13、新しい婚約者

「リラ、朗報だ。私の部下がお前と婚約したいと申し出てくれた」


 はい、と返事をしたつもりが、私の声はかすれてうまく鳴らなかった。


 いずれこうなると分かっていた。思っていたより早かったというだけだ。私のために奔走してくださったお父様に感謝しなければ。


 だがふと、母のように歌手のパトロンになった未来の自分が頭に浮かんだ。アルカンジェロを屋敷に呼びつけ、夜会で歌わせる。母のようになりたくないと思っていたのに、同じ道を歩むのか。絶望する私に父は明るい声で、新しい婚約者について話し始めた。


「彼は師団長でね。爵位こそ子爵だが、とても誠実な男だ」


「子爵様なのに若くして師団長を務められているとは、優秀な方なのですね」


 私が平静を装って答えると、


「いや、歳は――」


 父は目をそらした。


「若くはないのだ。実は五年前に夫人を病気で亡くしてから、一人で屋敷を切り盛りしていてな」


 屋敷の使用人をまとめたり、茶会や夜会など社交の予定を立てるのは夫人の仕事だ。実際の計画実行は執事が行うとはいえ、奥様を亡くされてから五年間、子爵は屋敷の外でも中でも忙しくしてきたに違いない。


 だが私の同情心は、父の次の言葉で大きく揺らいだ。


「子供が五人もいるというのに、大変だったろうよ。責任感の強い男だしな」


「五人も――」


 つい繰り返してしまった。後妻という立場は婚約破棄された令嬢ならば仕方がない。爵位が下なのも予想できなかったわけじゃない。


 でも突然、義理の子供たち五人に囲まれる生活なんて想像できない。


 戸惑う私に、お父様は記憶を手繰り寄せるように顎を撫でた。


「一番下の子が十歳くらいだったな。一番上はクリスティアーノと同じくらいか」


 クリス兄様と同じって―― 私より年上の子供がいるの!?


「えっと、師団長様はおいくつの方なのでしょうか?」


 私の声はかすかに震えていた。


「わしと同い年だったか、いやあいつのほうが誕生月が早かったか?」


 待ってー! いくら誠実で責任感の強い方でも、お父様と同世代の殿方に嫁ぐの!?


 言葉を失う私に、父が静かな声で尋ねた。


「どうかね?」


 一応、意向を確認してくれるものの、私に選ぶ権利などないことは分かっている。


 模範解答は、


『喜んでお受けいたしますわ』

「ちょっと考えさせて下さい」


 私の口をついて出たのは心の声の方だった! 逆よ、逆! なんで言うべき言葉が喉に引っかかったままなのよ!?


「うむ」


 当然ながら父の顔は曇った。


「まあ今日中に答えを出さなければならないというわけではない。逃げるような相手ではないからな」


 そりゃそうでしょうよ。五年間も後妻が見つからなかったんだから。


 私の失言により、執務室には気まずい空気が流れていた。


「ところでリラ」


 父が気分を切り替えるように、カツラをかぶっていない短髪の髪を撫でながら尋ねた。


「大建国祭だが、子爵の家族と過ごすかね?」


「いいえ」


 私はまたもや反射的に断っていた。


「先方様も家族水入らずでお過ごしになれる最後の大建国祭でしょうから」


 適当な理由を付け加える。


「だがお前」


 お父様は心配そうに眉根を寄せた。


「グイードに婚約――」


 言いかけてコホンと咳払いする。婚約破棄された娘を気遣ってくれるとはお優しいわね。


「なんだ、その、大建国祭を共に過ごす相手はおるのか? せっかく仮装用の衣装も作ったのであろう?」


 娘を心配する父親の顔になって尋ねてくださる。


「侍女の誰かにでも頼みますわ」


 私はお父様をてい良くあしらった。


「そうか」


 お父様は苦虫を嚙み潰したような顔になった。


「リラ、お前は真面目な娘だから信用しているが、くれぐれも羽目を外してくれるなよ」


「承知いたしております。お父様は今年もお仕事ですか?」


「当然だ。王宮の大広間は仮面舞踏会のために解放されて、普段以上に警備が必要になるというのに、騎士団の連中も祝賀期間は交代で休みをとって人数が減るのだ。大忙しだよ」


 大建国祭中に開かれる宮殿の仮面舞踏会は特別だ。ルールは二つしかない。


 ひとつ、身分が分からないように仮装してくること。

 ふたつ、誰だか分からないように仮面をつけること。


 招待客しか参加できない通常の舞踏会とは違う。一曲目は身分の高い人が踊るとか、同じ人と続けて踊ってはいけないなどといった決まりごとはない。一年に一回、鳥かごから解放される時間なのだ。


 去年までの私には踊りたい人さえいなかった。だけど今年は――


 まぶたの裏でアルカンジェロがふわりとほほ笑んで、全身が熱くなった。


 物思いにふけっていたら、お父様が溜め息をついた。


「陛下は今年の大建国祭が終わるまでに、王族暗殺事件の首謀者を挙げよとおっしゃるのだ。だがどうにも難しそうでな」


 白髪の目立ち始めた髪を悩まし気に掻く。


「どうして今年の大建国祭が期日なんですの?」


「事件からちょうど十年という区切りの年だからではないか?」


 顔を上げたお父様は、まぶたにくまのできた疲れた目で私を見つめ返した。


「なるほど、そうですわね」


 まるで他人事のように冷たく響いた自分自身の声に、私はぞっとした。あれほど強く事件解決を望んでいた情熱が、いつの間にか薄れかけていて、冷たい手で心臓を鷲掴みにされたようだ。


 まぶたを閉じても、もう幼いアルベルト殿下の歌声は聞こえない。十年前、リラの花咲く宮殿の庭で一目見た少年の姿はかすんでしまった。


 悲しみの波が私をさらい、冷たい海に閉じ込める。アルベルト殿下に申し訳ない。過去の自分にも顔向けできない。


 なぜ私はこんなにも変わってしまったのか。理由は分かっている。今の私には、今の問題があるからだ。過去に囚われるより、条件の悪い婚姻が襲ってくる未来への不安が心にのしかかる。


 こんなとき、今までならアルベルト殿下と声を合わせて歌った楽しいひと時を思い出して、心を癒していた。だけど今、目を閉じた私の心に浮かび上がるのは、隣に座って真剣に音楽を教えてくれるアルカンジェロだった。




 翌日になっても私は、昨夜の新たな婚約話を思い出しては暗澹たる気持ちになっていた。今日はアルカンジェロのレッスン日だというのに、鍵盤楽器チェンバロを弾く気にもなれない。


 ああ、今日は歌うんだっけ。とてもそんな気分じゃないわ。


 私は蓋を閉めたままのチェンバロに突っ伏した。


 おとなしく婚約を受ける以外に選択肢がないのは分かっている。でも子爵では経済力も限られていて、アルカンジェロを独占することはできないだろう。豊かな貴族なら、気に入った音楽家を屋敷うちに住まわせることもできるのだ。


 殿下毒殺事件の解決にもつながらない上、愛のない結婚をするなら、裕福な家に嫁いでアルを独り占めしたかった。


 歌手と秘密の逢瀬を重ねる母を軽蔑してきたけれど、カストラート歌手を愛した貴族女性が築ける関係は浮気しかない。そんな欺瞞に満ちた間柄を望んでいなくても、正式に彼と暮らすことはできないのだから。大教主様と教会勢力が力を持つこの国にいる限り。


 私は前の先生マエストラみたいにすべてを捨てることなんてできないもの。


 騎士団長を務めるお父様の顔に泥を塗ることになるし、社交界でどんな噂を立てられるか。


 グイードから婚約破棄を言い渡された夜会の空気を思い出すだけで、足元の床が崩れて奈落に落ちてゆくようだ。扇のうしろから聞こえる貴婦人たちの忍び笑いに、状況を面白がる令息たち。憐みのまなざしを向ける年配の貴族たち――


「でも、それって問題?」


 私はふと、両腕にうずめていた顔を上げた。


「いいわ、問題だとして何が問題なの?」


 もし私がアルカンジェロと共にブリタンニア王国へ旅立ったら――


 噂話を楽しむだけの彼らと、二度と顔を会わせることなどないだろう。


 壁の一点を見つめていると、音楽室の扉が叩かれて、使用人の声が聞こえた。


音楽教師マエストロがいらっしゃいました」




─ * ─




アルカンジェロ二回目のレッスン開始です。リラは大建国祭を一緒に回ろうと誘うのか!?

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