一章 遠征

3 厄介な刑事に詰められた後

 テレビもない。ラジオもない。

 車はひたすら走っている。……大阪に向けて、黙々と、移動のみする。

 気まずさに満ちた車内の後部座席で、俺は身を屈めている。

 止血が済んでいないからだ。……ウエットティッシュを顔面に押し当てて血を吸わせては、床に広げたレジ袋に落として、新しいウエットティッシュを押し当てる作業を繰り返している。

 被害者自ら刃傷沙汰を隠蔽しているのだからあべこべだ。……というか、順当に具合が悪くなってきた。貧血気味というか、意識の遠のいていく感じが……………………………………。

 一気に引き戻される。ハッとする。

 突然、右の太もものあたりがブルブル振動しだしたのだ。……「眠っている場合じゃないぞ」と揺すり起こされるような、それはもう必死な。

「誰からの電話ですか?」

 彼岸は助手席側の窓を下げつつ尋ねてくる。血の臭いが車内にこもっているのが嫌だとか、多分そこらへんだと思う。

 俺は左手のウエットティッシュで顔面を抑えつつ、右手に付いた色々な汁をズボンで拭いてから、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。スマホを取り出した。

 が、俺はロクに画面を見ることも出来ないまま、彼岸にスマホを没収され、

 フリスビーでも投げる塩梅で助手席の窓から放り捨てられてしまった。

「……………………………………………………………………」

 ただ唖然とするばかりの俺である。

 現在、車は橋の上を通過しており、スマホは川に沈んだ。……防水加工とか全くない安物のスマホだったし、この状況では取りに戻ることも不可能だから、……しばらくの間は、スマホ無しでの生活を余儀なくされた形になる。

「ご存知かもしれませんが、あなたのスマホの番号は公に割れています。取材陣や愉快犯から度々電話がかかってくるような端末は、言わずもがな今後の仕事の邪魔になります」

「…………SIMカードを抜くだけでは駄目だったんですか?」

 彼岸はバックミラー越しに、ちょっと目を丸くしたが、……すぐに元の冷ややかな目つきに戻り、

「私にまだ殺されていないだけの罪人が、何を未練がましくしているのですか」と放言した。

 ……いや、あながち放言でもないのだ。

 俺は彼岸に殺されることを渇望する人間である。それなのにどうして、金属の箱一つに執着しているのだろうか。

 それは死を覚悟した人間の気持ちじゃない。

 俺は誰からどれだけ奪われようと、捨てられようと、……それを残念がってはいけないし、反発してはならないのだ。

 遺品の処分を代わりにしてくれているのだなと、むしろ感謝しなくてはならない身分なのだ。

 だから俺は、本当に心の底から、「ご忠告痛み入ります」と返した。。

 特に返事はない。相槌もなく、ただ助手席の窓が上がっていく。それだけの用だったのだと言わんばかりに。

 橋を渡りきったあたりで、彼岸が別の話をする。

「高速に乗る前に昼食を取りますが、このあたりで一番近いドライブスルーはどこですか? 元タクシードライバー」

 俺はカーナビを見て、進行方向とかも加味しつつ答える。

「道なりに進んで、三つ目の信号を左に曲がったすぐのハンバーガー屋が一番近いです。……あくまでテイクアウトがしたいだけなら、その手前のコンビニでも事足りるかと」

「この酷暑の中、わざわざ車から出てあなたの食事を調達する気にはなれませんね」

「……彼岸さんが駐車場で涼んでいる間、俺が店内で買ってくるのでは駄目なんですか?」

「顔面に大傷の流血男が街中に出没して、マトモに買い物が出来るとでも?」

 俺はこう指摘され、「確かにな」と、「愚かな質問だったな」と素直に反省していたのだが、……しかし、言い出した張本人の方は、むしろそうでもなさそうにしていた。

 というのも、「いや」とか、「あるいは」とか、……小声でブツブツと、何やら引っ掛かっているのだ。

 考え事をしながら運転をしている。僅かながら蛇行気味になっている。

 ここで事故死でもしようものなら残念極まりないし、仮にも運転を生業としていた者として口出しせずにはいられない。口出しした。

「あの、考え事なら車を停めてからした方が………………」

「気が変わりました」

 と、表情は寸分変わらずに、仏頂面のまま言う。

「コンビニに行きます。代金は私が出しますから、あなたも付いてきてください」

「…………え? いや、俺は構いませんけど、……騒ぎになるという話だったのでは?」

「騒ぎになるかならないかを検証したいのです」

 車は左折する。彼岸はすぐ手前のコンビニの駐車場に停め、エンジンを切る。

「車を出る前に、一つだけ命令があります」

 シートベルトを外しながら投げかけられる物騒な単語に怯みつつ、俺は俺で傷口をウエットティッシュで塞ぎながら、片手間に相槌しつつ、もたもたシートベルトを外していると、……出された指令はイマイチ納得しかねるものだった。

「店内に入った途端、中の人間からまず間違いなく注目されると思いますので、……何かしら相手を落ち着かせるように話して、警戒を解いてください。でなければ買い物すら満足に出来ませんので」

「……余計に警戒されませんか? こんな、ワイシャツの襟まで血まみれの人間に話しかけられたら、むしろ絶叫されたり通報されたりしかねないと思いますけど………………」

 など言っている間に、彼岸は外に出ている。開かれた運転席のドアからこちらを覗き込み、

「出ろ」

 と親指を後ろに向けた。手前は言われたことだけやっていろと、右目で脅しつけてくる。

 そして、この期に及んでまでうだうだ反論する熱量も俺にはないので、……快適な車内から、炎天下に身を投じる。ドアを閉じる。

 改めてタクシー然とした車だ。社名表示灯を取っ払っても、ボンネットの左右に取り付けてあるフェンダーミラーとか、普通の乗用車にはない特徴である。

 この外観だけ見たら、誰もがタクシーだと思うに違いない。……とか何とか、己の滑稽さを薄めようと頑張っている間にも、彼岸はスタスタと店に向かっているので、俺も慌ててその後についていく。

 自動ドアの前に立ち、俺が横に並ぶのをロングコートのポケットに手を突っ込んだまま待ち、……無言のまま右目で俺を見上げてから、一歩踏み出す。

 自動ドアが開き、彼岸は先んじて中に入り、俺も一歩遅れて入店する。

 カウンターの、茶髪を野暮ったい感じに伸ばした男子大学生風が、「らっしゃーせ」と砕けた挨拶をしかけたのだが、案の定こちらを見て硬直する。目に見えて動揺する。

 俺は横っ腹を肘で小突かれて、「ああそうだった」と思い出し、顔面をウエットティッシュで押さえたまま会釈しつつ、なるだけ気さくな感じで話しかけた。

「お仕事ご苦労様です。……えっと、今日なんかダルいですよね。低気圧なのかな…………」

 こんな具合で。思い付くまま。

 すると、相手の方も若干だけ間を開けてから、控え目に会釈した。……そして、退屈そうに顔を撫で、そのままの流れで口元に手を当て大あくびした。しぱしぱと瞬きして、客が並んでいるわけでもないのに、レジカウンターに棒立ちしていた。

「………………………………?」

 俺は面食らう。……面食らうが、事の異様さを整理する前に、隣人から呼びかけられる。

「買い物は私が済ませておくので、牛護は店内を歩き回っていてください。……客とか店員と鉢合わせた時は、さっきの感じで話しかければ大丈夫のはずです」

 彼岸は一方的に命令すると、買い物かごを手にして視界から消えてしまった。

「…………………………………………………………」

 一時、この現象が何であるのかを考えてみようとしたが、……今、商品棚の陰から出てきた婦人と目が合ったため、思考を中断して話しかける。

 さっきの店員にしたのと同じように、軽く会釈して、「こうも暑いと毎日夏バテしてしまいますね」とか何とか喋ると、またぞろ向こうの方も会釈で返して来て、そして何事もなかったかのように、欠伸などしながら通り過ぎていってしまった。

 それから、俺は店内を端から端へ縫うように移動しつつ、途中で客や他の店員とすれ違うのだが、……多少、驚愕されたり短く悲鳴を上げられたりすることはあったものの、こちらから話しかけると一気にそういった警戒のモードが解かれて、……会釈で返すなり無視するなりし、そして何事もなかったように仕事や買い物に戻っていった。……俺が現れる前と比べて、僅かに気怠そうになりつつも。

 気怠そうに、である。……俺は、

「彼岸さん」と呼びかけた。

 彼女はロクに吟味もせず、ただひたすらに買い物かごに食品を投げ入れていた。……端から端まで手当たり次第に、棚卸でもするように。

 彼岸は商品をかごに入れる手を止め、周辺を軽く見渡してから、「騒ぎになっていませんね」と感想した。

「…………どこまでが、俺のせいなんでしょうか」

 血が流れているから顔を抑えているというよりは、絶望のあまりといった感じになる。

「分からないんです。俺は今回の場合も、銃の時も、ただ普通にしていただけなんです。……それなのに、周りの人間は気怠そうになって、こんな風に何もかも無関心になってしまったり、……銃で自分の頭を撃ち抜いてしまう」

 彼岸は棒立ちで俺を見上げている。俺が言い終わるのを待っている。

 慈悲とかではなく、ただただ冷ややかな視線で。

「……俺の数少ない友人は、みんな無職になるか病むか、自殺してしまいました。……それも、俺のせいだったんでしょうか。……俺が、……無自覚のうちに、相手を怠惰にさせてしまったから………………」

「それがあなたの知りたいことなのですか?」

 遮られる。

 右目が、心なし不愉快そうに、細まっている。

 気怠さとは無縁の、それは苛立ち方だった。……そして、視線を外しつつ、鼻で溜め息をし、

「あなたが知るべきなのは、『どうすれば他人を怠惰にせずに済むか』でしょうに」

 と。

「……可能なんですか? そんなことが」

 彼岸はすぐには答えず、はち切れんばかり詰め込んだ買い物かごをドスンと床に下ろして、「腕が疲れました」「レジまで運んでください」と命令してくる。

 ……実際に持ち上げてみると、両手を使って運びたくなるくらいの重量だが、彼女が片手で持っていた手前そういうわけにもいかず、何とか平静を装いつつ右手の腕力だけでレジに運ぶ。先ほどの茶髪男子大学生風にお会計をお願いする。

 気怠そうに、ゆっくりとレジを通していく。左隣の彼岸が口を開く。

「あなたが他人を怠惰にするためには、いくつかの条件があります。……その条件の一つは、相手の怠惰さに同意することです」

 すぐにはピンと来ない。……相手の怠惰さに、同意?

「集団極性化という現象があります」

 彼岸の解説は続く。

 バイトは気怠さのあまりか、何度もレジを失敗してはやり直している。

「集団極性化。……これはすなわち、同じ意見や感情を持つ人間が集まると、その意見や感情が激化する現象のことを指します。

「例えば、学校で起こるイジメなどは、この心理が原因となって発生する場合があります。

「仮に考えてみましょうか。

「ある学校に、Aという男子生徒がいるとします。

「Aは至って善良な男子でしたが、周囲のクラスメイトはAに対して、若干の嫌悪感を抱いていました。……とはいえ、あくまで『軽い嫌悪感』ですから、クラスメイトらが日常的に会話する中で、あえてAの悪口を言ったりするほどではありませんでした。

「しかし、一人の生徒が何気なく、Aに対する不満を他のクラスメイトに話し始めると、同様の意見を持っていた他の生徒らもそれに同意し始めます。

「Aの特徴に対して『変わってるよね』と控えめなコメントから始まり、『そうだよね、なんか嫌だね』と同調する人が増えてきます。……後ろめたさこそあれ、そうしていく中で段々と、集団内での意見が纏まり始めます。

「こうしてAへの不満や嫌悪感を互いに同意し合っていると、自分がAに対してネガティブな気持ちを抱いているのは、さも正しいことかのように思えてきます。

「これだけ沢山の人が、みんなAのことを否定的に思っているのならば、自分のこの苛立ちもまた正当性のある苛立ちなのだと鼻息を荒くし、Aへ不満を抱いていることの後ろめたさなどすっかり失って、嫌悪感がエスカレートしていきます。

「同意されることで後ろめたさという心理的ブレーキを失い、感情が暴走していく過程。

「これが集団極性化です。個人の些細な感情が、集団の中で同意されて強化していく現象です。

「では、これが『怠惰』の場合であればどうでしょうか。糸田さん」

 急に誰に話を振っているのだと思ったが、見ると今まさにレジ打ちしている男子大学生風の名札に「糸田」と書いてあった。キラーパスにも程がある。

 しかし糸田君は大して驚きもせず、どころかレジ打ちを完全に停止して口を半開きにしつつ、ボンヤリ虚空を眺めてから、ダラダラと喋り始めた。

「前に勤めてたバイト先、なんか常にピリピリしてたんですよね。みんな余裕ないっていうか、目と眉の距離近くね? って感じで。……人手不足なのもあったんでしょうね。休憩時間とか無いに等しかったし、あっても飯食って仮眠取るだけで、……指示とか教育とか以外の会話はゼロだったんですよ。

「後々に聞いた話だと、かれこれもう五年くらいはそんな感じで激務が続いていたらしくて。……そんな中で先輩らは、弱音を吐く暇すらないくらいフル稼働していたわけですけど、……ある日、大きめの地震がありまして。その影響でしばらく暇な日が続いたんですね。

「休憩時間も四十五分間きっかり、ちゃんと取るようになって。その中でお互いに会話とかもするようになったわけですけど、

「『ダルいよな』ってワードが、ちらほら飛び交うんです。

「仕事がダルい談義ですね。……まあ、別にそれ自体は普通の話題というか、どこの職場でも交わされる話だと思うんですけど。労働ってダルいので。

「とにかくそんな風に、お互いの気怠さを同意し合ってたわけです。

「で、そしたら何だか、あくまで取っ掛かりとしてのダルい談義だったのが、段々と皆その話しかしなくなってきて。口を開けば一言目には『あの仕事はダルいからしたくない』だとか、『この給料でこんなダルい仕事できない』とかそれぞれ口に出して、そんで同意し合うようなコミュニケーションが、職場内でお決まりのやり取りになってきまして。

「そうしていくと、明らかに自分の中で、気怠さが増していくんですよね。……以前と比べて仕事の量も大変さも半減しているのに、休憩を切り上げたくない。そのまま帰ってしまいたいと思うんです。気怠さのあまりに。

「それは俺だけに限った話じゃなくて、他の人たちに関してもそうだったようで、……地震のあった日から一ヶ月経つ頃には、半分くらい退職したんですよね。もうダルいからって理由で。

「俺もそのタイミングで退職したんですけど、……残った半分についても、地震以前と比べて明らかに仕事へのモチベーションがなくなって、仕事は山ほどあるのに各々サボりまくってたみたいです。

「で、結局その職場は潰れました。

「まあ、だからつまり、……ちょっと仕事がダルいなって思っていたぐらいの気持ちが、集団生活の中で同調されることで強化して、やがて退職に至ったりする程度のことは、……日常的にかは知りませんけど、充分に起こり得ると思いますよ。俺の経験で物を語るならですけど」

 彼岸は一通り聞き終えてから、「そうなのです」と相槌する。

 そして、糸田に対し、「あなたも大変くたびれたことでしょう」と、「レジは自分でするのであなたは休んでいて下さい」とレジカウンターの向こう側に行った。彼は彼で「それじゃ俺はタバコ行ってきますね」と言い残して入口から去ってしまった。白昼夢でも見ている気分だ。

 彼岸はテキパキとレジを通しつつ、淡々と話す。

「あなたの性質もそれと同じ原理なのです。……あなたに同意されることで、怠惰さが極性化する。牛護が『今日なんかダルいですよね』と、他人の気怠さに同意するようなことを言うと、……相手は、『この気怠さを曝け出しても否定されることはないんだな』と安心して、我慢などしないようになり、抑え込んでいた怠惰がどんどんエスカレートしていって、……その結果、何もかも面倒になって、無気力で無関心になり、目の前の人間が大怪我をしていることさえもどうでも良くなってしまう。つまりはそういうことなのです」

「…………集団極性化を、一人だけで起こしてしまうのが俺ということですか?」

「一人だけで、しかも一言だけで、ですね」

 彼岸はレジを通した商品を片端から床に投げ捨てつつ言う。

「集団極性化とは通常、集団が一定の期間の中で互いの意見に同意し合うことで、それぞれの感情が強化されていく現象ですが、……あなたはこの店内の人間それぞれに、せいぜい一言か二言ずつしか話しかけていないのに、同意していないのに、……この有様になる。

「あなたの同意力は、それだけ強く、そして深いということです。

「……あなたがタクシーの中で、例の八人に対してどんな会話をしていたのか、私は知る由もありませんが、

「あなたのような高い同意力を持つ人間に、何時間にもわたって怠惰さを同意されていれば、気怠さのあまり自殺したくもなるだろうという話です」

 彼岸はレジを打ち終え、向こう側でモニターを操作する。

「そして厄介なことに、あなたはそんな洗脳にも似た同意を、無意識のうちにしてしまう」

 こちら側のモニターが会計画面に切り替わる。

「私は『何かしら相手を落ち着かせるように話せ』としか指示しなかったのに、あなたのする話は『今日はどうにも気怠いですね』とか『夏バテしてしまいますね』とか、相手の気怠さに勝手に同調するような内容ばかりでした」

 彼岸はその場で屈みこみ、足元から買い物かごを持ち上げてカウンターに置く。

 彼女はレジに通した商品を床に投げ捨てていたのではなくて、床の上にあった買い物かごに投げ入れていたらしい。

「まあつまり、他人を怠惰にしてしまうというあなたの性質は、あなたが他人の怠惰さに同意しなければ発動させずに済むわけですが、」

 彼岸はこちら側に戻ってきて、クレジットカードで決済する。

 カードを離さないでくださいのポップアップが出る。

「それだけの簡単なことが、あなたには難しいのです」

 決済が完了し、彼岸がカードを財布に仕舞って、レシートがニョロニョロと出てくる。

「何せ、同意というのは別に、言葉だけではありませんから。……黙って頷くだけでも、それは同意なのです。それもしないように常に意識しながら生きることが、あなたのような人間に出来るのでしょうか。とても意志の強そうな面立ちには見えませんが」

「……それは、…………………………」

 言いかけて、詰まる。

 後ろに並んでいる客の列を見たからだ。……早く切り上げて去らねば、という意味じゃない。

 誰も文句を言わないのだ。

 こんなにも長時間、レジを占領しているのに、……文句を言うことさえ面倒だとばかりに、各々スマホを見たりボーっとしたりしている。

 そして、他にもレジはあるのに、一向に店員は来ない。視界には存在しないが、きっと仕事するのが面倒だからそこらへんで油を売っているに違いない。

 全て俺のせいでこうなっている。……が、そこでまた自己嫌悪に陥るとかでもなく、

 妙なことに気付いたのだ。

「……俺では頭が足りないので、一緒に考えて欲しいことがあるんですけど」

 彼岸はカウンターに手を突き、「くだらない話でなければいいですけどね」と、三白眼で。

「弁明とかではないんですけど」

 俺はちゃんと前置いてから、切り出した。

「俺が長時間を共にした人間は、怠惰さを強化されて死に至る。東京から名古屋までの五時間程度を一緒に過ごすだけで、相手から生きる気力を根こそぎ奪ってしまう。……のであれば、俺の周囲の人間はもっと自殺しているはずです。学校の同級生然り、会社の同僚然り、……親に関しても、俺が産まれたらほぼ入れ替わるような形で死んだはずです。……ですが、実際はそんなことにならなかった。親父とお袋は六十歳を迎えないまま死にましたが、それでも俺を産んでから三十年近く生きていたわけですし、俺の同僚や同級生の中で自殺した人間は、……居ないことはないですけど、それでもごく少数です。割合で言えば一パーセントにも満たない」

「つまり?」

 彼岸は百円ライターでタバコを吸い始める。ただ非常識なだけというよりは、「こんなことをしても誰も注意しないくらいお前の性質はヤバいんだぞ」と、暗に見せつけるような。

 火災報知器が鳴らないだろうか。

 鳴っても俺が居たら大事にならないのか。みんな怠惰になるから。

 じゃなくて、本題。

「俺はいつからこの性質を持ち始めたのかという話です。……こんな、初対面の人間と数時間話しただけで相手を死なせるような性質、以前の俺にはなかったはずです。……彼岸さんなら分からないですか? 俺よりもずっと、この性質に詳しいようなので…………………………」

「あなた、以前からそんな落ち込んだ人間でしたか?」

 突拍子もない質問に面食らってしまう。

 が、無駄話するタイプの人間ではないと思うので、これも何らかの意図あっての質問だろうと思い、率直に答える。

「陽気か陰気かで言えば、昔からずっと後者でしたけど、……それが何か?」

「……もう少しストレートな物言いにしましょうか。少し手を借りますね」

 彼岸は俺の手を取ってそこに灰を落とす。尋常でなく熱いが意外とすぐに痛みは引く。ただ全身に悪寒は走るし、泣きたくはなる。

 そして彼女は一服してから、タバコを持った手で俺を指差し、問い直してきた。

「その顔、……放っておいたらそのうち死にそうな、そんな顔をするようになったのは、いつ頃からだったかと聞いているのです」

「…………ああ、そういうことですね」

 手の平に落ちた灰を、なんとなく親指ですり潰してみる。……黒くて粘り気のある粉だなと思いながら、気を紛らわしつつ答える。

「親父が自殺した時からですね。還暦を迎える直前で、お袋と色々計画とか立てていた矢先にそうなったもんだから、二人して絶望していたんですけど、そしたらお袋も後追いしまして。……その頃からですね。俺が生きる活力を失ったのは」

「それは大体、今から半年前のことですか?」

 形だけでも同情してくれないものかな。口に出すのも結構しんどい話題なのだが。

 だが、なぜ半年前だと分かったのだろうか。具体的な時期についてはまだ言っていないはずだが……………………。

「ご存じかどうか知りませんが、あなたが死なせた八人の乗客はいずれも、今から半年以内にあなたのタクシーに乗っているのです」

 彼岸はカウンターの向こう側のタバコ棚を眺めつつ言う。

「ですが、それ以前に乗せた人間で、彼らのように乗車から間もなく自殺したというデータは、今のところ上がっていません。あらゆる報道機関が血眼で調べ回っているにも拘わらずです」

 そう難しい理屈ではありませんと前置いてから、彼岸は持論を展開する。

「つまり、あなた側の精神状態によって、同意の効き方も変わってくるということです。……あなた自身が無気力になればなるほど、あなたは他人の無気力さに深く同意してしまう。以前のあなたはせいぜい同級生や同僚をだらけさせる程度の性質しか持たず、だからこそあなたも自分自身の性質に気付かなかったのでしょうが、……両親を亡くして生きる気力を失ってからについては、その限りではないというだけのことです」

 それは確かに理屈だった。

 いくら俺が、「生きるのさえ面倒な日々ですよね」と言ったところで。俺自身が本心からそう思っていなければその同意に説得力はない。受け取った側は「心にもないことを言いやがって」と思うだけで、心境が変化することはない。

 反対に、本当に心の底から死にたいと思っている俺が、「生きるのさえ面倒な日々ですよね」と口にした場合は、その言葉が凄みを帯びて、聞く人間の心にも強く響くということなのだ。……親が死んで自殺願望が強まるのと比例して、俺の同意は強力になったのだ。

 ……なら、それより以前に自殺したり病んだりした俺の友達は、俺の同意とは関係なくそうなったのかと言うと、これもまた違うのだろう。

 彼女の話によると、俺のこの性質は最近になって強化されたというだけで、学生の頃から既に持っていたらしいし、……その頃の弱い同意力でも、長年かけて付き合い続けていれば段々と相手の怠惰さを極めていくことはあったのだろうし、その結果、最悪の結末に至ったこともあったのだろう。

 無意識に。

 無自覚のうちに、……友達や、…………親父に、お袋を、…………殺していたことは。

「………………え?」

 熱い。

 熱い、熱い、熱い、熱い、………………いくら何でも熱すぎる。

 彼岸が。

 俺の右手を取って、手の平にタバコの先端を当てている。

 押し当てているんじゃない。ただ添えている。

 だが、むしろそのせいで火は一向に消えず、俺の手の平を焦がし続けている。

 全身の血管にミミズが巡っているような気分になる。

 我慢比べをしていたわけじゃない。考え事をしていて気付くのに遅れた。

 その間にずっと蓄積され続けてきた火傷の痛みが、認識すると同時に一気に感じ始め、俺は半ば暴れる勢いで手を振り払い、左手で右手首を掴んで、焦げ跡に息を吹きかける。

 何してくれてるんだとか、目の前の狂人に絶叫しそうになるが、今さらと言えば今さらだ。顔面に深々とナイフを横断させられた後に言うのでは。

 俺は彼岸をただただ睨む。珍獣でも見る目つきになって。

 彼岸は、……自らの左耳から右耳にかけて、指で線を引いて言う。

「血、止まってますよ」

「……………………………………………………」

 そういえば。

 俺は今さっき、半ば暴れるようにしていた中でウエットティッシュを落としていたが、……顔面に液体の滴る感触はないし、傷口の下あたりを拭って見ても、僅かに濡れている程度だ。

「あなたの性質を無効化するためには、もっと簡単な方法があります」

 ゆっくり詰め寄ってくる。

 俺の眼球でタバコの火を消そうとしてくるので、俺は足がもつれつつ仰け反り、尻餅を突く。

「そもそも、あなたが怠惰な気分にならないようにすればいいのです。このようにタバコの火で覚醒させたり、それでも足りなければ入路の向精神薬漬けにしたりして、……怠惰とは無縁の精神状態を維持してやれば、あなたの同意力もそれに伴って弱まる。うっかり他人の気怠さに同意しようが、あなた自身が気怠そうにしていなければ、怠惰の同意は成立しにくい」

「…………お手数おかけします」

 彼岸は列に並んでいる主婦の手の平に吸い終わったタバコを握らせて、「行儀だけは一丁前ですね」と俺の横を通り過ぎる。

「買い物カゴごと持ってきてください。どうせそれを咎める人間は存在しませんので」

 俺は痛む腰を撫でながら立ち上がり、ダンベルのごとくカゴをカウンターから持ち上げると、並んでいた客に「ご迷惑おかけしました。すみません」と謝りつつ店を出た。

 糸田君は置き灰皿の横でまだ吸っていた。……彼、まさかこの先ずっとこうじゃないよな? 店内の人らにしてみてもそうだが。

 彼岸はもう運転席に座ってエンジンをかけている。

 俺も後部座席に乗り込む。……何となく、左側。買い物かごは右に置く。

「バナナとマヨネーズを取ってください」

「? はい、構いませんけど…………」

 俺は「まさかな」とは思いつつ、買い物かごから言われた二点を引きずり出して渡す。

 彼岸はバナナの皮を剥き、そこにマヨネーズをふんだんにかけた。食べた。

「なんでそんなことするんですか?」

 駐車場から出つつ、彼岸が言うには、

「あなたに親近感を持たれたくないためです」

 らしかった。そんなことをせずとも、俺が彼女に親近感を抱くことなど永遠に有り得ないと思うのだが。

 そして、続けざまに命令する。

「あなたは大阪市に着くまでに、そのかごの中の食べ物を全て平らげて下さい」

「…………ちなみに理由とかって、」

「食事中に話しかけないでください」

 彼岸はマヨバナナを口に運びつつ、カーナビに忠実に走らせ続ける。取り付く島もない。

「…………………………………………」

 腹を括って、俺はとりあえず弁当から食べ進めていくことにする。

 傷が目立たなくなったら運転を交代するという約束だからだ。運転しながらでも食べられるものに関しては、後に残しておいた方がいい。

 というか、箸が一膳入っていた。

 これは俺に対する配慮というよりは、犬食いでもされて車内に食べカスを落とされるのが嫌だからだろう。多分。

 大食いしつつも綺麗に食べることを要求されている。頑張らなくては。

 俺は鮭弁当を頬張る。こんな時でも飯は美味い。冷えてなければもっと良かった。

「…………………………………………」

 街並みが流れていくのをボンヤリ眺める。それ以外に見るものがないから。

 ……未だ、全然分からないことだらけだ。

 この性質のメカニズムは大方分かったにしても、どんな経緯で得たものなのかとか、生まれつきなのかとか。

 俺の同意がどれだけ相手の精神に影響し続けるのかとか。

 俺はどうして、他人の気怠さに、無意識のうちに同意してしまうのかとか。

 ……どうせなら、もっと人の役に立つ性質でありたかったなと思うばかりだ。

 他人を元気にする性質とかさ。……まあ、そんなこと考え出したらキリがない。

 今はまず、指示されたことを着実にこなさなくてはならないのだし。……これだけの食料を半日以内で完食しきるのは、よっぽど高難易度だ。むしろ無心にならなくてはならない。

 車酔いの方は心配ない。何年タクシードライバーをやっていたと思うのだ。

 それより不安なのは、いよいよ三十に差し掛かる年齢で、胃が弱っていないかどうかである。

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