14、アルカンジェロの声楽レッスン

音楽教師マエストロがいらっしゃいました」


 音楽室の扉が叩かれ、使用人の声が聞こえた。


「失礼します」


 続いてアルの澄んだ声。高めのテノールのような、落ち着いたアルトのような、それでいて蜂蜜のように甘い声にドキッとする。


 音楽室に入ってきたアルは、すぐ私の様子に気が付いた。


「リラお嬢様、どこか具合でも悪いのですか?」


 今日の彼は背に大きな楽器を背負っていた。形からしてギターかリュートか、弾き歌いできる弦楽器だろう。難しい事件の話をする気力もなければ、新しい婚約のことなど打ち明けたくもない私は、彼の質問には答えず話題を変えた。


「アル、今日は少し遅かったわね」


「申し訳ございません。前の仕事が長引いてしまいまして。直接来ましたのでリュートを置いてくる時間もなく――」


「構わないわ。リュートも聴いてみたいし」


 私の言葉に彼は、ガラス越しに差し込む春の陽射しのようにやわらかくほほ笑んだ。


「今日はよい天気ですから中庭で歌いましょうか。リュートなら場所を選びません」


 彼の素晴らしい提案に、私はすぐ賛同した。


 音楽室の入口近くに控える侍女に、


「今日は中庭で歌うわ」


 と告げる。


「かしこまりました。では喉によいハーブティーをお持ちします」


 侍女が廊下へと姿を消し、私たちは中庭に出た。ひんやりとした風が草木の香りを運んできて鼻先をくすぐった。


 アルカンジェロは井戸を丸く囲む石段に座って、リュートの調弦を確認する。私も彼の隣に立ち、彫刻の施された大理石製の井戸に寄りかかって空を見上げた。素朴なリュートの音色と、小鳥たちのさえずりに耳を傾けているうちに、胸にたちこめていた暗雲が少しずつ晴れていく。


 お屋敷の煉瓦塀を越えて広い空へと飛び立っていく小鳥たちを、ぼんやりと目で追う。空はブリタンニア王国まで続いている。北の海に浮かぶ島だと聞くから、きっと寒い国なのだろう。気候も食べ物も、言葉まで違う国で生活するなんて、やっぱり想像できない。


 調弦を終えたアルカンジェロが、


「まずは体をほぐしましょうか」


 ごく自然な調子で私を誘導して、歌のレッスンが始まった。


「ぐーっと伸びをしてください。筋肉が凝り固まっていると声をふさいでしまいますから。それから両手を広げて深呼吸して」


 緑の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、全身を開放感が満たしていく。


「空を見上げて、胸を広げて」


 彼の言葉に導かれて澄み渡った空を見上げれば、自由への切符を手に入れたみたいだ。彼の声を聞いていると、なんでもできそうな気がしてきた。


「良い具合にリラックスできたみたいですので、まっすぐ立って簡単な音階を歌いましょう」


 アルカンジェロの長い指が優雅にリュートを撫で、和音を奏でた。


「それではあとに続いて」


 彼は三度音程の音階を歌った。歌詞もない母音だけの発声練習なのに、早春の風に乗って心地よく広がってゆく彼の声に聞き惚れてしまう。なめらかな歌声を真似するように、私も同じ音階を歌った。


 アルカンジェロの左手が押弦する場所を少しずつ変えるたび、リュートの奏でる和音は半音ずつ上の調へ移ってゆく。


「ゆったりと息を吸って」


 甘い美声に導かれて、透明な春の陽射しを吸い込む。


「息に声を乗せて」


 彼の言葉に従って発声練習をしていると、どんどん声が出るようになってゆく。


 私、こんな大きな声を持っていたんだ、と自分でも驚く。美声以前に、私は人々に届く声量なんて持っていないと思っていたのに。今は自由に声を出してよいのだ。それがとても気持ちよい。まるで翼を得たみたい。


「リラお嬢様は広い音域をお持ちですね」


「そうかしら?」


「ええ、それによく通る声です。きっと塀の向こうを進む舟も聞き惚れていたことでしょう」


 淑女が大声を出すなんて恥ずかしい。お屋敷の中で歌うべきだったと反省したとき、侍女がハーブティーを運んできた。


「少し喉を休めましょうか」


 彼の言葉にうなずいて、私たちは中庭に置いた素朴な木の椅子に腰を下ろした。


 侍女が用意してくれたのは、カモミールとリコリスをブレンドしたハーブティーに蜂蜜を垂らしたものだった。独特の甘みを緩和するために浮かべられたミントの葉が涼しげだ。


 あいている椅子に寝かせられたリュートを見ながら、私はアルに尋ねた。


「今日はどんなお仕事でしたの?」


「公爵夫人が舟遊びをしたいとおっしゃって」


「えぇ? まだ寒いでしょう?」


 時折、冬の名残を感じる冷たい風が吹き抜け、彼のなめらかな頬にかかる後れ毛を揺らす。


「公爵夫人は春が来るのを心待ちにしていたらしい」


「舟遊びと言うと、サンヴェルデ島まで行かれましたの?」


 私は貴族たちが舟遊びをする際の定番コースを思い浮かべた。予想通りアルカンジェロはうなずいた。


「ゴンドラに乗って運河から海へ出て、サンヴェルデ島まで行ったのです。その行き帰り、夫人が退屈されないよう、音楽のお供をさせていただきました」


 サンヴェルデ島は王都のある島からすぐ近くにある、農業を営むのどかな島だ。ロムルツィア王国は古来から貿易中継地として栄えてきたから、王都は島の上に築かれている。周辺の島は王都民に海の幸や農産物を供給してくれる。


「素敵ね。私もアルと一緒にゴンドラに乗って、緑豊かなサンヴェルデ島に行きたいわ」


 私は本音を漏らした。


「俺と公爵夫人は別の舟でしたけどね」


 私は一緒に乗りたいのよ、という本音までは打ち明けられなかった。代わりに当たり障りのない質問をする。


「どんな曲を演奏されたの?」


「公爵夫人がお好きなカンタータに、自分で書いた有節歌曲も少々――」 


「まあ、アルったら作曲もなさるの?」


 私が両手のひらを合わせて高い声を出すと、彼は少年のように頬を染めて戸惑った。


「シンプルな曲ですよ」


「ぜひ聴きたいわ」


 私の言葉にアルは逡巡する素振りを見せつつも、口元には隠しきれない笑みを浮かべている。紙入れから楽譜を出し、私に手渡した。


「ではこれもレッスンの一環ということで、楽譜を見ながらお聴きください」


 リュートを構える彼の瞳には、いたずらっぽい光が踊っている。


 私は受け取った手稿譜に目を落として、胸の高鳴りを感じた。歌詞を書き加えたアルの筆跡は流麗で美しい。楽譜の方は、五線よりやや大きめの音符がはみ出しがちに並んでいて、自由な風が吹き抜けてゆくみたい。


「詩人はどなたですの?」


 楽譜に目を通しながら尋ねると、アルカンジェロは恥じらいがちな思春期の子供のように目をそらした。


「あ、作詞も俺です」


 色づいた頬を隠すようにリュートを調弦する様子は、可愛らしくさえある。


「まあ、楽しみだわ」


 私はもう一度楽譜に目を落とし、真剣に歌詞を見つめた。この言葉が、旋律が、彼の魂から生まれたと思うと、いとおしくてたまらない。手稿譜に口づけしたくなっちゃう。かすかに残るインクの匂いにまで胸が高鳴るの。




─ * ─




おいリラ、大建国祭を一緒に過ごそうと誘うのではなかったのか!? 次回には誘えるのか!?

なお次回もレッスンという名のラブラブデートが続く模様です笑

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