記録的怠惰に見舞われる / アグリーバン(縦読み推奨)

本懐明石

序章 立証不可能犯罪

1 空白の後

 俺は真夜中の高速道路を快適に運転する。この車はきっとタクシーである。

 だって、料金メーターがある。……そして、限度額に達している。

 九十九万九千九百九十九円。

 随分と長い間走らせていたようだ。

「息子が運転する車に乗ると、なんだか親として一段落ついたような感じがするな」

 後部座席に座る親父が、他愛のないことを言っている。

金次きんじはとっくに大人でしょう。まだ親離れ出来ていなかったのかしら」

 その横からお袋の野次が飛んでいる。  

 ……ああ、惜しい。

 これほどまでに幸福な時間なのに、……親父とお袋を、こうしてタクシーに乗せて運転しているのは、何よりも尊い瞬間のはずなのに、

 彼らはもう、この世に存在しないというのだから。

 彼らの姿を見たのなら、すなわちそこは現世ではないのだから。

 夢のような体験はそのまま、そこが夢の中であることの証明になってしまうのだ。……これほど皮肉なことがあるだろうか。

 など、穏やかでない気持ちになってくると、遥か前方に人影があることに気付く。

 一人や二人じゃない。……数十人規模の集団が、道路上に横並びに棒立ちして、完全に道を塞いでいる。

 俺はブレーキを踏みつける。されど車は一向に減速しない。

 どころかみるみる加速していき、衝突まであと十秒あるかも分からない。

「轢いてやればいいだろ。……連中は、死にたがってるからそうしてやがるんだろ」

 親父が後ろから、悪魔の囁きをしてくる。

「どれだけ殺しても金次は悪くないわ。……悪いのは、金次に殺されるあの人たちなのよ」

 お袋も後ろから、悪魔の囁きをしてくる。

 天使役が不在である。一向に歯止めが効かない事態になっている。

 電灯の、オレンジ色の光が、ビュンビュンと前から後ろに流れていく。

 スピードメーターが振り切り、集団の最前列を今にも蹴散らそうとしたその瞬間。

 俺はいよいよ耐えかねて、バネ仕掛けのようにガバッと飛び起きた。

 そして、早鐘を打つ心臓のあたりを、……シャツを、ネクタイを、一緒くたに握り締めつつ、……脂汗をかきながら、ハァハァと荒い呼吸になっていた。

「………………………………………………」

 起き抜けで何が何やら分からないまま、周囲の状況を確認する。

 まず、見慣れた車内。黒色を基調としていて、料金モニターがある。……カーナビで時刻を確認すると、二十三時を過ぎていた。

 ……なんのことはない。

 そろそろ頃合いだなと思ったから、タクシーをコンビニの駐車場に停めて、……タバコとかを補充がてらに、運転席で仮眠していたのだ。

「…………一服するかな」

 言うが早いか、俺はダッシュボードを開けてタバコの箱を取り出し、そのまま外に出ようとして、……ドアノブにかけた手を引っ込めた。

 代わりに、運転席側の窓を開け、外の蒸し暑い風が飛び込んでくるのに顔面をしかめつつ、再度ダッシュボードを開ける。

 そして、後で捨てようと思って忘れていたボトルガムの殻を取り出し、……それを緊急灰皿として、吸い始めた。

「……………………………………」

 肺に暖かい空気が流れ込んできて、吐き出すと心地いい。

 全身から強張りの抜けていく実感がある。悪夢を見る仮眠では到底得られない、上質で深い安らぎが末端にまで行き渡る。

 ……この後の消臭作業が大変になることなど、知ったことではない。

 今この瞬間を安静に生き延びることが何よりも大切なのだ。人生とは過去でも未来でもなく、現在なのだから。

 ……大して深くもない。三十年近く生きてきた人間から、こんなにも浅い人生観が出るものかと辟易する。

 実際、バックミラー越しに見る己の、酷い形相である。

 最近染められていなくて、髪色がプリンになっているし、縮毛矯正が取れかけてクルクルのボサボサになっている。上瞼が開き切らなくて半目がちになり、目の下にクマまである。

 仮にもサービス業の人間がしていい面構えではない。……まあ、とはいえここは東京である。こんな形相をしていても、客の方から「やっぱり別のタクシーに乗ります」とかお断りされることは滅多にない。

 誰も俺に関心などない。お陰様で気楽に仕事させてもらっている。

 俺如き矮小な存在に注目する暇な人間など、一人も居ないでくれているのだった。

「…………もういいかな」

 俺は半分ほど残っているタバコを、ボトルガムの殻の底に押し付けて鎮火し、そのまま封印する。ダッシュボードに戻す。

 そして表示板を「空車」に切り替え、助手席の方の窓も開けてから、ギアをDに入れて発進した。コンビニの駐車場から道路に出た。

 繁華街のギラギラした電飾に目の奥が痛くなりつつ、決まった道を進んで行く。……タバコの煙もいくらか出て行った頃合いで、窓を全て閉めつつ、カーラジオをONにする。間もなくニュースが流れてきた。

「原因や動機の不明な自殺者数が、半年前から全国的に増加しています。

「また、原因の不明なうつ病発症者数も、同時期から東京都内で増加しており、

「警察は、何らかの組織的な扇動が水面下で起こっている可能性があるとして、捜査を進め」

 チャンネルを変える。よく知らない人がよく知らない人と喋っているラジオが流れる。

「……………………………………」

 そのまましばらく車を回していると、二百メートル先の信号の真下で、……四、五人ほどの女性たちが、歩道でたむろしているのを発見する。

 それぞれが何をしているのかは分からないが、そのうちの一人は何やら前のめりになりつつ、車道の方を覗き込んでいた。……まあ、まさにタクシーを拾おうとしている感じだ。

 しかし、俺のすぐ前には、別の会社のタクシーが走っていた。

 彼女らの行き先が、それぞれ全く別方向なのだったら、少なくとも誰か一人は俺の方に乗車してくれるのだろうけど、……全員が同じ地域の住人だった場合は、前方車両に総取りされるという局面である。

……そこはかとなく、ギャンブル的なドキドキ感が漂ってくる。

 俺は前方のタクシーを追いかけていく。

 この時、あるアイディアが不意に起こった。……そして思いついたままに、俺は口に出して読み上げてみた。

「…………一人以上残ったらサウナで一泊、総取りされたら青汁………………」

 宿泊セットは常備している。喪中でそんな気分じゃなかったから随分とご無沙汰だが、賭博の方も長らく控えていたが、……そういった諸々の禁欲が、親父とお袋の命日から半年経っていよいよ耐えかねたのだろう。

 見ず知らずの人間を競走馬に見立てるのには、いくらか罪悪感があるものの。

 一度そう見えてしまったものは簡単に撤回できない。先入観とかがそうであるように。……先ほどから前のめりで車道を覗き込んでいた、白のロングコートの女性が左手を挙げた!

 まずは前方のタクシーが停車し、俺も何気ない感じで、その後ろに停まった。……ひとまずギャンブルは成立するようだ。そもそも彼女らはタクシーを必要としておらず、誰か知り合いとかに送迎してもらうつもりで、そこに待機していた可能性もあったので………………しかし。

 安心も束の間、俺は、「…………えぇ?」と、困惑の声を漏らしていた。

 というのも、例のタクシーは彼女らの誰一人として乗せないまま、そのまま走り去ったのだ。……そして間髪入れずに、白のロングコートの女性がこちらに歩み寄って来て、助手席のドアをノックしてきたのだった。…………俺は自然と、

「……………………(啞然)、(混乱)…………………………」

 といった感じになっていた。……が、すぐに気を取り直して、助手席の窓を開けた。「どちらまで」と、運転席から覗き込んだ。

 窓枠からは相手の胴回りだけが見える。……真夏にも拘わらず、黒のハイネックシャツの上から白のロングコートを羽織っている。この時点でちょっと普通ではない。

 ややあってから、彼女はグンと腰を直角に曲げ、顔面が窓枠の中に納まった。

 ……眼帯。

 三十歳前後かと思われるその女性は、……飾りっ気のない、薬局で処方されるような、白色の四角いガーゼ製の眼帯を、左目に施していた。

 傷んで少しボサついている黒髪を、ルーズサイドテールにしていた。

 総じて何か、病弱な雰囲気のする女性だったが、右目の眼光はそうじゃなかった。

 ……目で訴えてくるとか、そういうレベルじゃあない。

 目で殴り、目で弱らせ、目で仕留め、……目で解剖し、目で細大余さず暴いてやろうという、……それは、取調官のような冷ややかな眼光だった。

 これがもし両目であったら、冷や汗が流れるだけでは済まなかっただろうという、……真顔なのに、気迫に満ち満ちた瞳だった。

 そして極めつけには、……薄い唇をバカッと開きつつ、深みのある低い声で、こうも尋ねてきた。

明智谷あけちや交通の午護金次ごごきんじさんですか?」

「…………は?」

 訳が分からなくなり、接客用の態度ではなくなってしまう。

 なぜ俺の名前と所属が分かる? どうして今それを確認されなくてはならない? 相手は何が目的で、俺はこれから何を要求される?

 嫌な予感が、具体的な輪郭を帯びつつ膨れ上がっていく。……もうこのまま、脇目も振らずに走り去ってしまい衝動に駆られる。

 さっきのタクシードライバーが誰も乗車させないまま発進したのは、こういう理由だったのではと察しつつあった時、後方でダンマリを決め込んでいたうちの一人が「この人ですわ」と眼帯の女性に話しかけた。

 運転座席のヘッドレストを指差し、刺々しい声音で、……「いけしゃあしゃあと掲げとりますわ、『明智谷交通の午護金次です』って」と、鬼の首を取ったように。

 ……ああ。

 こうなると、段々と俺の方もイライラしてくる。……どうして俺が、こんな威圧的な態度で囲まれなくてはならない? あなた方とは何の面識もないのに? なぜ? どうして? 俺に親を殺されたとでも?

 しかし、あくまで客商売なので、好き放題荒ぶるわけにもいかない。会社にクレームを入れられても面倒だし。

 だから俺は、なるべく平静を保ちつつ、……とはいえ随所に嫌味が漏れ出してしまいながら、窓枠越しに訴えた。

 身を乗り出してきている眼帯の女性にではなく、その後ろでソワソワしている四人に対して。……比較的、恐ろしくない方の人らに向けて、粛々と訴えた。

「あの、何の御用かは存じませんが、……乗車しないのであれば、流しを再開させて頂いてもよろしいでしょうか? こちらにも業務というものがありますので」

 だが、俺の言葉を受けて後方の四人が反応するよりも早く、返事を寄こしたのは眼帯の女性だった。

 窓枠に肘を乗せつつ、発進させまいとしながら、右目でこちらを凝視しつつ言う。

「大阪まで、あの四人を乗せて行って頂きたいのです。……構いませんか?」

「……失礼ですが、ご予約は?」

「しておりません。こちらから運転手を指名できるのであれば、そうしていたでしょうけれど」

「……………………………………」

 これは、誰がどう見ても中々にヤバい案件というか、……あえて詳細に検討するまでもなく、スンナリと受けてはならない仕事なのだろうとは思いつつ。

 しかし俺は、「ドアが開きますのでお下がりください」と、眼帯の女性を退かせて、……そのまま逃げ去るでもなく、ボタンを押して左側後部座席と助手席のドアを開放し、団体客四名がゾロゾロ入ってくるのを黙って受け入れていた。

 ……なぜかって、その方が安牌だと思ったからだ。

 というのも、相手が徒歩でこちらが車である以上、この場を無事に逃げ切ることは簡単だが、……そうやって彼女らの神経を逆撫でしてしまった結果、後日何かしらの逆恨みを受ける羽目になるのだとして。

 その被害の規模がどの程度のものか、現時点ではさっぱり予測がつけられないじゃないか。……相手から何の因縁をつけられているのか分からない以上は、どのくらいの熱量で攻撃してくるのかも分からないじゃないか。

 未知ほど怖いものはない。宇宙とかがそうであるように。

 そうなると、……いつ何をしでかすか未知数な彼女たちを東京で野放しにするくらいなら、お望みどおり大阪まで送り返してやった方が明日以降も気が楽だろうというものだった。……先々まで見据えて考えるなら、そうするのがベストだろうという判断だった。

 ……俺も大概いい加減である。今この瞬間を安静に生き延びることが何よりも大切なのだと、ついさっき名言めかしていたくせに、……この期に及んでは、明日以降の無事を気にしているのだから。

「……では、発進しますね…………」

 誰からの返事もない。四人も乗せているのにも拘らず。

 まあ、そこらへんの礼儀などを今さら気にする段階でもないので、こちらも速やかに発進してしまう。……所要時間は多めに見積もって八時間程度であることとか、料金は一人あたり五万円以上かかることとか、そういった事情は普段であれば発進前に共有するようにしていたが、今回は省略した。

 カーナビの指示通りに進む。無言の気まずさに耐えかねてラジオを流すも、隣の客から十秒もしないうちに「やかましい」と関西弁で苦情され、不承不承ながら停止する。

 そうこうしているうちに高速に進入する。

 スピードを上げつつ、どのタイミンクで仮眠しようかとか、そもそも彼女たちがすぐ近くに居る状況下でマトモに睡眠できるのだろうかとか、……改めて乗客の風采を確認しつつ思う。

 言葉を選ばないのであれば、いずれも金持ちそうな感じだった。

 とはいえ、それぞれ全く違うタイプのセレブのようでもある。……どのような経緯から互いに交流するようになり、タクシーを相乗りする間柄になったのか想像もつかないというのが、俺の正直な感想だった。

 まず、助手席に座るのは、……さっきから関西弁でトゲトゲしく吹っかけてくる、いかにもチンピラ風の小娘だったのだが、こちらは大ブレイク中のヒップホップアーティストのごとく全身にゴツゴツとした装飾品を散りばめており、中流階級の資産で賄えるコーディネートでは明らかにない。

 後部座席左側には、紫色の着物を着こなした、巻き髪のご婦人がお掛けになっている。着物を普段着にしている時点でセレブであることは言うまでもない。

 後部座席右側には、スタイリッシュなジャケットコーデに身を包んだ、欧米美人が御座る。ヘッドホンをして瞑目し、足組み。ただ座っているだけで絵になるその洗練されたビジュアルであり、王族すら彷彿する高貴な気品に満ち満ちていた。

 そして最後に、後部座席中央だが、……彼女は囚人のようなボーダーシャツを着、ゆるふわパーマにしていた。……彼女単体で見れば、まあ中流階級の人なのだろうなと思うのだろうが、他三人がこう異質だと彼女の見方も変わる。右手に巻いた腕時計が超高級なのではと思う。

 ……そして、それぞれは全くやり取りせず、各々スマホを見たり外の景色を眺めて過ごし、

 全くの無言のまま愛知県を通過した。……八月一日、午前四時過ぎ。出発から現在まで空は真っ暗のままだが、かれこれ五時間以上の運転になる。

「彼女らはどういう集まりなんだ」

 と、俺は心の中で、やはり思わざるを得ない。

 他にも方法ならあるだろうに、わざわざ東京から大阪までタクシーで向かおうとし、また、その運転手は午護金次ごごきんじでなくてはならないという四人組。

 車中での会話は皆無で、本当に何らかの目的のためだけに一堂に会したのではと思われる、友人とか知人よりは「同志」と表現した方が適していそうな関係性。

 そして俺はこの段になっても、彼女たちに名指しで疎まれている理由が分からなかった。

 ……やはり見覚えがないし、関わった覚えはなく、恨みを買った覚えもない。

 とはいえ、「だから俺は何の危害も加えられないはずだ」と楽観的になることも出来ず、俺は内心ビクつきながら運転し、……睡魔と便意とが限界を迎えて、サービスエリアに駆け込んでいる最中も、タクシーに何か仕込まれたりしないものだろうかと怯えていたものである。

 アクセルを踏んだ途端に爆発したりしないだろうかとか。

 結局、それに関しては杞憂だったものの、依然として恐怖に震えながらのドライブになる。……そして、四日市JCTを過ぎ、ガラガラに空いた道を走行中に、いよいよ沈黙が破られた。

 一番手は、助手席のゴテゴテファッションだった。

「もう豊田は過ぎたんとちゃいますか? チタのあねさん」

 チタというのは文脈的に苗字のことだろう。地名かもしれないが。

 ともかく、これに返事をしたのは、後部座席中央のゆるふわパーマであった。……左隣の、着物美人の肩にぐったり身を預けたまま、スマホに視線を落としたまま答える。

「……あぁ、もうそこまで来ただかん。うっかりしとったわ。ごめんねイリジちゃん」

 三河弁。

 そして、豊田を過ぎた…………? そんな注文を受けた記憶はないが、彼女、……チタだけは、豊田で下ろすという段取りだったのか?

 とはいえ、ただいまは高速道路を運転中だから、すぐに停車するわけにもいかず、俺は豊田からグングン遠ざかりながら後方に尋ねた。

「えっと、豊田のどこかで降車したいということでしょうか? ……でしたら、次のインターチェンジで折り返しますので、具体的な場所をお伝え頂けますと」

「誰が喋ってええうた?」

 助手席からイリジが睨んでくるのが、視界の隅に見える。

 俺が何か反応する前に、イリジはチタに尋ねた。

「で、具合はどないですか? チタの姉さん。見たまんまのコンディションですか?」

「それはもう、見たまんまではあるけど、……ダルそうなのは私に限らんだら。イリジちゃんもトネガワさんもアンナちゃんも、みんなちょっとでも気ぃ抜いたらくたばりそうじゃんね」

 俺をそっちのけで繰り広げられる体調の会話だが、まあ、四人とも活気がないのは確かだ。……会話がないのはそもそものこと、瞼が閉じかけていたり、大あくびをしたり、……俺までつられて、何度かあくびしてしまったものだ。

 ただ、それは当然でもある。今は午前の四時過ぎなのだから。

 然るべき状況で、当たり前の生理現象を来しているに過ぎない。……はずなのだが、イリジはそのことを重く捉えているようで、こう続けた。

「トネガワの姉御もですか? ……すんませんけど振り向くのも面倒なんで、正面向いたままお伺いしますけど」

 聞かれて答えたのは、後部座席左の着物美人だった。後部座席右の欧米人がトネガワということではないらしかった。

「チタはんが言うた通りどす。……なんもかもじゃまくさい。こないして話しとるのもじゃまくさい。巻き髪も着物もさっさ解いて、どっか海の底にでも沈んでいきたい気分どす」

 芝居がかった京都弁。

 ただ、彼女にしてみても、「途中で京都に寄ってください」という要望は受けていない。……このまま大阪に直行して良いものだろうかと、ますます思われてくる。

 しかし、この車内において俺が気遣いすることは許されていないので、俺はカーナビを操作することもなく目的地に突き進んでいく。

 誰から言われるまでもなく、そうするつもりでいた。

「今から何されてもブレーキ踏むなよ、午護ごご

 助手席から釘を刺されて、「何をする気ですか」と一瞬だけ横目に見る。

 その時には既に、俺のこめかみには拳銃が突き付けられていた。

「前見ろや。事故るやろ」

 滅茶苦茶を言われつつ、確かにその通りなので、俺は油を差していない機械仕掛けみたく、ギリギリとぎこちなく正面に向き直る。

 ……内心、著しいパニック状態に転じている。

 前から後ろに流れていく電灯の光が、異様に速く感じる。……手汗が噴き出し、ハンドルを握る手に力が入りにくい。寒気がして喉が渇く。にわかに呼吸が荒くなっていく。

 そして、そこでは終わらない。

 イリジは俺に銃口を向けたまま、後部座席に呼び掛ける。

「トネガワの姉御もチタの姉さんも、動けるうちに動いとってください。いつ再起不能になるやら分からんので」

 後方から、「りょ―かい」とか「人使いの荒い」だの返ってきつつ、追加で二丁向けられる。

 真後ろは未だ眠りこけている。四面楚歌まであともう一息といった具合だが、真横から銃を突きつけられている時点で、状況としてはほぼ詰んでいる。

 俺は、……うっすら涙目にすらなりつつ、前方を睨んだまま訴えた。

「ど、どうしてこんなことをするんですか。……寄ってたかって銃まで突きつけて、俺に何を要求する気なんですか。……あ、あなた方だって、こんな暴挙に出て、無事で済むはずがないのに………………」

「戯れ言やな」

 隣から、溜め息混じりに覇気もなく、ダラダラと返事される。

「なんでジブンがアタシらの後先を心配すんねん。アタシらがどうなろうとジブンには無関係やろが。……ジブンはアタシらのことなんか、これっぽっちも憶えとらんのやから。ジブンにとってアタシらは、他人も同然なんやから。……なんちゅうか、命乞いの仕方一つ取ってみても、ダッサいなあ思うわ。道理で似合わん金髪なんぞしとるわけや」

「……………………………………………………」

「聞くまでもないことやけど、……ジブン、アタシらのこと覚えとらんやろ。見知った人間にする態度やなかったもんな」

 どう答えるのが最も相手を刺激しないのか、俺が必死になって考えていると、……こちらの返事など待つ気はないと言わんばかり、こめかみを銃口でグリグリされる。

 そして、依然として気怠いままの調子で、イリジは問い詰めてくる。

「なぁ、死ぬ気で考えてみいや。今ここでアタシらが何者か言い当てられんかったら、即射殺されると思ってみいや。……実際、それでも分からんようやったら、もう問答無用で殺してもええ思っとんねん。こちとらは」

 イリジはダッシュボードに踵落としをし、「三十秒計って貰えますか、チタの姉さん」、と。

「アラーム設定するで、ちょっと待ってね」

 チタは拳銃を握っていない方の手でスマホを操作し、「いつでもいけるよ」と。

 そして、助手席から号令がかかる。

「ほな、よーい」

 イリジはここで銃口をわずかにズラし、

「ドン」

 と発砲した。

 左耳の鼓膜が爆音に打ちのめされ、驚愕と共にアクセルが踏み込まれる。

 車体が左右に大きく揺れる。なんとか持ちこたえる。

 穴の開いた運転席側の窓から生温い風が入ってくる。頬を撫でる。

 拳銃が偽物であるかもしれないという淡い希望が木端微塵になる。

 無性に回転している気分になる。左耳の奥に鋭い痛みがあり、激しい耳鳴りがする。

 次はない。

 滅茶苦茶に跳ね上がったスピードを、しかし調整している場合ではない。

 考える。

 ひたすらに考える。……彼女らは俺にとって、何者であるのか。

 ……どうやら、俺は彼女らと面識があるらしい。全くそんな記憶はないのだが………………。

 また、順当に考えるなら、彼女らはそれぞれ、大阪府民、京都府民、愛知県民である。

 アンナは分からない。今のところは思考の外に置いておく。

「十秒経過」と、チタが報じる。

 ……とにかく、少なくとも四人中三人については、東京から遥か離れた土地の人間なのだと推測される。

 俺が東京の外の人間と接するのは、基本的にはタクシー業の最中である。

 たまに、関西とか東北とかまで行ってくれと、頼まれることがある。……元々、新幹線とか飛行機とかで東京に来たのだが、何らかの理由でタクシーで帰らざるを得なくなった人とか、あるいは物好きか、金持ちかである。

 そして、俺が過去に、大阪、京都、愛知にタクシーを走らせたことがあるのかというと、……それは、ある。

 長年タクシードライバーをしていれば、そういった長距離運送の依頼を受けることは、まれにある。……だが、その乗客がどんな見た目をしていたかなど、いちいち覚えていない。太客だろうがなんだろうが、俺にとっては一日に百人程度と相手する乗客のうちの一人にすぎないのだから……………………………………………………?

「二十秒経過」と、チタが報じる。九、八、七と、一秒刻みに切り替わる。

 ここで、俺にある発想が生まれる。

 ……確かに、俺は乗客一人一人の見た目とかは、いちいち覚えていないのだが、

 仮に今まで、、……その記憶については、忘れずに残っているはずではないだろうか。

 だって、それは二重にも特殊なシチュエーションである。……滅多にない長距離運送の仕事を、滅多に乗せない外国人から受けるなど、日々の平坦な業務の中ではまず起こり得ない事態だ。……森の中を歩いていたらイノシシに出くわすよりも珍事だ。そのような状況を経験しているのなら、俺はエピソードとしてちゃんと覚えているはずである。

 その記憶がないということは、……だから、俺は少なくともアンナに関しては、長距離運送したことがないのだ。

 覚えているはずのことを覚えていないのは、そもそも経験してないからだという、ごく単純な論法である。

 つまり、俺は彼女とは、もっと別な経緯で遭遇していたということになるのだった。

 …………ああ。

 ここに来て、推理が振り出しに戻ってしまった。

 俺が東京の外の人間と交流するのは、タクシー業の最中でしか有り得ないはずなのに、……考察を重ねた結果、俺は彼女たちをタクシーに乗せたことは恐らくない。推理のどこかに破綻を来していた。

「六、五、四」と一秒刻みのカウントダウンを、必死に懊悩する。

 ……いや。

 俺が都外の人間と出くわすのはタクシーの中でだけという、その前提は、…………………………………………………………?

 俺は、眼球がブルブル乱れつつ思う。

 …………別に、そうとも限らないのではないか?

 例えば、東京遠征からはるばる帰ってきた乗客を玄関先で出迎える、その夫や妻などとは、……軽く挨拶することがある。長距離移動でクタクタの乗客を、半ば介助する形で降車させて、出迎人に引き渡しがてら二言三言交わすということは……………………………………………………。

 あ。

「三、二、一…………」

「以前お乗せしたお客様の!」

 と、俺は勢いのまま言いかけて、それから尻すぼみに、……様子を窺いつつ締め括った。

「……ご家族の方、ですよね。……えっと、お客様を送り届けた際に、……『遠くまでご苦労さまでした』とか、……チタ様。そう、チタ様から、ご丁寧にも労って頂きまして、……はい、その節はもう、大変ありがたく………………………………」

 助手席のイリジが、「相違ありませんか」と端的に確認する。

 チタはややあってから、「ギリギリセーフだね」と返した。

 ……今から数ヶ月前のことになる。

 名古屋市内の某高級マンションに、公認会計士の男を乗せて行った時に、……エントランスでチタとやり取りした記憶が、おぼろげにあった。

 そして、イリジとトネガワとアンナについても、類似のシチュエーションで接触したことがあることを、芋づる式に思い出していた。

「イリジ様とは大阪市内のシティホテルのロビーで、トネガワ様とは京都市内の近代和風邸宅の門前で、……アンナ様とは、青森市内の洋館の玄関口で、お会いしたことがあると記憶しています。……旦那様を送り届けた際に、皆様がお出迎えになられたことを、今ハッキリと思い出しました」

「せやなぁ」

 と、イリジの方から、真意不明の相槌が飛んで来る。

 そして、読点少なく捲し立てがちに、しかし気怠そうな語気のまま続けた。

「みんなわざわざ玄関まで出張って、タクシーから旦那ァ回収したんや。『もう一歩も歩けん』とか柄にもなくダラダラしよるからしゃーなしに。……家から出る時は元気にしとったのが、嘘のようにくたびれとってなぁ。……まあ、そら長旅の後やし? 用事片付けた後やから? くたびれるのも無理はないわなって思て子分連中に部屋まで運ばせたんやけどな。……でも、旦那のそういう気怠そうな感じは、一向に回復せんまま数日経ってしもた。飯も食わんし風呂も入らんで、アタシが誘っても全然勃たへんし、いよいよこれはただごとやない思て、どっか精神科にでも連れてかんとって手続きし始めとった頃に、…………うちの旦那は、旦那はなぁ……………………」

 言葉が途切れる。こめかみに突きつけられた銃口がブルブル震え始め、にわかに暴発の恐れが増していく。

 後部座席から、「イリジはん」とか、「まだ駄目だよ」とか、制止の声がかかる。

 ……今でなければ構わないのか? とか俺がビックリしている最中に、

 イリジはフロントガラスに三発発砲する。

 左耳の鼓膜が爆音に打ちのめされ、心構えしていても無関係にハンドルがブレる。

 車体が左右に大きく揺れるのを、それでもなんとか持ちこたえる。

 前方に車両はない。銃撃に緊急停車した車と衝突する危険性はない。

 左前方から生温い感じがする。エアコンが車内を設定温度に下げようと、ごうごう唸る。

「うちの旦那はなぁ!」

 という怒声と共に、こめかみが銃口で乱暴に打ちつけられる。

 爆発の直後で高熱を帯びており、ジリジリと頭皮の焼ける感じがする。

 イリジが勢いのままに責め立ててくる。

「ジブンの運転で大阪に帰ってきて! それからずーっと塞ぎがちになって! 『生きるのもめんどくさい』とかほざくようになって! そうこうしとる内に毒杯あおって死んだんや!」

 イリジはこちらに身を乗り出し、銃口を押しつける手に全体重を乗せてくる。

 ハンドルは掴みながらも、頭が窓ガラスと拳銃とに挟まれる。銃口からの熱気は冷めやらず、鈍痛が加わる形になる。

「後ろの三人もそうや!」と、耳元で絶叫される。

「旦那がジブンのタクシーで東京から帰ってきて! そしたら東京行く前までとは比べもんにならへんほど陰気になっとって! そんで一週間もせんうちに自殺しよったんや! 遺言代わりに『生きるのもめんどくさい』ってボヤいてからなぁ!」

 後方左側ですすり泣く音がする。トネガワが涙声になりつつ語り出す。

「こない悔しいことあるでっしゃろか。……うちの夫は、政治家としての悲願を成就しいひんまま非業の死を遂げたにも拘わらず、その元凶であるあんたは、こうしてのうのうとタクシー業を続けてはる。容疑者として疑われることやら一つものうて、一人また一人と乗客を陰鬱な気分にしていく。ハッキリ言うてあんたみたいな人は、自然災害どす。誰かが殺さなあかんのどす」

「…………ちょ、ちょっと待ってください!」

 このままではいけないと、大声で流れを止める。

 何か、訳も分からないままとんでもない罪を着せられようとしている。弁明しなくてはならない。

「い、いくらなんでも、横暴が過ぎます。……だ、旦那様が亡くなられて、気が動転するのは分かりますが、……でも、それで俺を疑うのは、……死亡する数日前に旦那様を運送していただけの、一介のタクシー運転手を疑うというのは、……や、八つ当たりもいいところですよ、そんなの。……大体、動機もないし、……手段だってないでしょう。タクシーを運転しながら乗客を死にたくなるほど陰鬱な気分にさせる方法なんて。……根拠のない疑いですよ。こんな横暴が許されていいわけがない…………………………」

「根拠ならあるわ。私らがそうだで」

 間髪入れずにチタの反論が後ろから繰り出される。

 嘲笑するような、半笑いがちに口角の上がった話し方で。

「私ら、タクシーに乗る直前に、クスリやっとったんだわ。……覚せい剤じゃないんだけど、遅効性で相当ハイになるやつ。……だけど、知っての通り私らは、タクシーの中でどれだけの時間過ごそうとテンションは上がらなんだし、どころかグッタリとしていく一方でね。イリジちゃんなんかは何とか自分を奮い立たせて怒鳴ってくれとるけど、本当のところは私とかトネガワさんとかと同じテンション感なんだわ。……だって、いかり方がチグハグだら? 威嚇とはいえ発砲には躊躇がない癖に、キミに対して怪我という怪我を一つもさせとらんあたり。……そうだね。引き金を引くより面倒なことはしたくないって感じだ。拳を固めて振りかぶったり、髪の毛を掴んで振り回したり本当はしたいはずなのに、すぐ隣にいながらそれが出来んのは、そういった衝動を気怠さに邪魔されとるでに他ならんってことだわ。……指先一つだけで全部の物事を完結させようとしとるでなんだ」

 チタは、ククッと引き笑いしてから、……指で差す代わりに、銃口で俺を差しつつ言った。

「どうやっとるのか知らんけど、キミは周囲の人間を手当たり次第に、。……それはもう、疑いようのない事実ってことなんだわ」

 俺はもう、一心不乱になって弁明した。

 そんなことはありえない。俺は何もしていない。何かの間違いだ。言いがかりだ。あなた方も本当はこんなことしたくないはずだ。面倒事に俺を巻き込まないでくれ。運転手である俺が死ねばあなた方も無事では済まないぞと、必死に捲し立てた。

 しかし、弁明は一切聞き入れられず、

「やかましいねん」

 と。

「さっさ死ねや、この大悪党が」

 と。

 イリジが詰り終えたのを皮切りに、車内に三つの銃声が轟いた。

 殺されるという確信があった上での銃声だったから、俺は今までの比にならないほどの恐怖に襲われて、……とにかくその場から離れようとしたのだろう、ハンドルを思い切り右に切りつつブレーキを踏みつけて、何回転かした後にガードレールに正面からぶつかり、エアバッグに上半身を跳ね飛ばされた。顔面と首に激痛が走る。

 ……なぜだろうか。

 俺は、あんなにも執拗に銃口を突きつけられていたのに、……こめかみに、しっかりと密着させられていたにも拘わらず。

 物を考えられる頭が残っている。……死後の世界に行ったわけでもないだろう。顔面と首筋は痛むのだから。

 硝煙の臭いを。

 耳鳴りを、暑いのやら寒いのやら分からない温度を、……確かに感じている。

 ぼやけていた視界が。

 カメラのピントが調整されるように、ズウ——と輪郭を取り戻していく。

 瞬きするごとに、……真っ暗な空が、穴の三つ開いたフロントガラスが、ひしゃげたガードレールが、……クッション大に膨張したエアバッグが、クッキリと見えてくる。

 横と、後ろも見る。

 死屍累々だ。……イリジもトネガワもチタも、みんなぐったりして血塗れになっている。

 イリジは左側の窓にもたれていて、こめかみに開いた穴から血液と脳髄とを漏らしており。

 トネガワは項垂れた状態で、かっ開いた口の奥から、絶えず大量の血を垂れ流しており。

 チタは大の字になって、心臓の辺りからドクドクと鮮血を噴き出していた。

「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………は?」

 鉄の臭いがするような気がする。

 ダラダラと迸る脂汗、気絶せんばかり激する頭痛。

 口内の異常な渇き。皮膚の張り。神経痛のビクつき。嘔吐感と喘息。咳き込み。

 病院に運んでも間に合わない。

 救護しても助からない。

 不意に、俺は背後から伸びてきた二つのものに、首を左右から挟まれた。

 右側に銃口をあてがわれ、

 左側に注射針が深々と刺されていた。

 得体の知れない異物が入り込んできて、寒気が止まらなくなる。

 バックミラーを見る。

 彫りの深い、プラチナブロンドヘアを優雅な具合にショートにした、欧米人の女。

 ヘッドホンはもう外して、首からぶら下げており、……ずっと閉じたままだった瞼を、半目に開眼して、……灰っぽい碧眼で、バックミラー越しに俺を睨んでいた。

 そして、俺の首筋から注射針を抜き取ると、……全長中指ほどしかない、その注射器を俺に見せびらかしつつ、アンナは第一声した。

「遅効性だはんで今すぐは効がねばって、……もすこの場生ぎ延びるごどが出来だんだば、後で嫌でも痛感するはずだ。自分の気持ぢが、勝手さハイになっていぐのば」

 あーあと溜め息し、グルリと死体を見回してから、彼女は再度バックミラー越しに俺を睨む。忌々しそうにぼやく。

「結局ごうなってまった。……みんな、自分で自分ば撃って死んでまった。復讐するぐれえの激情保ぢ切れねがったはんで。生ぎるのが面倒てげになってまったはんで。……なぁ?」

 嘲るように口元を歪めつつ、ヘッドレスト越しに罵ってくる。

「どった気分だ? 人殺すの兄っちゃ」

 俺は、…………ただ、素直に答えた。

「人殺しはあなた方でしょう。……先に逝ったお三方も、俺の人生を滅茶苦茶にした罪悪感で一杯のはずですよ」

 するとアンナは、突然ゲラゲラと笑い出し、……ひとしきり笑った後、拳銃のグリップを上にして自らの喉笛に突きつけ、「分がってらならいや」と満足そうに息をついてから、

「せいぜい最悪の人生ば過ごすこどだな」

 と言い残して、首を中心に爆発した。

 俺は、いくらかの必要な物をピックアップしてから、車外に出て、すぐそこのガードレールに腰掛ける。

 熱帯夜のジメジメとした空気が、体の外側も内側も等しく湿気らせてくる。左右で行き交う車が道路上のホコリを舞い上げ、どこも濡れてはいないのに雨の日のような臭いがする。

 タバコを吸う。

 あの車内で取り込んでしまった、気色の悪い空気を肺から追い出すために、一刻も早く煙を吸い込まなくてはならない。

 五本、六本。

 一箱吸い終わる頃には、もう口内の渇きが尋常ではなく、唾液の一つも分泌されなくなり、どれだけ深呼吸しようとも息苦しい。喉全体がズキズキと痛む。

 …………この時。

 俺は、何か腹の奥底から、無性にウズウズとしてくる感じがあった。

 このままジッとしていてはならないような、強迫観念にも似た衝動を覚えていた。

 遅効性の向精神薬。

 その作用が、タバコ一箱を吸い切った段になってようやく効いてきたものとみえて、……俺は、高速道路をガードレール沿いに、全力疾走で逆走し始めた。

 勃起すら、

 俺はしていた。……駆け抜けて、擦れるほどに膨れ上がり、痛み、破裂するのではないかと思われるほど怒張し、何が何やら分からなくなりかけていた時。

 サイレンの音が近づいてくるのが聞こえて、間もなく数台の警察車両と出くわす。

 色々と、拡声器越しに激しく、制止を求められている。特殊部隊がドカドカと陣形を為していく。

 八発。

 タクシーの中で発砲の起きた回数である。……流石に、同じ道路を通る誰かしらから通報が入ったのだろう。相手はちゃんと、銃撃戦を想定して出動していた。

 俺のことを、恐るべきテロリストとして容疑していた。

 いま死んだ方が良いだろうか。

 俺は、ぜいぜいと肩で息をしつつ、汗が噴き出つつ、瞳孔の痙攣しつつ、……心臓がドキンドキンと活躍しつつ、全身に張り巡らされた血管が激しく収縮するのを感じつつ、……自らのこめかみに拳銃を当てつつ、考える。

 罪悪感を。

 俺は、ひしひしと感じてしまっていた。……彼女ら四名と、その配偶者は、……俺のせいで死んだのだなと、本心からそう思えてしまっていた。

 ……俺なんかが存在しなければ、彼らは幸福に過ごすことが出来ていたのだろうなと思う。

 また、俺が存在することにより、そのせいで新たに死亡者が生じるのだろうなとも思う。

 なら、俺はやはり、死ぬべきではないだろうか。

 …………しかし。

 それを思い止まらせる理由が、一つだけ存在していた。

 彼らだ。警察官だ。機動隊だ。大勢だ。

 彼らは、今のところ、然るべき業務を全うしているように見える。

 気合を入れて、張り詰めている。……つまり、全く怠惰ではないように見える。

 ……でも、どうだろうか。

 俺に本当に、神がかり的な能力が宿っているのだとしたら、……周囲の人間を手当たり次第に、死ぬほど怠惰にするという、強力な精神汚染性能があるのだとしたら。

 俺はこの包囲網ですらも、悠々と突破できるのではないだろうか。

 迫り来る制圧力のことごとくを、片っ端から怠惰にして、無力化できるのではないのかと。

 それが出来てしまったら、……俺はもう、言い逃れの余地なく、異能力者だ。

 意図せず八人殺した、無自覚の殺人者だ。

 そのことが確定して、ようやく俺は、……自らを、死ぬべき人間として殺せるのだろう。

 今はまだ、どうしても自分自身を、そのような大罪人だと認めきれずにいるから。

 俺は踏ん切りをつける意味でも、……拳銃は握ったまま、両手を挙げて、機動隊に向かって歩き始めた。

 何がおかしいのか、笑みが込み上げてくる。

 唇がわななき、歯の根も合わず、鼻息荒く眼前の敵を睨みつけながらも、……イヒイヒと声が漏れる。

 俺は盾を構えた特殊部隊のうちの一人に、銃口を向ける。その直後、

「突撃」

 という号令だったか何だったか、俺は四方八方から滅茶苦茶に取り押さえられる。

 即座に拳銃が奪われる。為す術もなく無力化されていくのは俺の方である。

 そして、あれよあれよと手錠をかけられ、地面に組み伏され、

 俺はそのままパトカーで、ゲラゲラ笑いつつ、警察署に護送される運びとなった。

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