第21話
痕跡は何も残していない。
彼と私の接点を結びつけるものは何も見つからないだろう。
殺すつもりはなかった。それは本当の事だが、常套句(じょうとうく)の様に扱われてしまうかも知れない。やはり、こうするしかない。
そもそもあんな男に協力を求めるべきでは無かったのかも知れない。でも彼は、あの人の事を息子のように思っていると言っていた。それは本当の事だろう。だから善意で協力してくれるのだと思っていた。
全て完結した後、電話で言われた一言が忘れられない。
「ただでこんな事やるわけないだろ?世の中見返りってもんがなきゃな」
お酒を飲むと人が変わるというが、私はそれこそが人の本性だと思う。
あの男の本性は醜く、そして、許せなかった。
私の体に見返りを求める事じゃなく、自分を慕ってくれているお人好しのあの人を裏切る行為を、平気でしようと考えている事が。
言われた通りにアパートへ向かった。何とか話して解決出来ないものか、思い留まってくれないものかと期待した。それが甘かった。
あいつは玄関先でいきなり抱きついてきた。かなり酔っていたのだろう。
抵抗しても言葉を掛けても、あの男は自分の目的を果たす事だけを考えていた。
ショルダーバッグのチェーンは丈夫だった。
あいつを抑えるために首に回したが、怒りが、その手を緩めなかった。
息絶える直前に嘔吐したものが衣服に付着した。
私はアパートを離れ、駅へ向かう途中ゴミ箱にその上衣を脱ぎ捨てた。
ショルダーバッグは、手放したく無かった。
あの人が記念日にプレゼントしてくれた大事な物だったからだ。
でもこれを所有していると、何らかの経緯で捜査が及んだ時に重要な証拠になる。
悲痛な思いで、燃やせないゴミの日に他の物と一緒に廃棄した。
咄嗟の事だったから何か残しているかも知れない。
不安を払拭するためにもう一度あのアパートへ行った。
男は玄関先で倒れたまま息絶えていた。なるべく早く離れたくて辺りを見回し、髪の毛ひとつ落ちていないよう、手袋をして確認した。
郵便受けに大量のチラシが詰め込んである。これを見た他の住民が異変に気づくかも知れない。
なるべく発見を遅らせるため、私はそれらを回収し、持ってきた袋に詰め込んでいく。
一番底の方に、手書きのメモのような紙切れが入っている。
(ありがとうございました)
という短い文面は、あの人の字だとすぐに分かった。
本当になんて、素敵なお人好しなんだろう。
思わず涙が出そうになったが、そのお人好しを裏切ろうとしたこの男の事がやっぱり許せなかった。
これでいいんだ。そう言い聞かせて部屋を出た。
付近には人影もなく、駅まで誰にも会わなかった。半端な時間を選んで正解だった。
自宅とは反対方向の電車に乗り、県外にでた。
捜査本部が置かれるとしたら事件の起きた県警だ。ひとつの事件のためにそれをまたいでまで捜索はされないだろうと思ったが、手がかりとなりそうな物はなるべく遠くに捨てたかった。
駅から少し離れたコンビニのゴミ箱にチラシを捨てる。店員は日常的な事に特に関心を持たなかった。
あの人の手紙だけは、捨てられなかった。
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