Ⅰ キャンベラから東京への転入

1.キルトン教師の言葉

リュディヴィーヌは、目尻に涙を浮かべて立っていた。彼女の唇の間から流れ出る言葉は、流暢な英語だ。


「今日は特に時間がないのでしょう?別に、来なくても良かったのよ。」


「えぇ。でも、一つだけ言っておきたいことがあったの。リュヴィー、連絡するから……返事、絶対に頂戴。」


「えぇ、わかったわ。ありがとう、今まで。」


彼女は、アナヤと別れのハグを交わす。


「じゃあ……また会おう。」


アナヤは再会の約束を残し、車に乗って屋敷の門を出ていった。


「また会おう、ね……。」


ポツリ、と一人佇むリュディヴィーヌは呟いた。


「お嬢様、車の準備が完了いたしました。」


「えぇ、今行くわ。」


彼女は帽子を被り直し、正面玄関前のロータリーに停まっている車に、運転手の開いたドアから乗り込んだ。


 ◇◇◇◇◇


黒塗りのリムジンが門前に停まる。


運転手が開けたドアから出てきたのは、リュディヴィーヌだ。彼女は、ゆっくりと歩き出す。


門から続く並木道も、その先にある美しい校舎も、その奥にある寄宿舎も。門の内側のちっぽけな世界の、全てが美しく見える。


「おはよう、ランディクアロリス。」


彼女が校舎に入ると、すでに教師が待っていた。


彼の名は、ダンフォース・キルトン。ここ、ウェリタス・カレッジ・スクール キャンベラ中等院の生徒たちの間での共通認識は、厳格な教師、である。


「おはようございます、キルトン先生。」


リュディヴィーヌが微笑んでそう言えば、キルトン教師は、普段はそう出番のない表情筋を珍しく動かした。リュディヴィーヌは、訝しげにその顔を見つめる。これは、何というたぐいの表情なのだろうか。


そう、これは——。


「寂しくなるな。」


普段の彼からは想像もできないほどの小さな声が聞こえる。言ってからハッとした彼自身は、聞かせるつもりも、もらすつもりもなかったのかもしれない。しかし、その言葉は、確かに彼女の耳に届いた。


「寂しい、ですか……。それでは、わたくしはそれなりに、認めてもらえていたのでしょうか。」


「当たり前だ。クラス対抗競技会ではクラスを見事優勝に導いた。学業では常に満点以上、歴代トップの成績を残した。文化祭では企画・運営を先頭に立って行い、最高のものに仕上げた。ドクトゥス女子副会長として……いや、ソレムニス=ハルモニア=イン幹部会ぺリウムのメンバーとして、生徒のつながりを深め、まとめ上げ、常に良い方向へと導いてきた。」


キルトン教師はリュディヴィーヌをまっすぐに見つめる。


「来年もこの院に居たのなら、間違いなくサルヴァトール生徒会長になっていただろう。君には、人を引き付ける魅力がある。容姿だけじゃない。君の美しい心と頭脳明晰さがあったからこその求心力だ。」


サルヴァトール生徒会長。本来、ラテン語では救世主のことを指すが、ウェリタス造語では別の意味、ソレムニス=ハルモニア=ス生徒会コラ――ウェリタス造語。略称:スコラ――のソレムニス=ハルモニア=イン幹部会ぺリウム——ウェリタス造語。略称:インペリウム——のトップのことを示す独自の文化が、開校以来代々続いてきている。


ウェリタス造語とはその名の通り、ウェリタス・カレッジ・スクール独自の、ラテン語を基とした造語のことだ。


ドクトゥス女子副会長になるには学年は関係ないが、サルヴァトール生徒会長には最高学年しかなれない。


キルトン教師は、優しい光を瞳に称えていた。


「誇りなさい、自分のことを。君は天才で……そして、私の自慢の教え子だ。自分のことのように、誇りに思うよ。近い将来、活躍している君を見れることを願うよ。」


ちょうど、リュディヴィーヌのクラス、つまり、キルトン教師の受け持つクラスの前についたところだった。彼は初めて彼女に微笑み、さっと前を向いて教室のドアを開けた。


——最後の教え子に、君が居てよかった。


彼が前を向く直前、そう聞こえたような気がしたのは、リュディヴィーヌの幻聴だったのだろうか。幻聴であってほしい、と彼女は思う。彼はまだ、38になったばかりなのだから。


教室のドアを先に通った背を見つめ、彼女は少し濡れてしまった目元を拭った。そして、キルトン教師の後に続いた。


「おはよう。」


リュディヴィーヌが席に着くと、教壇の前に立ったキルトン教師が話し始めた。


「皆、今日も元気なようだな。では、連絡を何点か。一点目。先月伝えておいたように、リュディヴィーヌ・エリノア・ジークリット・コノエ・ユヅル・ランディクアロリスは本日を最後にキャンベラ中等院を辞め、東京中等院に転入する。ここで彼女と会えるのは最後と思って、今日一日を過ごしてくれ。」


その後他の連絡事項が数点伝達され、解散となった。教室は一気に騒々しくなる。一人の女子生徒が、リュディヴィーヌに話しかけた。


「リュド、本当に行ってしまうのね。」


「えぇ。」


「残念だよ、“キャンベラの永遠の壁”が行ってしまうなんて。」


リュディヴィーヌの頬がわずかに引きつる。


「クレインプーロ。何度も言うけれど、その二つ名で呼ぶのは止めて頂戴。」


クレインプーロ――ウェンセスラス・クレインプーロ――に、彼女が冷たい目で話す。


「じゃあ、ケルサス=アマデウスオール首席称号な。」


「当然でしょう。それがオール首席の正式な称号よ。」


ウェンセスラスは、リュディヴィーヌがあまり好ましくは思っていない、数少ない人物の内の一人だ。


先月、リュディヴィーヌが東京院に転入するという話があった際は、この学年もベネディクショネム=グロオール首席卒業生称号ーリアが出ないことになるのか、とぼやいた人物だ。


人を成績でしか見ていない、というのがリュディヴィーヌの彼への評価だ。ウェンセスラス自身は、入校以来セクンドゥス=コンス次席称号ルの称号を与えられている。


「向こうでベネディクショネム=グロオール首席卒業生称号ーリアになれよ。転入だから、こっちの成績が引き継がれるんだろ?」


「えぇ、そうよ。あなたこそ、これからはラウルス=コンスル首席称号になって、コロナ=ウィクトリア首席卒業生称号として卒業式の首席挨拶で登壇できるといいわね。まぁ、他の人に抜かれなければの話だけれども。頑張りなさいよ。」


少々馬鹿にしたような口調でそう言ったリュディヴィーヌは、さっさと他の生徒との話を始めた。

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