02、美貌の歌手アルカンジェロ・ディベッラとの出会い

「お嬢様、お気を確かに」


 チョコレートブラウンのまなざしが愁いを帯びて、私を見下ろしていた。


 刹那、脳裏に幼いアルベルト殿下の面影がよぎる。だが違う。この人はさっきまで鍵盤楽器チェンバロを弾き歌いしていたアルト歌手。ただの音楽家とは思えない身のこなしで、風のように移動して私を助けてくれたのだ。


 茶色い瞳などこの国ではありふれたものよ。


 夢を見ようとする幼い自分を現実に引き戻しながら、私はぼんやりとした表情を心がけた。ショックを受けた令嬢の演技を続けるのだ。


 彼は私の背中を片膝に乗せ、大きな手のひらで私の頭を支えてくれる。もう一方の手で、ウエストコートの下にげていたペンダントを取り出した。銀細工の香壺ヴィネグレットのふたを指先で開け、私の鼻先に近づける。


「おぎなさい。気付け薬です」


 ツンとした香りが鼻孔を鋭く刺激する。だが後頭部に添えられたあたたかい手のひらに、私は安心感を覚えていた。


「ん――」


 意識が戻ってきた風を装って伏し目がちにしていたまぶたを見開くと、彫刻のごとく整った顔立ちが間近に迫っていて、私の鼓動は速くなった。黒々とした長い睫毛に縁どられた瞳は、シャンデリアが振りまく光の粒を反射してカラメルのように甘く輝いている。


「少し横になっていたほうがよさそうですね」


 彼は一瞬ためらいを見せたが、自分のジュストコールを脱いで私の肩にかけた。彼の体温が残る絹織物が、素肌にあたたかい。


「失礼します」


 彼が私を抱き上げて初めて、私の肌にふれないための配慮から服をかけてくれたのだと気が付いた。


「控室で彼女を看病してまいります」


 彼が声をかけた先にはクリス兄様が立っていた。


 この歌手、お兄様が私の付き添い人だって知っているのね。


 歌いながら大広間の人々を観察していれば分かることだろうか?


 私を抱きかかえ、颯爽と大広間を横切る歌手の左右で、貴婦人たちがざわめき出した。


「まあご覧になって! アルカンジェロ・ディベッラの優雅な足運び! 私も彼に介抱されたいわ」

「アルカンジェロの価値も分からない堅物令嬢にはもったいないですわ!」


 意地の悪い発言が突き刺さる。だが実際、今初めて彼の名を知った私が流行に疎いのは事実だ。アルカンジェロは歌声も顔立ちも美しく、所作も洗練されているから、王都の貴婦人たちからもてはやされるのだろう。


「ふん、半人前が」


 他方で男たちは嘲笑を浮かべている。


「なぜご婦人方というのは、あのように五体満足でない男を好むのかね」

「ディベッラ氏は大聖堂聖歌隊でソリストを務めるほどの実力があるから、人気があるのだろうよ」


 アルカンジェロの歌声をどこかで耳にしたことがあると感じたのは、大聖堂のミサで頻繁に聴いていたからだった。


 私は中二階にある聖歌隊席を見上げたりしないので、彼に助け起こされて、間近で姿を見ても気づかなかったのだ。


 多くの貴婦人たちは、明日のスターを見つけようと聖歌隊席に目を光らせているのだが。教会音楽で力をつけた歌手たちは遠からずオペラの舞台に立って、劇場の花形へと成長していく。


「あの歌手は舞台に立たないくせに、劇場の主演男性歌手プリモウォーモをしのぐ人気を得ているらしいな」

「教会歌手を貫いているのが、イメージアップの秘訣でしょう」


 どこかの令息が皮肉な笑みを浮かべる横を、アルカンジェロは表情ひとつ変えずに歩を進める。


 金と欲望が渦巻く劇場で歌わないことが彼に一層清廉なイメージをもたらし、純粋で美しい幻想に拍車をかけているようだ。


 ようやく大広間の出口にさしかかって、私はホッと胸をなで下ろした。女性たちがよこす嫉妬のまなざしと、男たちの冷笑を浴びて、針のむしろに座る思いだったから。


 だが最後に邪魔者が立ちはだかった。


「勝手な振る舞いは、この僕が許さん!」


 グイードは腕を組んでふんぞり返っていたが、如何いかんせんアルカンジェロのほうが背が高い。必然的に見上げる姿勢となり、まるで格好がつかない。


 歌手は私を抱いたまま、礼儀正しくこうべを垂れた。


「リラお嬢様はお体の具合が悪いようです。どうかお通し願えませんか」


 英雄叙事詩に出てくるうるわしの騎士のような姿に、また女性たちから感嘆のため息が漏れた。頬にかかる一房の巻き毛は少年らしさの残る彼の美貌を引き立て、黒いリボンで一つにまとめた豊かな髪は漆黒の絹糸のようだ。


 女性たちの注目を浴びる若い歌手に、心のせまいグイードは激怒した。


「お前は、我がブライデン家お抱え歌手という自分の立場が分かっているのか? 去勢歌手カストラート風情ふぜいが偉そうに!」


 グイードのあからさまな物言いに、令嬢たちは「まあ!」と頬を染め、貴婦人方は眉をひそめる。


 その間も私は意識がはっきりしないふり。気を失った令嬢って気付け薬を嗅いだらすぐに歩けるものかしら? 気絶なんてしたことないから分からないわ。


 クリス兄様はそんな私を心配そうに見つめるばかりで、グイードに物申すことなどできない。将来の騎士団長とはいえ今の兄はただの伯爵令息。公爵家のグイードに対抗する胆力など持ち合わせてはいない。


 貴族たちが楽しそうに成り行きを見守る中、クリス兄様の隣に立っていた令嬢が進み出た。


「グイード様、わたくしからもお願い申し上げますわ。女性の体は繊細なもの。どうぞ休ませてあげてくださいまし」


「ふん、王家の飼い殺し令嬢か」


 グイードは唇の端を吊り上げた。


 飼い殺し令嬢と呼ばれたエルヴィーラ・セグレート侯爵令嬢は悲しそうに目を伏せた。


 彼女は第二王子であるジルベルト殿下の婚約者だ。第二王子は十年前、第三王子アルベルト殿下と共に離宮で毒を盛られた。お体が小さかったアルベルト殿下は命を落とされたが、ジルベルト殿下は一命を取り留めた。だがお体に障害が残ってしまったため、今日まで公の場に一切姿を現していない。


 毒殺事件が起きたとき、エルヴィーラ嬢はすでにジルベルト殿下の婚約者だった。


 それから十年間、エルヴィーラ嬢は婚約者に会うことも許されず、延々と待たされている。


 なお第一王子だったウンベルト殿下は毒殺事件の一年前、北の山脈の峠道を通過中に山賊の襲撃を受けて亡くなっていた。外交使節団の筆頭として訪れた近隣のフランシア王国から帰還する際、激しい戦闘に巻き込まれたのだ。


 よって第一王位継承者は、現在寝たきりの第二王子ジルベルト殿下となっている。


 将来の王妃であるエルヴィーラ嬢の言葉に、グイードはすごすごと引き下がった。


「感謝いたします」


 アルカンジェロがグイードに冷たい声で礼を述べ、堂々たる足取りで廊下へ出た。アルカンジェロに抱えられて大広間から遠ざかる私の耳に、


「待機しているリラの侍女を呼んできます」


 というお兄様の声が聞こえた。


「わたくしも一緒に参りますわ」


 だがエルヴィーラ嬢の意外な答えに、私は思わずアルカンジェロの肩越しに二人の姿をのぞき見た。


 クリス兄様がエルヴィーラ嬢をエスコートして、廊下の角を曲がっていく。妙に親しげな二人の背中に、私は奇妙な違和感を覚えた。




─ * ─




兄貴とエルヴィーラ嬢の秘密に関しては、5話くらい先で明かされます!

次回はしばしの間、控室で二人きりになったリラとアルカンジェロのシーンです!

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