2 社用車で好き放題された後
アンナに注射された薬だが、明らかにその副作用と思われる反応があった。
強烈な睡魔である。
二日間ほど、俺は寝ているのか起きているのか分からないような生活をしていた。……どこか病室のような場所で看病されていた気もするし、警察官からあれこれ質問されたような気もするが、今になって振り返るとどの記憶も曖昧であり、夢のようにおぼろげだった。
そして、ちゃんと意識が覚醒した頃には、俺は取り調べを受けている最中だった。
四角く、白く、独房のような狭い部屋だが、中央と隅に机が一台ずつあり、……その中央の机を挟んで、俺は部屋の奥側、灰色のスーツの男は手前側に、向き合って座っていた。
総白髪を七三分けにした、赤茶けた肌の、五十過ぎの面長の中年男だ。
細い銀縁の眼鏡をかけていて、椅子に深く腰掛けているのだが、……ずっと、机の上を見つめている。
そこにコバエでも止まっているのかと思われるほど、凝視し続けていて、俺と目が合わない。
そして、つまりは目を伏せたままの状態で、刑事は語り始めた。
「自殺ってのは、なかなか衝動的にやるもんじゃない。……長い時間かけて嫌な思いし続けて、いよいよ耐えかねたって段階で自分の命を絶つわけだ。……だから、言い方を選ばないのなら、自殺しそうなやつは自殺しそうに見えるんだよ。周囲の人間にしてみても、『やっぱりか』って気持ちになるわけだな」
「…………はあ、そうですね」
俺が返事するも、刑事はこちらに目もくれず、……顎を引いて、厳めしい具合に皴の入った顔面で、机に話しかける。
「今回のガイシャ、……の前に、その配偶者の四名については、どうだったと思う? 実際に彼らを乗せた人間として、その四人は自殺しそうな感じがあったかどうかだ」
「……いや、特に思い詰めていたようには見えませんでした。……タクシーに乗っている間は、気怠そうな感じにはなっていましたけれど、……でも、長時間を車の中で過ごすわけですから、そうなるのもごく自然のことだと思いますし………………」
「そう」
刑事は目を伏せたまま、こちらに指を差して言う。
「四人は、
「……まるで、俺のタクシーに乗った途端に、希死念慮が高まったみたいな言い方ですね」
「ああ。そういう言い方をしている」
「…………………………………………」
刑事は、トンボを酔わせて捕まえる時みたいに、俺の目の前で人差し指をクルクルと回して、……年季の入った、褐色で分厚い指をピタリと止め、下を見たまま続ける。
「それは今回にしても同じことだ。……ガイシャである、
「…………俺は、何もしていません。……ただ言われた通りの場所に、お客様を運送していただけです。……今回の四名に関しても、その旦那様方につきましても」
「実際そうなんだろう。それは俺らも分かっている」
刑事は椅子に座ったまま、回転して横向きになる。いよいよ完全にそっぽを向く形になる。
そして、入口の鼠色の鉄扉を眺めながら………………。
「午護金次は、いま俺が話にあげた八人とも、事件以前に交流といった交流はなかった。……少なくとも、何らかの殺意とか、殺すための動機が生じるような経緯はなかった。午護にしてみれば、あの八人はあくまでも『勝手に死んだだけ』。それ以上でも以下でもない。……要は、捜査の結果、お前は無罪に決まったってことだ。四人が服用していた違法ドラッグについては入路舞音の所持品であることが分かっているし、拳銃の入手経路についてはまだ調査中だが、その調達者が午護金次でないことも確定している」
俺は、こういう時にどんな言葉を返せばいいか分からなかったが、
ひとまず容疑は晴れたということで、……ホッとさせてくれたのは事実だったので、率直に「ありがとうございます」と頭を下げた。
しかし、そこからの展開が、中々なかった。
部屋の隅の机で、別の刑事が書記をしていたのも、……室内の全員が無言のまま十秒と少し経過したものだから、書くこともなくなったものと見えて、筆の走る音がしなくなった。
俺は、ただでさえ居心地悪くしていたのが、いよいよ辛抱堪らなくなってきて、「あの」とか呼びかけようとしたのだが、そうしようとした直前に、総白髪の刑事は席を立った。
部屋から出るつもりなのか、手を後ろに組んで厳粛に、鼠色の鉄扉の前まで行ってから、……しかし、扉を開けることも、こちらを振り返ることもなく。
「ここからは俺の独り言だ。午護も鈴木も、返事はしなくていいし、書かなくていい」
反響のせいだろうか、さっきよりもずっと、胸の奥に重く響くような声音で、刑事は天井を仰いで呟いた。
「どうやって殺したんだろうなぁ…………」
俺は。
思わず、「は?」と声が漏れそうになるのを、……相手に詰め寄りたくなる衝動を、辛うじて抑え込みながらも、……眼球をひん剥いて、刑事の後頭部を凝視することをやめられない。
総白髪の刑事は、舌打ちしてから歯と歯の間から……シーッ……と息を吸い、項垂れて言う。ときどき頭を振りながら。
「洗脳や催眠の類か? しかし、牛護金次にそのような精神操作術に傾倒していた経歴はない。……そもそも、長期間にわたって対象と接触し、徐々に希死念慮が増すよう促すとかしていたのならまだしも、……午護は自殺した八人それぞれと、長くても半日程度しか交流していない。その短時間で相手の自殺願望を、洗脳ないし催眠によって強制的に引き上げて、最終的に実行するまでに至らせるというのは、……到底ありえない。常識では考えられない所業だ」
「…………つまり、あなたが俺に疑いをかけるのは、常識外れということになります」
「妙なことがあるもんだ」
刑事は振り返り、それでもなお視線は床に落としたまま、
「独り言をしているのに、返事をするやつがいる」
と。
そして、手を後ろに回したまま厳かに、こちらまで戻ってきて、……俺の正面に座り直す。
机に左肘を乗せ、やはり視線は机上に落としたまま、刑事は独り言をする。
「仮にだ。……お前には、現代科学では発見不可能な、何らかの異能があるのだとする。……他人を強制的に自殺に導くことの出来る、悪魔じみた異能があるのだとする場合、……お前のそれには、意図があることになる。半年間で計八人の民間人を殺す一方で、俺らみたいな警察機関の人間の精神には、今のところ何の不調も見られないのがその証拠だ。……俺らに刑罰を科されたくないからなのか知らないが、少なくともお前は、異能を差し向ける相手を選ぶことが出来ている。……やっていい相手とそうでない相手とを判別して、異能を行使していることになる。誰か特定の相手だけを選んで行使し、殺したいと思った人間のみを自殺に導いていることになる。……つまり、お前には他人に対する明確な殺意があり、その上で相手を死に至らしめているのであって」
「榊刑事」
部屋の隅で黙って書記をしていた、肉付きの薄い丸刈りの黒服が、もう勘弁ならないという具合に話を切ってくる、両手は膝の上に置き、正面の壁に向かって。
「取り調べは既に完了しております。我々は午護金次をただちに解放しなくてはなりません。それが上からの命令だからです。くだらんオカルト話は家に帰ってからにしていただきたい。それが独り言であるのなら尚のことです」
榊刑事と呼ばれた、総白髪の中年は、……舌打ちと、歯と歯の間からシーッと息を吸うのをしてから、「ま、もういいか」と、背後の鉄扉を親指で示し、下を向いたまま言う。
「帰っていいぞ、午護金次。……玄関までは鈴木が案内する。諸々の手続きについてもそいつを頼れ。地蔵みたいな面構えだがちゃんと人間だ。安心していい」
「………………………………………………」
言いたいことは山ほどある。
しかし、その「言いたいこと」というのが、具体的に何であるのかが分からない。
俺は、他人を自殺に導く異能など持っていないと言いたいのか?
それとも、……冤罪でも何でもいいから、俺を牢屋に放り込んで永久に閉じ込めてくださいと言いたいのか?
俺は自分が絶対的に加害者でないと、言い張れるのかそうでないのか。
人殺しをしたことがないと、言い切れるのかそうでないのか。
この開きかけた口は、猛抗議をするためにそうしているのか、……それとも、「全部俺のせいなんです」と罪悪感で絶叫するために、そうしているのか。
俺には、もう何も分からない。
罪の自覚はないのに罪悪感はある。……俺は何もしていないと記憶している反面、無自覚的に何らかの悪事を働いている可能性があるのではと思い、「もしそうだったらごめんなさい」と地面に頭を打ちつけて絶命したい気持ちがある。
……が、死ぬならもっと確実に死ねる環境というものだろう。
ここで発狂しても、すぐに二名の刑事から取り押さえられて、精神状態が回復するまで軟禁されることは目に見えている。無駄に拘束時間が増え、死期が延びるだけのこと。
であれば、ここは大人しく退散して、その後に疑心暗鬼になるとか、自決するべきだろうと、……俺は、席を立った。
眼下の榊刑事に対し、「お世話になりました」と頭を下げ、出口に向かう。
鈴木刑事はもう立ち上がっていて、鉄扉を半開きに押して俺を待っている。俺の首から下のあたりを見るようにしている。
去り際に、榊刑事が助言してくる。あくまで背はこちらに向けたままで。
「お前がこれから先どうするのかは知らんが、会社には義理を通しておけ。……それだけ済ましたら、後は好きなようにすればいい。他人様に迷惑をかけない範囲でな」
「…………? はい。……そうさせて頂きます」
俺は再度、深く礼し、「こちらです」と鈴木刑事に促されつつ、署内を行ったり来たりする。
色々の手続きを経て、所持品を全て返却され、「この度はご協力いただき感謝いたします」と、鈴木刑事に玄関先で敬礼される。
俺は、……その無骨な社交辞令が、俺の人生における最後の感謝の言葉なのかもしれないと思うと、無性に尊いことのように思えてきて、ただ会釈するだけで返すのも憚られる気がして、……ぎこちなく敬礼し、
「こちらこそ」
と、
「取り調べご苦労様です」
とか畏まる。ちゃんと愛想笑い出来ていたかは定かじゃない。
……ああ。
それでも鈴木刑事は、榊刑事と同じく、……最後まで俺と目を合わせてくれなかった。
敬礼はしつつも、その目線は地面に注がれている。……これでは地球に向けて感謝しているようなものである。俺ごとき矮小な存在は眼中にないことになる。
俺はガッカリして身を翻し、ひさしの影から一歩外に踏み出す。
ジリジリと真上から焼かれつつ、歩道に出る。
東京とは思えないほど建物の低い街並みだなとか思いつつ、まずはスマホの電源を入れた。
どこに駅があるのかとかは知っている。この一帯の土地は路地裏に至るまで完全に把握している。
そうでなく、……要は、単にスマホ中毒だという話である。
今この時に必要かどうかはともかく、スマホは触っていなくてはならないからだ。……より触っていて面白いものがあれば、そちらをいじくり回すというだけのことだ。
電源が入る。
途端、バグでも起きたのかと思うほど、下から上へ通知が流れだした。
いずれも不在着信。相手は「明智谷交通」。
社員が殺人事件に巻き込まれていたのだからこうなるのも無理はないが、それにしても異常ではないかと思う。……安否の連絡については警察の方からしていたはずだし、十回ほど電話してみて繋がらないのなら普通諦めるだろうと思う。
思うが、……何か、明智谷交通から以外にも、別の番号や非通知から、相当数かかってきていることに気付く。
そして、今この瞬間にも、非通知から電話がかかってきた。
ブーブーと振動し、「早く出ろ」と急かしてくる。……俺は、電話に出たぐらいで大したことにはならないだろうという慢心もありつつ、この事態を説明してくれる何者かを欲していたのもあって、着信に応じる。スマホを耳に当て、癖で「明智谷交通の牛護です」と名乗る。
返事はない。「もしもし?」と促してみても。……ただ、複数人が電話越しに、何かガヤガヤしているのが聞こえる。
また、視界の左側の隅で、……少なくない人数の塊が、蠢いているのを感じる。
パッとそちらの方を見ると、横断歩道の手前側で、遠目に見ても記者陣だと分かる人の群れ。
カメラマンに。
音響スタッフに。
マイクを持ったリポーター。……それも、一組ではない。
ざっと見て十数名。二十個以上の瞳が、俺ただ一人を見つめて、ヒソヒソ話し合っている。
間もなく、最前にいた五名ほどの取材陣が駆け寄ってきて、
「明智谷交通の午護金次さんですか!?」
と詰め寄ってくる。
「過去半年間で乗せた八名がその直後に自害したということですが!」
「一体、車内ではどのような会話をしていたのでしょうか!」
「亡くなられた八人の方々に対してどのような言葉を送りたいですか!?」
「これからもタクシー業は続けられるつもりなのでしょうか!」
後ろにいた報道陣も、車道にはみ出しつつ俺の背中に回って、歩道の両側から挟み込むように詰問してくる。
「黙ったままということは、特に何とも思っていないということですか!?」
「瀕死の状態にある乗客を一切救護せずにいたそうですが!」
「金髪に染めていて不真面目な印象を受けますが、事故の際にするべき対応が一つも守られていなかったのは、ご自身の職業意識の低さからでしょうか!」
「事件当時は車内で喫煙していたというのは本当ですか!?」
うるさい。
ただでさえうだるような暑さなのに、こうも四方八方から喚き立てられては。……一切から逃げてしまいたい。
折、
眼前の車道の、右から左へ、……黒塗りのタクシーが横切るのを見る。
これだ。
そうと決まるが早いか、俺は左側を塞ぐ取材陣を後先考えずに押し退け、背中に怒号を受けながら走り逃げる。
タクシーは都合よく、車道の左端で停車して「付け待ち」しており、……俺は、誰にも先を越されるまいと全力疾走し、一番乗りになり、……スモークのしてある後部座席の窓をノックする。
窓が降りることはなかったが、代わりに後部座席のドアが僅かに開く。粗雑な運転手だとは思ったが、話が速くて助かる。
俺が一歩身を引くと、ドアは全開になり、……迫り来る報道陣を尻目に、得意げにすらなりながら、後部座席の左側に飛び乗る。それと同時にドアが閉まる。
「どちらまで」
淡白で、低い女性の声だった。
「しばらく直進してください。行き先は後で考えます」
俺が言うと、運転手は大して意外そうでもなく、「かしこまりました」と発進し始めた。
車内は快適な室温に保たれていて、みるみる体温が下がっていく心地よさ。頭も冷えてくる。
だから、気付けなかった様々の違和感にも、雪崩のように思い至る。
なぜタクシーなのに窓にスモークがしてあったのかとか(今は透明に切り替わっているが)。どうやって空車かそうでないかを判断させるのだろうかとか。
タクシー乗り場でも何でもないただの道路で付け待ちするのは違法じゃないのかとか。すぐそこに警察署があると知っての行為だろうかとか。
他にも違和感はあっただろうが、差し当たってその二点について考えている最中に、……俺は、違和感がどうとか考えている場合ではないことをようやく悟った。
バックミラー越しに見た運転手の左目に、白の眼帯がしてあったのだ。
あの夜、俺が四人の未亡人をタクシーに乗せた時に、自らは乗らずに見送った人間。
彼女はただ淡々と車を走らせ、前とか横とか確認していたのだが、不意にバックミラー越しに俺の方を見てきた。
目で殴り、目で弱らせ、目で仕留め、……目で解剖し、目で細大余さず暴いてやろうという、……それは、取調官のような、冷ややかな眼光だった。
これがもし両目であったら、冷や汗が流れるだけでは済まなかっただろうという、……真顔なのに、気迫に満ち満ちた瞳だった。
そして極めつけには、……薄い唇をバカッと開きつつ、深みのある低い声で、こうも言ってきた。
「すっかり有名人ですね。あんなにも大勢に囲まれて。……どうですか、一躍スターの気分は」
途端。
絶対にヤバイという確信が、頭から爪先まで稲妻のように駆け抜けていって、全身の神経がビリビリ痺れるのを感じる。
自殺する覚悟は決めているはずなのに、この女と関わっていると死よりも恐ろしい目に遭うに違いないと確信する。
もうこのまま、走行中の車内から飛び出してしまいたい衝動に駆られる。
なのに、それが出来ずにいる。
蛇睨み。
拳銃を突きつけられているわけでもないのに、俺はダラダラと脂汗を流しながら、……諸手を挙げて降参していた。
「お手上げですか。贅沢な悩みですね」
彼女は信号を左折する。しばらく直進してくれという願いは、聞き入れられなかったようだ。
そして、次の信号に引っかかった時に、何の躊躇もなく運転席から出て車の屋根をゴソゴソし、……座席に戻ると、左手に持った行灯を見せてくる。
タクシーの屋根には必ずついている社名表示灯。実際に俺も、その行灯を見たからこの車に乗り込んだのだが、……その白い丸型の行灯は、青文字で分かりやすく「嘘」と書かれていた。
「いかにもタクシーっぽい車にタクシーらしい装飾をすれば、誰もがそれをタクシーだと誤認するわけです。……まあ、ここまで首尾よく進むとは思いませんでしたがね。あくまで偵察のつもりが、とんだ時短になったものです」
「…………俺を攫う目的は? あなたも彼女らと同様に、自分の夫を俺に殺されたと言い張るんですか?」
「まさか。私は生涯独身です。長生きするためには短絡的な思考を捨てることです」
青信号になり、再び車は走り出す。
どんどん大通りから外れ、住宅街の人気が少ない方にヌルヌルと進みつつ、……名前すらも知らない女と話す。
「前提としてお伝えしておかないとならないのは、あなたのような性質を持つ人間はこの世に何人も居るということです。……存在するだけで他者の精神面に悪影響を及ぼし、不幸にし、最悪の場合には死に至らしめるという、生まれながらの邪悪は。……だから、あなた方は駆除されなくてはならない。害虫などがそうであるように。それだけのシンプルな理屈です」
「…………教えてください」
と。
俺は無様に両手を挙げたまま、……恐怖に打ち震えながらも、どうしても聞かなくてはならないことがあった。
「知っているのなら。……俺は一体、何者なんですか? 俺の中の何がどう作用して、他人を不幸にするんですか? ……この性質が生まれ持ったものであるなら、俺は生まれてきた時点でどうしようもなかったんですか?」
「賢明な害虫です。……自己嫌悪に陥ったり、自らの毒液の仕組みを知りたがるのですから」
どんどん道が狭くなっていく。普通車がギリギリすれ違えるかどうかという、塀に挟まれた小道を進んでおり、……路駐していた軽トラックの真横に停車した。これではドアは開けず、逃げ出すことは不可能だ。
「ここに座ってください」
眼帯の女に、助手席を指差される。
どう考えても、いったん外に出て入り直すことは出来ないから、……車内を、体を捻りつつ前に来いと言われている。
俺は、シートベルトを外し、……運転席と助手席の間を、洞窟の奥へ行くみたいに、中腰で頑張る。
眼帯の女と接触しないように、……どうにか成し遂げて、両手を挙げたまま助手席に座る。
「こちらを向いてください」と言われて、その通りにすると、女は左手で俺の顎を掴み、
右手に持った刃渡り4cmほどのサバイバルナイフで、俺の顔面にゆっくり横一文字した。
ノートに鉛筆で線を引くように。
冷ややかな眼差しで、……右耳から左耳まで繋ぐように。鼻の上を経由して。
切込みは決して浅くない。筋線維まではっきり傷つけられている。血が流れ出る。
痛みはあるが、それよりもゾクゾクとする不快感の方が勝る。
窓がスモーク状態に切り替えられている。誰もこの事態に気付かない。
眼帯の女は、俺の顔面から引き抜いたナイフを、……今度は俺の首筋に宛がって言う。
「あの四人には拳銃を渡しましたが、私があなたを殺す分にはナイフだけで事足ります。……ゆめゆめ、先日のように上手くいくとは思わないことです」
「…………なら、どうして最初から、あなたが殺しにこなかったんですか?」
「試験ですよ。午護金次がどれだけの性質を有するのか、検証したかったのです」
首に宛がわれたナイフが徐々に皮膚を破いて、肉も抉っている。
四丁の拳銃より一本のナイフの方が、遥かに凶悪なもののように思えてくる。
「あなたの性質はですね、『他者を強制的に怠惰な気分にさせる』というものなのです」
…………ああ。
やはり、そうだったのか。……と、彼女の断定は、……入路や利根川や知多やアンナに断定されるよりも、榊刑事から断定されるよりもずっと、俺にその性質があることを確信させた。
良心が痛んで涙すらこぼれたが、構わず彼女は続けた。
「この餌食になってしまったがために、八人の男女が生きる活力を完全に失い、これから自分が受けるだろう全ての面倒事から逃れるようにして、自らの命を絶ちました。……復讐のためにと私が提供した拳銃は、あろうことか自決のために使われてしまった。……こうなることは予測してはいましたが、いざその通りになると遣る瀬ない気持ちになるものです。彼女たちの無念を晴らすためにもと、あなたを出来るだけ残虐な方法で殺害したい衝動に駆られています」
ですが、それではいけないのです…………と。
眼帯の女は、俺の首筋に宛がったナイフを、言葉とは裏腹により強く押しつけてきたので、……俺は反射的にその場から身を引き、助手席側のドアに背を打ちつけたのだが、すぐに相手は運転席から身を乗り出して、そして再度、俺の首元にナイフを宛がった。
シーシャバーに来たような。
甘くてスパイシーな香りに、草の焦げた煙の匂いが混じって、漂ってくる。
「あなたのような性質を持つ人間を駆除していくにあたって、一人くらいは駆除対象を手元に置いておきたいのです。……弱点などを研究することも可能ですし、他の害虫を駆除するための鉄砲玉にすることも出来る。私はあなたに対し、利用価値を見出しているのです」
「…………断れば、殺すと」
「我々に非協力的な害虫は、ただの駆除すべき害虫ですので」
どうだろうか、と思う。
まず、俺は明智谷交通に合わせる顔がない。
榊刑事には、「会社には義理を通しておけ」と言われているが、……正直、このままバックレてしまって、二度と姿を現さない方がお互いのためだと思う。
殺人タクシードライバーが、会社に貢献できることなど一つもないのだから。
罪滅ぼしの仕様がないのだから。迷惑をかけることにしかならないのだから。
そして、……俺には親兄弟がおらず、親戚もいなくて、……数少ない友人は、みんな無職になるか病むか、そもそも生きていないため、頼ることは出来ず………………………………。
それも俺のせいなのか?
俺が、知らずのうちに彼らを怠惰にしてしまった、その結果なのか………………………………………………………………………………。俺は、
「一つだけ、こちらから条件を出させて頂くことは出来ますか」と意気込む。
眼帯の女は、若干だけ怪訝そうに眉をひそめ、それもすぐに元の仏頂面に戻ってから、「聞くだけ聞きましょう」と、話し合いが通じた。
俺はただ、要件だけを簡潔に伝えた。
「あなたに協力する分には構いません。……ただ、俺があなたにとって不要になった暁には、俺のことを出来るだけ残虐な方法で殺害してくれると約束してください」
二秒後。
ナイフが一ミリほど首筋に食い込んでくる。舌打ちの代わりとでも言わんばかりに。
そして、スッとナイフを引き抜くと、その血に濡れた刃先を俺の左目に突きつけてきた。
反射的に身震いする。左目の奥から肩のあたりにかけて、毛虫が這ったような不快感が迸る。
その状態が十数秒ほど続くと、彼女はこちらに急接近する素振りを見せ、……俺は、思わず顔を横に背けて、ナイフから逃れてしまった。
ただ、そのせいで左耳が貫通するということもなく、サバイバルナイフはずっと同じ位置に構えられている。
俺がただ勝手に怯えて、顔を背けただけである。
出来るだけ残虐な方法で殺してくださいとか、大口を叩いていたにも拘わらず。……………………しかし。
彼女は運転席に戻り、助手席の間に置かれていたウエットティッシュで血を拭きとりつつ、「後部座席に戻ってください」と無骨に指示してくるばかりだった。「そんな血塗れの顔で横に座られては目立って仕方ないので」、とも。
「……………………………………………………」
なんだか、…………有耶無耶な感じのまま話し合いが終わってしまい、結局どうなることに決まったのか分からなくて呆然としていると、彼女は大して苛立った感じもなく、ナイフのみ注目して念入りに手入れしながら、補足を開始した。
「あなたは全く覚悟が決まっていません。死ぬ覚悟も、痛めつけられる覚悟も。……だから、それだけ痛めつけ甲斐があると思いましたし、出来るだけ残虐な方法で殺し甲斐があると判断しました。……これ以上、何か説明が必要ですか?」
俺は逡巡の後、顔面の上と下とを二等分する赤道の痛みを感じつつ、「まだお名前を伺っていません」と。
相手はナイフを抜く手を止め、真顔でこちらを振り向き、すぐに元の作業に戻りつつ答える。
「奈良県の奈良、縁取りの縁、彼岸花の彼岸で、
頭の中で漢字を思い浮かべる。一度で覚えなくてはならないと思ったから。
後方からクラクションが鳴る。道路を完全に塞いでいるのだから当然である。
彼岸は控え目に溜め息し、俺にナイフと、ウエットティッシュをパックごと渡して、
「後ろで拭いておいて下さい。顔も拭いて構わないので」と指示する。
「あ、分かりました」と後ろに移動している最中に急発進されたので、俺は後部座席まで半ば転げるような形で吹き飛ばされ、ナイフが左目を貫通しそうになるのをすんでのところで躱すとか、掴んだ蛇に顔を噛まれないよう身悶えするような。
何とか無事に、後部座席に戻ることは出来たのだが、……彼女が運転がてらカーナビの設定をしているのが、職業柄目につく。
「……大阪に行くんですか? 今から、この車で?」
彼岸は「はい」と淡白に返す。
「傷が目立たなくなったら牛護にも運転して頂きます。せっかく元タクシードライバーを使役したのですから、存分に使わなくては」
車は進む。着実に東京から離れていく。
俺は途方に暮れたまま、自分の血で汚れたナイフを拭き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます