03、アルカンジェロの秘密

 こじんまりとした部屋は、静かに燃える暖炉の火にあたためられていた。壁際の燭台は灯されておらず、窓の外を流れる運河に映った月が、ガラスの向こうでぼんやりとゆらめいている。


 アルカンジェロは私を慎重にカウチへ寝かせると、燭台のロウソクに暖炉の火を移した。


 黄色い灯りが染み渡り、落ち着いた調度品を照らし出す。


 舞踏会の音楽が遠く聞こえる中、廊下からせわしない足音が聞こえてきた。


「リラお嬢様」


 細く開いたままだった扉から顔をのぞかせたのは、私の侍女マリアだ。私が幼いころからずっと身の回りの世話をしてくれる、歳の離れたお姉さんというべき存在である。


「夜会の最中にお倒れになったと、クリスティアーノ様から伺いました」


 いつもは冷静なマリアが少し取り乱していて、仮病を使った私は胸が痛んだ。


 マリアのうしろには私の付き添い人たる兄がいるはず、と思ったのだが、彼の姿が見えない。意外に感じていると、アルカンジェロが口をひらいた。


「リラお嬢様に飲み物を持ってきていただけますか」


 了承の意を示したマリアはすぐにきびすを返して廊下へ消えた。


 アルカンジェロはカウチの前に片膝をつき、憂いを帯びたまなざしで私を見上げている。


「お可哀想に」


 彼が悩ましい吐息を漏らしたので、私はこんなときに言うべき正解と思われる言葉を返した。


「わたくし、ショックを受けてしまいまして」


 心にもないことを言ってから、痛ましい表情を作って胸を押さえてみた。


 だが、アルカンジェロはわずかに眉根を寄せた。


「聡明で美しいリラお嬢様には、あのように不躾ぶしつけな男は不釣り合いですよ」


 全くもってその通りなのだが、私は返す言葉を失った。公爵家に雇われている歌手の立場で、その家の息子を不躾呼ばわり?


 さらに続いた言葉に、私は絶句した。


「リラお嬢様はあの男を愛していらっしゃったのですか?」


 今度は「あの男」!?


 薄暗い部屋の中で、彼の瞳は黒曜石のように神秘的な色合いを見せている。


 曇りない瞳にまっすぐ見つめられて、私は逃げ出したくなった。


 グイードを愛していたかですって? そんなわけないじゃない!


 胸の奥底に沈めた鍵のついた小箱から、灰色の煙が吹き出してくるような不快感に、私は顔をしかめた。


「家のために婚姻関係を結ぶのは貴族なら当然のことです。愛だの恋だの甘ったるいものが入り込む余地はありませんわ!」


 この男だってそれを知らないわけじゃないでしょう? それとも結婚を禁じられているから、幻想を抱いているのかしら?


 教会は快楽のために肉体関係を持つことを禁じている。ゆえに子供を作れない男性高音歌手たちが、そうした行為をすることは許されない――つまり彼らは生涯に渡って独り身を貫くさだめを背負っているのだ。


 つい声を高くしてしまった私に、アルカンジェロは静かな口調のまま答えた。


「家のための婚姻でリラお嬢様が幸せになれるならよいのですが」


「幸せですって?」


 この世は理不尽で、一人一人が幸せを追いかけることを許しはしない。望むだけ無駄だ。無力な私に窮屈な社会を変える力などなく、ただ甘んじることしかできないのだから。


 運河に落ちた一枚の枯葉のように翻弄されるだけの現実を突き付けられた私は、苛立ちを募らせていた。


 だがアルカンジェロは、理知的な瞳を悲しみの色に染めている。


「リラお嬢様にはご自身の幸せを優先してほしいのです」


 真摯な瞳でまっすぐ私を見つめた。


「社交界があなたの心に黒い布をかぶせようとしても、どうかそれを払いのけてください」


 彼は私たちの価値観を真っ向から否定した。私たち貴族は老いも若きも、社交界で地位を築くことに躍起になっているというのに。未婚の令嬢にとっては、少しでもよい条件の婚約を望むことこそ至上命題なのだ。


 自分たちは婚姻という枠組みの外にいるからって勝手なことを言って!


 大概のカストラート歌手は恋に奔放で、不埒な者たちだ。女性との関係を禁じられた聖職者のような立場でありながら、現世を自由に飛び回っている。


 だけど本当はあなただって自由なんかじゃない、鳥かごに閉じ込められた憐れな玩具なのよ?


 アルカンジェロの過去については知らないけれど、彼らは大抵貧しい農村の出身だ。彼らの両親は明日のパンのために息子を手術台に送る。高い声を求める教会と劇場のために、理不尽な社会の犠牲になった元子供たちなのだ。


 私は彼を挑発するようににらんだ。怒りを含んだ視線に気づいたのか、アルカンジェロはふと目をそらした。


「本来のあなたは無邪気で天真爛漫で、恐れ知らずの少女だったはずだ」


 初対面にも関わらずあまりに勝手な発言をする彼に、ついに私の堪忍袋の緒が切れた。


「あなたが私の何を知っているというの? 無礼だわ!」


 気絶した令嬢の演技などもうおしまい。私は我慢できずにカウチから立ち上がった。


 その途端、彼が私の肩にかけてくれたジュストコールがすべり落ちた。


「あら」


 大広間で彼が私を気遣ってくれた優しさを思い出して、少し良心がとがめる。彼の服を拾おうと再度カウチに腰を下ろしたとき、ジュストコールのポケットから飛び出した手帳が目に入った。ひらかれたページに流麗な筆跡で記されていたのは――


『・Bの手記:過去数年分 彼の書斎にあり。

  ※十年前の手記があるか要確認


 ・Bが書斎にいない時間帯:~~~

 ・Bが宮殿に出仕する曜日:~~~』


 私は息を呑んだ。何度も出てくる「B」が何を指すのか、私はすぐに察してしまった。


 この歌手は、ブライデン公爵の動向を探っているのだ。


 なんのためか? 十年前の手記を探しているのだから、王族暗殺事件の真相を探るために違いない。


 アルカンジェロ・ディベッラは、何者かがブライデン家に送り込んだ密偵なのだ!

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初恋はリラの花のように~私を溺愛する秘密の恋人は暗殺されたはずの王子様!?刺客から逃れて幸せになるために立ち向かいます!~ 綾森れん@初リラ👑カクコン参加中 @Velvettino

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