16、大建国祭の幕開け

 ついに待ちに待った大建国祭が始まった。


 私とアルカンジェロは仮装姿で、伯爵邸の水上玄関から大運河へすべり出した。船尾に立ったゴンドリエーレが長い櫂を巧みに操る。


 運河沿いの広場では大道芸人がパフォーマンスを見せ、色とりどりの衣装で仮装した人々が楽しげに眺めている。


「リラお嬢様の衣装、すみれ色が瞳の色によくあって、とても素敵ですね」


 アルカンジェロが率直に褒めてくれるので、私はまた、幸せのピンクの雲に乗ったみたいにふわふわした気持ちになった。目元だけ隠した仮面の奥から、甘いチョコレートブラウンの瞳が私を優しく見つめている。


「町娘風の白いエプロンも、リラお嬢様の清楚なイメージにぴったりです」


 私が選んだ今年の仮装テーマは、快活な町娘だ。すみれ色の糸で繊細な花柄が織り込まれた膝下丈のワンピースにエプロンを重ねている。髪には贅沢なレース刺繍で花々が描かれた藤色の頭巾をかぶり、足元は革製の素朴なブーツ。もちろん目元を隠す仮面も忘れていない。


「こんな贅沢な恰好をしている町娘がいるわけないけれど」


 私は照れ隠しに笑いながら、こっそり本音を漏らす。


「いつも重いドレスばかりだから、動きやすい衣装を作ってもらったの」


「リラお嬢様、本当は活動的な方ですもんね」


 また昔から私を知っているかのような口調。でももう腹を立てたりしない。彼の瞳に映る「私」が好きだから。


 貴族社会では堅物令嬢と陰口をたたかれるけれど、アルと一緒にいると、彼の言う通り本当の私は活発なのかも知れないと思えてくる。


 教会前の広場から、辻楽師たちが奏でるにぎやかな音楽が聞こえてきた。


 私はアルカンジェロのゆったりとした古代風の衣装を見つめながら尋ねた。


「アルの仮装は古代神話の登場人物かしら?」


 キトンのような白地の服には金の刺繍がほどこされ、緋色のマントを羽織った姿は英雄のよう。豊かなブルネットの髪に飾った月桂冠もよく似合っている。


「音楽の守護神です」


 彼は答えて、木枠の部分を金色に塗った竪琴をポロンと鳴らした。彼の背中からは銀の矢が入った矢筒と弓がのぞいている。


「その弓矢は本物ですの?」


「ええ。銀色に塗っているだけで、ちゃんと殺傷能力もあるんですよ」


 ニッと笑った姿は悪ガキのようだ。


「いざという時は俺がお嬢様をお守りします」


「あなたが守ってくれるなら私、どこへでも行けそうだわ」


「お望みならどこへでも連れて行きますよ」


 彼の言葉に首から上が熱くなる。色づいた頬を見られたくなくて、私は彼に背を向け運河沿いの景色に目をやった。


 大きな橋のたもとでは市場がひらかれ、外国から取り寄せられた珍しい香辛料や絹織物、近隣の島で作られたガラス細工やレース製品が並んでいる。


 やがて豪華な建物パラッツォが立ち並ぶうしろに、大聖堂の丸屋根クーポラが見えてきた。行く手の青空には鐘楼がそびえ、海の街に鐘の音がこだまする。


 悠々と滑空するカモメに誘われるように、ゴンドラは海へ出た。


「まあ綺麗」


 私は思わず目を細めた。視界を埋め尽くす広大な海は、春の陽射しを浴びて光の中で踊っている。


「風が冷たくありませんか?」


 アルカンジェロが緋色のマントで私を包み込んでくれた。


 私は彼の力強い胸に、そっとこめかみを寄せる。心の中で「大建国祭、万歳!」とつぶやいた。一年に一回、祝賀期間だけは、侍女マリアの監視なく呼吸ができる。


 船尾には伯爵邸のお雇いゴンドリエーレが立っているから、私のプライバシーが完全に保たれるわけではないけれど、マリアのように目を吊り上げて「お嬢様!」と怖い声を出すことはない。


 私たちはゴンドラに揺られて、サンヴェルデ島へ到着した。


 緑豊かなサンヴェルデ島は、農民と漁民が暮らす静かな島だ。だが今日は、仮装した人々が思い思いに楽しんでいる。秘密の恋人もいれば、親子連れの姿も見える。


 私たちも大きな木の下のベンチに座り、昼食をとることにした。伯爵邸の料理人に、持ち運べる食事を用意してもらったのだ。


「どれになさいます?」


 私は布の包みをひらいた。薄くスライスしたパンに具材をはさんだものが並んでいる。私はパンの中身を説明し始めた。


「まずこれは、水抜きをしたモッツァレッラと生ハムにルッコラを添えて、バルサミコ酢で風味をつけているの」


「ルッコラの緑が目にも鮮やかですね」


「でしょう? それからこちらは―― ツナみたいね。酢漬けにした小玉ねぎとケッパー、オリーブの実もはさんでおりますわ」


 三種めのパンを説明する前に、アルカンジェロが遮った。


「リラお嬢様が先に選んでくださいよ。どれもおいしそうだ」


「すべて私のお気に入りだから選べないのよ。調理担当に私の好きな味をリクエストしたんだもの」


「それではまずツナからいただきます」


「どうぞ召し上がれ」


 アルに声をかけてから、私は悩んだ末、オイル漬けのアーティチョークとハムがはさんであるパンを選んだ。アーティチョークにしかない独特の食感が好きなのだ。かすかな渋みとほのかな甘みが混ざり合った香りは、豊かな生命力を感じさせる。オイル漬けにする際に加えられたオレガノやタイムなどの香草もアクセントになって、塩味の強いハムとの相性も抜群だ。


 木漏れ日の落ちるベンチで、潮風を感じながらいただくランチに舌鼓を打っていると、


「ケッパーがツナの臭みを消して、オリーブの実がコクを与えておいしいですね!」


 アルカンジェロもシンプルな味わいに感動している。


「そうなの。小玉ねぎの酢漬けの酸味で、意外とさっぱりいただけるのよ」


 食材同士を組み合わせただけなのに、まるで室内楽のアンサンブルのように、素晴らしいハーモニーとなるのだ。


「アル、二つめはどちらにします?」


「今度はお嬢様から選んでくださいよ」


「うーん、そうね……」


 悩んだ末に私はスモークサーモンとリコッタチーズをはさんだパンを選んだ。リコッタは淡泊なチーズなので、単独で食べると物足りないが、スモークサーモンと合わせるとクリーミーなコクが加わってとてもおいしい。舌の上にスモークサーモンの旨味が広がり、優しいリコッタの味わいが燻製香を引き立てる。


 アルカンジェロは最後に残った、水抜きしたモッツァレッラと生ハムにルッコラとバルサミコ酢を加えたパンに手を伸ばした。


「俺、ルッコラの香ばしい風味が好きなんですよ」


 おいしそうに食べる彼がかわいらしい。


「バルサミコ酢の甘みと酸味がミルキーなモッツァレッラにぴったりですね」


 大きく切ったパンを頬張る彼の姿は豪快だ。楽器を演奏しているときは繊細なのに、と思って私はつい笑みをこぼした。


「お嬢様、俺を見て笑ってます?」


「アル、おいしそうに食べるなあと思って」


 彼と食卓を囲む未来が欲しいと、私は望んでしまった。でも今は、先のことなど考えず、彼と一緒に過ごせる時間を大切にしよう。


 だが突然、幸せな空気を引き裂く金切り声が聞こえた。


「まぁぁぁっ! 下々しもじものお方があふれていて目障りですこと!」


 この頭の悪そうな声は間違いない。グイードの新たな婚約者――パメラ・バンキエーリ男爵令嬢だ。




─ * ─




次回は、忘れた頃にやってきたざまぁ回!

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