食べているのを見せてください

中田ろじ

食べいるのを見せてください

 夢にまで見たデート。夢にまで見たランチタイム。夢にまで見た某大手ファストフード店のフライドチキン。

 はて。僕が本当に夢を見ていたのはいったいどれだっただろうか。いかんせん、今のこの状況が状況だから、頭の整理がついていない。

 大学生。初デート。ランチタイム。フライドチキン。意中の女の子とフライドチキンを食べることは、僕の長年の夢だった。来年は二十歳だから十九年越しにその願いが叶ったということだ。この嬉しさはまさに筆舌に尽くしがたく、中二の頃から欠かさず書いてきた日記にはいったいどんな駄文が狂喜乱舞するのだろうと、既に夜更かしする気満々な今日この頃だ。

 僕はいま、フライドチキンを眺めている。こんがりとした皮目はこの世で最も卑猥な茶色と言っても過言ではないだろう。何故ならその茶色が異性の唇を湿らしねとらせ脂いっぱいの艶やかな唇へと変貌させてしまうのだから。

 一見すると何の変哲もない揚げ物であるところがまた憎らしい。えっ? 私ですか? そりゃあ特殊なスパイス利かせていますけれど、ジャンルとしては揚げ物ですからね。唐揚げなんかと一緒ですよ? くらいのすまし顔をしているところがさらに憎い。

 違うだろっ! 僕は声を大にして言いたい。お前は根本的に違うだろうっ! 

 君は生まれながらにして骨付きではないか。ああ、骨付き。ほ、ね、つ、き。その響きのエロチシズムを分かってくれる人を探しているけれど今もって見つからないのはなぜだろう。誰もが共感するべきパワーワードなはずなのに。

 女性が、骨付きの肉に、かぶりつく。

 これだけでもうご飯何杯でもいけてしまう。おかずに。骨付きをおかずに。なんかもう我ながらこんがらがっているけれど。

「うわー。おいしそうだね」

 高橋さんは僕が初めての講義に右往左往していた時に声を掛けてくれた天使だ。顔が好みであることは言うまでもない。そしてなんといっても高橋さんの特筆するべき点は、その唇にあった。

 触りたい。僕は自分の衝動を抑えるのにせいいっぱいで、その日の講義なんてロクに聞いていなかった。

 あの唇は犯罪だ。エロさとか艶めかしさとか弾力さとか。全てにおいて満点に近かった。しかも保水力抜群なのか常に潤っていらっしゃる。ゼリーでもつけているのかと思ったくらいだ。なんならそのゼリー拭いましょうかとその弾力さを嫌というほど味わってしまおうかと思ったほどだった。

 その唇が、今目の前にある。それも念願の卑猥な骨付き茶色を食そうとしていらっしゃる。

 そこに来て。僕の夢が何だったのかを明確に思い出した。今ならば分かる。念願の異性との交流が出来た喜び。連絡先を交換できた喜び。デートの約束をした喜び。それらの喜びのさらに上をいくお楽しみがあることを、僕は胸膨らませ待ち望んでいたのだ。

僕は、女性がフライドチキンを食べるところが見たいのだ。

「もうお腹ぺこぺこ。いっただっきまーす」

 そもそも食べるってエロいですよね? 食と性はそのまま直結するものだと思うんですよね。なんというか人が生きるうえでの欲求を素直に満たすその原始的な行い? みたいなのが? もう、えっろえろですよね。

 人間には三大欲求がある。食欲性欲睡眠欲。その三つの存在を初めて知ったとき、僕は衝撃を受けた。性欲だけなら自制心でなんとかなるんじゃないかといちゃもんをつけたくなったわけではない。

 食欲だけが唯一、人に見られながら欲を満たしているのだということに、僕は大きな衝撃を受けたのだ。性欲を隠すのはもちろん、寝姿や寝顔だって他人にそうそう見られたくないものだ。一人じゃないと寝られないという人だっていると聞く。このように、欲求を満たすという行為は人の目を憚っているのだ。もちろん、人前で何かを食べるのが苦手という人もいる。じっと食べている様を見られるというのもあまりよい気持ちのすることではない。でもだからこそ、そこにロマンが存在する。

 食は唯一の、開かれた秘境なのだ。

 そのことを知った僕は、さらに食への欲求に拍車がかかった。無論、食べることにではない。食べているところを見ることに、だ。

 高校は共学で、昼食時はクラスメイトが弁当を囲む。この時間の幸福さといったらなかった。もしも僕が性的欲求だけが肥大していたらそれこそ犯罪に走っていたかもしれないけれど、食への欲求が先鋭化していた僕は、せいぜい女子の食べるところをちらりと覗く程度だ。惜しむらくは男女混合で弁当を囲めなかったことだけれど、のぞき見することのスリルは充分に味わうことが出来た。

 おにぎりを、サンドイッチを、卵焼きを、唐揚げを、頬張る、その瞬間。

 恍惚に浸るランチタイムはまさしく僕にとっての桃源郷だった。それでも欲求というのは日に日に肥大化していくというのが人間の愚かなところであり進化が出来た理由だ。

 可愛い女の子が口いっぱいに食べ物を頬張るところを見たい。その願いを叶えるためだけに、僕は受験勉強に励んだ。可能な限りの大学パンフレットを取り寄せ、可能な限りの大学見学をし、僕好みの女性がいる大学を懸命に探した。そうして見つけた志望校は、僕の頭では背伸びして何とか届くか届かないかくらいのレベルだった。

 僕は必死に勉強した。人は目的があるとがむしゃらになれることを大いに学んだ。受験期には女優さんが頬張る飲食のシーエムを見るときだけが至福の時間だった。そう、願掛けのために僕は『食断ち』をしていたのだ。食事風景を見ないことに決めたのだ。

 その努力は実を結び晴れて大学生活とあいなった。そうして僕好みの女性を探そうと右往左往していたところ、神様の使いが現れたのか。僕は高橋さんに出会えたのである。

「どうしたの? 食べないの?」

 両手でフライドチキンを持っている様。もはや芸術だ。これから始まる扇情的な光景をこれでもかと焦らす前振り。

「うん? いやなんでもないよ」

 さすがに正直には言えない。食べたいところを見るのがかねてからの夢だっただなんて。

「そう? ならいいけど。いやあ、おごりのランチのうまさは格別だよね」

 さらりとお会計の確認をするあたり、こなれた女子の演出はさすがとしかいいようがない。でもそれで構わない。食事代は既に捻出済みだから。

 高橋さんが口を開ける。可愛い顔に反して大きく開けられた口。その無防備なさまはさながら不意に訪れた幸運のように、僕の目を至福に彩る。そしてそのままチキンを口元へ。豪快に彼女はかぶりついた。

 これだ。この瞬間を、僕は待っていた。

 油によって唇に色気が増す。一口かぶりついたことで、中途半端に開かれた口から唾液と液状化することが運命づけられた肉が僕のことを流し目で見つめてくる。さあ、いくぞ。ここからが本番だと言わんばかりに、肉は小気味よく噛みしめられていく。

 ヌチャリヌチャリ。その効果音が僕の耳に入ってきたとき、正直気が遠くなるかと思った。咀嚼音のすばらしさは昨今のブームからも分かる通り、人を幸福にたらしめる。

「あー。うまいわー」

 高橋さんはそうやって再び思い切りよくかぶりつく。皮だけがだるんだるんに垂れ下がってしまったところから。放り込むように豪快に。

 高橋さんは少々食べ方に難があるようだ。くちゃくちゃと咀嚼の時に口を閉じない。でも、僕にとってはこの上ない極上のよろこびである。唾液と液体化していく肉と油のハーモニー。この三位一体の姿を見ているだけで、背筋から快感が駆け巡ってくる。くちゃ、くちゃ。ガムでも食べているようなその音だけでも、目の前にいるのがタイプの女の子。その背徳感に心が鷲掴みされてしまう。

 どうやら高橋さんは、食べ方は汚いけれど食べる努力は怠らないと見た。必死に骨についた肉もかぶりついている。がしがし、と犬っころよろしく骨を噛むさまはどんな官能的な映像よりも艶めかしい光景だ。実に艶めかしい。骨についた涎も肉と一緒に吸い込むときの不規則なリズムが心の柔らかい部分をくすぐってくる。これでもか、これでもか、と。

 満点だ。なにもかもが満点だよ、高橋さん。

 すると、携帯の受信音が聞こえる。どうやら高橋さんのスマホらしい。彼女は手を拭ってからスマホを持ち上げる。

「あ、ごめーん。このあと彼氏とデートなんだよね。だからもう、帰っていいかな」

 僕がスマートな紳士のごとく快く肯定したのは言うまでもない。

 高橋さんが帰り支度をする。

 僕が追い求めていた理想形。女の子とのお食事。さあ、今度は高橋さんに何を食べさせようか。

 最後に、立ち上がった高橋さんに僕は言った。

「またどっか食べにいこうよ。今度はアツアツのたこ焼きをさ。ハフハフしながら食べようよ。もちろん御馳走するからさ」

 僕の理想の学生生活は、まだ始まったばかりだ。





【了】

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食べているのを見せてください 中田ろじ @R-nakata

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