなくても最近ニュースで見た人やんな? じゃあ、アレの手口って同意で殺してたりとかすんの? ……その張本人がはるばる大阪に来て、なに企んでんの? ウチにもその謀略に加担させる気とちゃうやろな?」
等々々。……怒涛の詰問に苛まれることが予測されるのだ。
だったらもう、俺は同意の力を持つ人間であることは伏せたまま、適当に相槌を打って穏便に済ませた方がいいのかもしれない。
そもそも俺は立場上、同意の能力者とは敵対しなくてはならない人間だ。……将来的に駆除するかもしれない相手に対して同類アピールをして、それに何の意味がある? これから仲間としてやっていく相手にするならまだしも、その真逆なのだ。
「おーい午護さん、聞いてるー?」
横顔にめちゃくちゃシャワーを浴びせられる。少し黙り過ぎていたようだ。
相当な量の水が耳の奥に入っていく。放っておけば中耳炎になるかもしれない。
「……………………………………」
そのシャワーで目が覚めた、とかじゃない。冷水でもなかったし。
そういうわけではなかったが、……俺は、彼女に対して長話をし始めた。
まず、俺が同意の能力者であること。……そして、俺はその能力で知らずのうちに連続殺人を犯しており、その意趣返しに顔面と首とを傷つけられたこと。……現在は同意の力を有する人間を駆除して回る組織に参加しており、俺とあなたとが接触することに相成ったのは、その組織の構成員による差し金であること。……ここに至るまでの経緯を、順番に語っていった。
なぜなら、俺の良心が、そうしたがっていたからだ。
彼岸の一味に目を付けられた能力者は、こんな目に遭うんだぞと。
しっかり忠告して、注意を促してやるべきだと思ったのだ。
だって、……彼女はきっと、同意で人を殺したりはしていないはずだからだ。
というより、そもそも他人の性欲を過剰に引き上げたところで、それがどう死亡事件に発展するのだという話だ。……俺の性質とは異なり、彼女の性質に致死性はないはずなのだ。
その彼女が、ただ同意の能力者だからという理由だけで駆除されていいものだろうか。……俺にはそうは思えない。想像しただけで良心が痛む。
とはいえ、仮にも駆除組織の人間として、表立ってあなたのことを庇ってあげたりすることは出来ないから、……可及的速やかに、可及的遠くへ逃げてくれと、せめてもの助言を投げかけたのだった………………と。
長話が済んだ頃には、我々はすっかり元の服に着替え終わり、ソファに横並びで座っていた。
ソープランドの一室で二人して黙りこくっていた。……これではまるで時間内に発射できずに気まずい感じになっている風だが、事実はその真逆であることを忘れてはならない。
ローテーブルの上には、濃度グラデーションのコンドームが陳列されているのだ。
なお彼女であるが、何やら隣で不機嫌そうにしていた。
両肘を両膝の上に乗せ、両手の平に顎を乗せて、……唇をへの字にし、下瞼をせり上げ細目になっているのだ。
「…………あの、」
「何様。」
彼女は目線だけこちらに向け、「何様や思わん?」と同意を求めてきた。
性欲の同意ではない。相手を支配するための同意ではない。
要領を得ない、誰が対象の悪口なのか分からない、……ただ、怒りのままの言い草だった。
そして、困惑のあまり黙ったままの俺に構わず、背もたれにボスンと体重を預けて俯き、
「ウチな、生まれて初めて同類の人間に会えた思て、さっきまではテンション上がっとってん」
細目で苛立ったまま語り始めた。
「こんな能力持った人間、自分しかおらん思とったからさ。……おんなじ能力を持つ人間同士、色々お話しとかしたい思とってん。
「……ま、要はもう現時点から、ウチは午護さんに対して、明確に仲間意識が芽生えとーわけ。ここで終わりの関係にはしたないの。
「ここまで言うたら分かるやん? ウチが『何様や』って思とんのは、彼岸・黒白ども異常者のことどいや。
「別に悪意とかない人間が、無自覚に他人を殺してもうたことについて、ネチネチネチネチと執着してから身も心もボロクソに虐めるような人間、正気の沙汰とちゃうよな?
「ウチらのこの能力について、ウチら以上に詳しい風にしとーくせにな。
「同意力の高い人間は駆除するべきやの、でなかったら奴隷にしたり実験体にしたりするべきやの、……まるでこちらに寄り添おうとしてくれん。
「ウチがこの能力を持って産まれたために、どんな憂き目に遭うてきたのかを一個一個丁寧に説明してやったとこで、どうせ連中は何一つ同情してくれんに決まっとるんや。
「下賤の極みよ。何様のつもりって話や。
「……っていう風には思わんの? 午護さんは」
顔ごとこちらに向けて同意を促してくる。ジトリと睨んでくる。
「……まあ、アレなんだよね。……俺、親父とかお袋が死んでから半年が経って、ある程度は立ち直ってきたし、……タバコとかサウナとか人並みに楽しめるくらいまでには、メンタルが回復したと思ってたんだけどさ」
この時点における、率直な感想を話す。
「でも、その半年間に俺は、……無自覚だろうが何だろうが、俺のせいで死者を出していて、……また死にたくなって、でも自力で死ねるほどの決意は固まってないから、……その執行人を買って出てくれる彼岸とかその一味には、何されても従うしかないと思ってるよ」
彼女はしばらくこちらを睨んだままだったが、……やがて半円を描くようにしつつ、天井を仰ぎ、首を傾げ、……項垂れ、太ももの上で絡ませた両手の指を眺める。
最中、部屋中に固定電話の鳴る音。
もう一時間半経ってしまったらしいな。厳密にはあと十分ほど残っているのだろうが。……など考えていると、彼女は両足を畳んでソファに上げていた。
そして、
「決―めーた」
の三拍子で、しゃがみ込み、前方に跳躍し、ローテーブルの向こう側に着地した。
そして、そのまま玄関の方に行き、こちらから見て右側の壁に備え付けられた固定電話から受話器を外すと、右手の甲は背中に宛がって仰け反り気味に、応対し始めた。
「はい。……はい、分かりました。……あの、今日このままお客さん見送りがてら退勤したいんですけど、……はい。すみませんけどお願いします。失礼します」
受話器を戻す。腕を組み下瞼をせり上げ、
「改めて自己紹介させてもらいますわ」
こちらに有無を言わさず、相手側のペースのまま進行する。
「本名、ミトカドミウ。水戸黄門の水戸に角部屋の角、美しい兎って書いて、水戸角美兎。
「産まれは兵庫で育ちも兵庫。仕事は兵庫のソープ嬢で、ここには応援で来さしてもろとー。
「年齢は二十六。午護さんは?」
「……二十九かな。多分だけど」
「今日この後の予定は?」
「どうだろう。まず黒白と合流するだろうけど、そのまま帰るんじゃないかな…………」
「ウチにも会わしてや。その異常者集団が一人と」
「……どういうつもりか知らないけど駄目だよ。君は出来るだけ早く逃げるべきだ」
「て言うけどさ、ウチはどう頑張っても彼岸一味から逃げることは出来んと思うねやけど」
「……どういうこと?」
水戸角は親指で後ろを指し、
「歩きもって話そや。もう退室時間なんやから」と。
俺はサングラスを回収し、着用。水戸角と共に部屋から出る。
彼女は廊下を進みつつ、こう語った。
「午護さんを見とったら分かるわい。……わざわざ東京に行ってまでスカウトしてきた同意の能力者を、黒白はほったらかしにして女と会うとるんやん? それって単なる監督不行き届きちゃうくて、もし午護さんが逃げたかてすぐ居場所を特定して回収するための算段があるからとちゃうんかな」
「それはまあ、そうかもしれないけど………………」
「他にもまだあるわい。黒白がウチと午護さんを接触させた件についてもや。……同類同士でシンパシーとか感じて、そのまま駆け落ちとかしかねん午護さんを宛がうのって、そんなことされてもすぐ連れ戻せる確信があるからって思えん? そやからウチは逃げられんのや」
水戸角はエレベーターのボタンを押す。すぐには開かない。
「……どうせ逃げられないなら、観念して首を差し出すってこと?」
「腰抜け根性が堂に入っとるわい。視野狭窄のあほ垂れに灸を据えるために決まっとるやんけ」
「……殴ったりしないよね?」
「いや? そんなんしてもウチが生きづらなるだけやん」
エレベーターの扉が開く。二人並んで乗り込む。
水戸角は一階のボタンを押し、エレベーターが下降しだす。狭く無機質な箱である。
「『同意』にはもっと簡単で手っ取り早い方法があんねやけど、午護さんは知っとー?」
「……いや、知らない。簡単とかそうじゃないとかあるの?」
下降が止まる。ドアが開き、見栄えだけは白を基調とした素敵ホテル風の、狭い廊下へ繰り出す。
すぐ左に曲がる。来た時とは逆の方へ進む。
「例えば、『頷く』っちゅうんは同意の一種やんな。『うん』とか『はい』とか言うたりするのもそう。……そやけど、さっきにも実演してみた通り、ウチはそんなみたいな簡潔な同意とかはせなんだ」
突き当りを左に折れると、十メートルかそこら先、細い道の奥に無骨な黒い扉があり、その傍らに丸顔で髪の薄い黒服が立っている。何やらトランシーバーで連絡している。
黒服は我々が近付いてくるとトランシーバーを外し、
「店外でトラブル中らしく、……お急ぎのところ大変申し訳ございませんが、もう少々お待ちいただけますでしょうか」と平謝りする。
「トラブル?」
水戸角が聞き返すと、黒服はブルドックのようにたるんだ口元をムッとし、「うん」と頷いて曰く。
「空き地の向こう側ンとこで路駐しよるらしいわ。今ボーイが対応しとる」
そして、片手でチョップするようにしつつ、トランシーバー連絡に戻った。
「話の続きでもしとこか」
水戸角はドアの方を向いたまま、両手を後ろで組んで待ちの姿勢に入った。
「ウチは相手の性欲に同意する時、『うん』とか『はい』みたいな簡潔な同意の仕方はせん。……なんでかっちゅうと、ウチの経験上そんな風に簡潔に同意しても、あんまり効果はあらへんって知っとーからや。……まどろっこしゅうても多少時間かかってでも、長文で具体的に同意したった方が、よっぽど相手を興奮させられるって知っとーからや」
「……まあ、うんとかはいとか言ったり、頷いたりするだけだったら、同意というよりは相槌だもんね。本当に同意してるのか疑わしいというか」
「そんなとこ。……まあでも、そうとは分かっとっても、やっぱウチは編み出したかってん。もっと簡単で手っ取り早い同意の仕方を」
「……ちゃんと相手に同意が通って、興奮させることが出来て、……かつ、長ったらしくないやり方ってこと? そんなの可能なの?」
「出来る。ウチ仕立て独力考案のその呪文は、『とある三文字』を口にしただけで相手の性欲に同意したことになり、相手を強制的に絶頂まで導くことが可能や。検証も既に済んどる」
呪文。
オカルトじみた言葉選びだが、後に続く説明もオカルトじみていた。
たった三文字を他人に投げかけるだけで、強制的に相手を絶頂させる呪文。
……さっきのプレイ中にも、どこかのタイミングで放り込んでいたのだろうか?
いや、そうではないのか。彼女は俺の『二週間射精していない時の欲求不満さ』について、三文字どころではない長さで具体的に同意していたのだから。
風俗業で用いるために考案した呪文ではない。
では、何のために?
「ちなみに午護さんにはつことらんわい。他の客にもつことらん」
注釈が入る。
「あくまで緊急用の呪文やし、よっぽど限定的なシチュエーションで話さん限りは、不自然な単語やからね。……イントネーションも呪文用にってカスタムしとーし、ムードもへったくれもあらへんから、仕事では使わんよ」
話の流れ的に、彼女はこのあと黒白に対して、その呪文を繰り出すつもりなのだろう。
強制的に興奮させて、……それからどうするのだろうか。
無様に果てる様を映像に収めてネット上にばら撒く? 立てなくなるまで絶頂させてから警察に通報して逮捕させる?
俺は、
いつか俺のことを殺してくれる組織と、この性質を持って生きる辛さに共感してくれる人と、
どちらの方を尊重すればいい?
「お客様」
黒服から呼び掛けられる。眉尻を下げ、苦笑している。
「ただ今、本店の裏手にお客様をお迎えに来られた方がいらっしゃるとのことなのですが、……『黒白と言ったら伝わる』とのことなのですが、お心当たりはございますでしょうか?」
言った傍から黒白である。……店まで来るとはな。式長とはもう済んだのだろうか。
「あ、俺の連れです。……申し訳ございません。ご迷惑おかけしてしまい………………」
「午護さんが謝る必要あらへんわい」
横合いから遮られる。「店に一銭も落とさんくせに迷惑だけかけに来た黒白が悪い」
「……ここのお代、黒白持ちなんだけどね…………」
「で、ほんならもう出てもええんですか? 後ろもつかえとるやろし」
水戸角が尋ねると、黒服はドアを押し開け、待たせたことについての詫びと、今後は出迎えであっても店前に路駐させないでくれと控えめに注意され、俺はそれらに受け答えしてから、裏口を出た。
目の前、飛んで降りられそうな段差の向こう側には、一面砂利の空き地である。
ただ、そんな不親切なわけもなかろうので、周りを見ると、左側に下り階段がある。
四段降りて右に向くと、……確かに、空き地の向こう側の道路に、車が路駐してあった。
ただ、軽トラではなかった。
箱型の赤い軽自動車である。色から種類から何もかも違う。
が、そんなことは水戸角にとって無関係だから、彼女はブーツで砂利をズカズカと踏み込みつつ軽自動車に向かって行く。俺もその横に並ぶ。
間もなく、軽自動車の運転席と助手席のドアがほぼ同時に開き、中から黒白と式長が現れる。
黒白はさっきと変わらずの柄シャツで、……式長の方は流石にスク水ではなかったものの、しかし黒セーラーに黒タイツという出で立ちだった。趣味が透けている。暑くないのだろうか。
……なぜ式長まで? 彼女の車で来たということか? なら軽トラは立体駐車場に置いたままか?
「キャバ嬢ならまだしもソープ嬢お持ち帰りっすか、豪傑っすねぇ!」
黒白は口の端に手を当て大声で。……何ら怯んでいない。
「やかましい男やで。近所迷惑とか考えんかいや」
対する水戸角も怯まず進み、鬱陶しそうに首の裏を揉む。
……両者が腕を伸ばしてもギリギリ当たらない程度の距離感で、ようやく止まる。
左前に黒白、ニヤケ面。正面に式長、真顔。
左隣に水戸角、怒り顔。俺、目が泳いでいる。
硬直状態は長くは続かず、最初に水戸角が動く。
左手の甲を腰に当て、右手を黒白に向かって張り出し、
Who are you? のイントネーションで、
「クダル」
と唱えた。
限定的なシチュエーションで話さない限りは不自然な単語。
呪文用にカスタムしたイントネーション、三文字。
この「クダル」こそが、彼女が独力で考案した、……簡単かつ手っ取り早く、相手の性欲に同意する呪文。
……しかし、詠唱してから数秒が経っても、黒白はケロッとしていた。
いきなり何かしら唱えられたことについて、一瞬真顔になってはいたが、すぐにニヤケ顔に戻って、……首を傾げつつ、極めて上から目線で、
「何それ?」
と冷たく吐き捨てた。
「……アンタもなん?」
水戸角は右手を張り出したまま驚愕している。
反応を見るに、本来なら誰でも数秒以内で発情させることが出来る呪文なのだろう。……が、黒白には通じなかった。
そして、「水戸角が黒白に何かを仕掛けようとした」という、誤魔化しようのない事実だけが残った。
黒白の機嫌を損なうような事実だけが。……など危惧しつつ、ふと俺は正面を見る。
理由などない。人間の目は前に付いているから前を見たのだ。……すると、どうだろうか。
式長の様子が変なのだ。黒セーラーコスプレがという意味ではない。
腕を押さえ、俯きがちになり、……呼吸は荒く、口の端からよだれを垂らして、顔面を高潮させていたのだ。
……熱中症の可能性もある。熱帯夜だから。
しかし、彼女は体調面での不調などまるで感じさせない俊敏さと膂力でもって、身長百八十メートル超の黒白を後部座席に押し込み、自分も乗り込んで後ろ手にドアを閉めると、街中で堂々とカーセックスに勤しみ始めたのだった。「ここではアカン」とか「また大人に怒られる」とか、黒白の悲痛な叫び声がくぐもって聞こえてくる。車体が揺れ動く。
……「同意」は、なぜだか黒白には無効だったが、……式長には効果抜群だったようだ。
「……止める?」
俺は水戸角に尋ねる。
「止めるだけ無駄や。あの子自身が満足するまで効果は切れんからな。……ほとぼりが冷めるまでほっとくんが吉や」
彼女はそのままの位置で、口の端に手を当て、車に向かって声を張り上げた。
「近くの居酒屋入って午護さんと呑んどーから後で来てー。そんな遠いとこにはせんからー」
返事はない。車内に声が届いているか分からないし、聞く余裕があるかも不明だ。
「じゃ、行こか」
水戸角は俺の前を横切り、あてもなく歩き出す。
俺は軽自動車の前でちょっとだけ立ち竦んでいたが、「午護さんー?」と再度呼びかけられ、観念して水戸角についていく。
二十二時半とかになる時間だ。今から飛び込みで入れる居酒屋となると限定されそうだが、ここいらは溢れんばかりに飲食店が建ち並ぶ。選択肢には困らないだろう。
チーズバーガー一つ分程度の運動は済ませたし、吐き続けた反動で失せっぱなしだった食欲も、いくらか回復してきた頃合いだった。
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