15、どこまでも続く青の果てに

 素朴なリュートの響きが風を渡り、アルカンジェロの声が重なった。


「どこまでも続く青の果てに

 光り輝く太陽を求めて

 君の手を取り飛び立ちたい」


 アル自身がシンプルな曲だと謙遜した通り、旋律は単純だった。だが牧歌的で優しいメロディは、流行りのオペラアリアよりまっすぐ心に響いてくる。


 きらびやかなチェンバロとは異なる、甘いリュートの音色も心地よい。


 木々が優しくざわめき、小鳥がさえずる。塀の向こうからは櫂がすくい上げる水音も聞こえる。彼が歌い出した途端、世界がこんなにも音にあふれていることに気が付いた。それと同時に、私の心のさざ波は凪いで、静けさが訪れた。


「空高く舞い上がれば

 きっと地上の悩みなど

 小さすぎて見えないから」


 アルカンジェロの端正で気品のある歌声が、素直なメロディを引き立てる。夜会でアリアを歌っていたときとは違う飾らない様式に、私は魅せられた。きらびやかなサテンより、生成りの木綿のほうが安らぐように、彼のすっきりとした歌い方が心を満たしてゆく。


「どこまでも広がる青の果てに

 誰かが作った道などないから

 僕たちだけの地図を描こう」


 彼は私を見つめて、誘うように歌った。熟した栗のように濃密な瞳は木漏れ日を受けて、とろける蜂蜜みたいに甘く輝いていた。


 三回同じ旋律を聴いた私は、楽譜を見ながら四回目のメロディを一緒に口ずさんでいた。


「空高く舞い上がって

 海を越える渡り鳥のように

 君と共に旅立ちたい」


 私たちの声はとけあい、ひとつの光へと収束してゆく。声を重ねるだけで、指一本触れなくても、私たちの魂は固く結ばれるのだ。


 リュートの後奏が終わると、私は夢から醒めたみたいにハッとした。


「いけませんわ。大運河を行く人々に私の歌声が聞こえてしまったかも」


「気にすることはありませんよ。人は、伯爵邸で新人歌手を雇ったのだろうと思うでしょうから」


「言われてみれば、そうですわね」


 私が少し笑うと、彼は木漏れ日を浴びながら楽しそうに破顔した。


「もっと思いのままに歌ってください。リラお嬢様、あなたはあるがままで美しいのだから、何も変えなくてよいのですよ」


 もし本当に思いのまま振舞ってよいのなら、どんなに幸せだろう。


「さあ、もう一度歌いましょう!」


 アルカンジェロに誘われて、私は大きくうなずいた。今だけは彼に手を引かれて、大空へと羽ばたきたい。


 だってアルと共に歌っていると、心にそよ風が舞い込んだような、初めて心の扉を開け放ったような気持ちになるんですもの。


 再び最後まで歌い終わって、私は興奮した声で告げた。


「私、あなたと歌っていると、塀を越えて空の彼方へ飛んで行けそうよ」


「よかった、元気になっていただけて」


 アルのまなざしは慈愛に満ちている。


「ねえ、リラお嬢様。何があったのか俺に話してくだされば、お嬢様はもっと楽になれるでしょうか?」


 そう、彼に打ち明けてしまいたい。一度鍵を開けた心の扉を、今はまだ閉ざしたくない。


 私は新しい婚約者の件を彼に伝えた。


 話し終わると、アルカンジェロはなぜか沈鬱な面持ちになっていた。彼の暗い表情を見て、私は恥じ入った。彼は結婚を禁じられた立場なのだ。


「私ったら無神経な話を」


 自分のことしか考えず、彼の置かれた状況をすっかり失念していた。私が詫びると、アルは首を振った。


「自由になれずにもがいているのは、誰もかれも同じですよ」


 アルの言う通りかも知れない。クリスお兄様とエルヴィーラ様も秘密の想いを遂げることはできない。お母様は恋人を女装させて家に呼び、お父様に至っては祝賀期間中も毎日お仕事だなんて、囚人のようだわ。


 私は木の椅子に腰を下ろし、遠い空を見上げた。


「あなたが書いた詩のように風に乗って、自由にどこへでも行けたらいいのに」


「俺があなたの風になりたい」


 隣でアルがぽつんとつぶやいた。


「どこへ連れ出してくれるの?」


 私はわざと明るい声を出して、空から彼に視線を戻す。


「例えば――」


 アルの瞳にいたずらっ子のような光が戻って来た。


「北の海を越えて遠い外国へ、なんていかがでしょう、お嬢様?」


「できるかしら?」


 私は挑戦的なまなざしで彼を見つめた。


「その気になれば俺たちに不可能なんてない」


 アルは決然と言い切った。力強い声音は雇われ音楽教師などではなく、英雄叙事詩に出てくる騎士様のごとき凛とした気品を漂わせていた。


 彼の言う「その気になる」って何? 本気を出すってこと? それとも勇気をかき集めるのかしら。


 それなら試してみましょう。


「ねえ、アルは大建国祭、誰と過ごすの?」


 私は一生分の勇気を総動員して、ずっと訊きたかったことを尋ねた。


 アルカンジェロは一瞬、真剣な表情になった。リュートを隣の椅子に置いて立ち上がったかと思うと、風のごとき身のこなしで私の前にひざまずいた。かすかに憂いを帯びたまなざしが、私を見上げる。


「リラお嬢様をお誘いしても?」


「もちろんよ!」


 私は即答していた。喜びが高波のように押し寄せてくる。彼の首に腕を回して抱きつきたいのを抑えるので、精一杯だった。




─ * ─




次回から大建国祭です!

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