第一章 きっと報われるはず

第2話 未来が嫌になるならば

 上谷 竜吾うえたに りゅうごは、駿河湾を歩いていた。上谷は社長である。彼の納めるのは、中堅どころの保険会社である。最近は新書、それも経済ジャンルを中心に、出版事業を始めた。

 竜吾のシャツの内ポケットが小刻みに振動した。


「……電話か……」


 竜吾は高級マンションの2階を貸し切り社宅にしたいと申し出ていた。きっとそのことだろう。竜吾は電話に出た。


「はい、上谷です」不意に嫌な予感がした。

「……社長さん?」老いた女性の声だった。大家さんなのだろうか。上谷は顔に営業用スマイルを浮かべた。


 顔が良くなれば声も良くなる。プレゼンの三つの基本、その一である。


「上谷です。はい……恥ずかしながら社長を務めさせていただいております」

「そういうのいらないの」


 相手は、ソファーに腰掛けて紅茶でも飲むように優雅な姿勢をとっているようだ。案外それで当たっているのかも知れない。

 竜吾はたじろいだ。おそらくそこはマンションの一室だろう。それにしてはやけに声が響くなぁ。

 そんなところに、本当に住んでいいのかなぁ。

 一旦は隠れていた、嫌な予感が戻ってきた。それと共鳴するように、竜吾は武者震いを震えた。


                 *


 竜吾が家に戻ってきた。浮かない顔をしている。ほのぼのと黄色い灯りに包まれながら、妻の美絵子みえこは顔を歪ませた。

 美絵子は台所に立った。ステンレスに反射する自分の顔は幾分年を食って見えた。

 美絵子は気合を入れようとした。しかし、気合の入れ方を忘れた。


「もう、肝心な時に……」


 ぼやく勇気もなく、小声になった。さっきから付き纏っている、このいつもと違う空気はなんなのだろう?

 美絵子はもう一度、正面の夫の顔を見つめ直した。いつもと変わらない竜吾の顔が、少し歪んで見えた。

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