第10話

こちらの事もあれこれ聞かれないので、ボクも特に話し掛ける事もしなかった。

もとより、世間話をする気分でもない。起きてしまった事、起こしてしまった事実を、まだ半分受け入れられないでいるのだ。

だが、夢だったらいいのにとは、もう思わなくなっていた。こんなにも長くリアルで悪い夢なんてない。

それでも心のどこかでは、隣人が「悪い冗談でした〜」と元気に出て来るのを望んでいた。


「着いたぜ」

先導していた男が立ち止まった。何て事ない、普通のアパートのようだ。もっと廃墟とか工場跡地とかを想像していた。

“人を匿う” のは、案外こういう普通の場所なのかも知れないと思った。

「二階の奥の部屋だ。鍵はかかってねぇ。ノックを二回、トトトン、トトトンってやれ。それが合図だ」

ボク一人で行くのか、という視線を察してか

「俺は行かねえ。ここまでが仕事だ。あぁ一つだけ言っとく。相手を詮索したり、逆らったりするな。黙って頷いてりゃそれでいい。命まで取られないから心配するな。じゃあな」

自分の “ 仕事 ” を終えて、男はさっさと離れていく。

(命までは取られない)

それじゃあ他のものは取られるんだろうか?

色々不安はあるが、ボクに選択肢はない。逃亡者になる道を、ボクは選んでしまったのだ。


教えられた通りにノックする。返事はない。

ボクはノブを回してそっとドアを開けてみる。本当に鍵はかかっておらず、そのまま静かに中へ入った。

何となく、いつでも逃げれるようにドアを閉めずに中へ入った。突然、部屋の奥から「さっさと閉めろ」と野太い男の声がしたので、ボクは慌ててドアを閉めた。

昼間なのにカーテンも雨戸も閉め切られ、薄暗くてタバコの匂いがする。ボクがおずおずと様子を伺っていると「話は聞いてる。名前は言わなくていい。中へ入れ。あぁ、靴は脱いでな」と男が言った。


よく分からないが闇の世界の入り口にいるような気がして、ボクは余分に丁寧に靴を脱ぎ、時間を掛けて玄関にそれを揃えた。

「もたもたしてるなぁ。そんなんじゃ逃げても捕まっちまうぞ」

男は半分笑いながら言う。冗談なのか本当なのか分からない。ボクは一度だけ目を閉じて、平穏な生活に見切りをつけるように息を吐いてから部屋の中に進んだ。



薄暗い部屋の真ん中にテーブルがあり、それと向かい合わせにソファが置いてある。

男は奥の方のソファにあぐらをかいてタバコをふかしていた。

「まぁゆっくり座れ。一本吸うか?」

気持ちを落ち着かせるために気遣ってくれたのだろうか?ただボクはタバコを吸わない。

 (逆らったりするな)

ここへ案内したホームレスの言葉を思い出し、ボクはソファに腰掛けて差し出されたタバコを一本抜いた。

男がすかさず火を灯す。ボクは無言で煙を吸い込み、その苦さと違和感に思わずむせた。

「なんだ、吸わねぇならそう言ってくれりゃあよ。まぁ無理するな。消してくれていい」

勿体無いと思ったがボクはテーブルの灰皿で火を押し消した。


「さて、俺はおたくみたいな人間を匿う役だ。望みがあれば遠くにも飛ばせる。名前はまぁ、

“ オロチ ” とでも呼んでくれりゃあいい」

 “ オロチ ”。

大きな蛇が獲物を締め絡めて一飲みする。

そんなイメージが湧いて、ボクは背筋がゾクッとした。

目つきは鋭く、何人ひとを殺めてきたのかと思わせる雰囲気があった。普通の生活をしていたら関わる事の無い存在、いや、関わってはいけないような存在を思わせた。

「あんたが何やって行方をくらましたいのかは聞かねえ。いちいち人の事なんて構ってられないからな。俺はそういう人間を匿う、あの爺さんはそういう人間を見つけてくる。依頼人の指示によっちゃあ、あんたをこっそり働かせることもある」

どこかで聞いたことがある。太平洋の沖合に行く船で何日も魚を獲ったり、誰も働きたがらない様な所で仕事させる人間を斡旋する。いわば「闇の稼業」だ。

でもボクは途中の言葉が気になった。

「あの、依頼人て?ボクを匿う様に依頼した人がいるんですか?」

男は例の鋭い目でボクを一瞥した。

「つまんねえ詮索はするな。あんたは自分の事だけ考えてりゃいい。このアパートには他にもおたくみたいな奴等が住んでる。それらにも関わる必要はねぇ。

ひとまずここに身をおいておけ。後はこっちが指示する。飯の心配は要らねえ。三食きっちり届けられるし、3時のおやつ付きだ」

口元を歪めて男は笑った。ありがたい事だが、ボクには全然笑う気がしなかった。

「まあここに居りゃ悪いようにはしねぇ、心配すんな。だが、もしこっそり抜け出すようなら事があったら…。その時ゃ何の保証も出来ねぇ」

何の保証も。すなわち命の保証も無いという事か。

いずれにしてもボクは表には出られない。抜け出す事も無いだろうと思った。

「じゃあ俺は別の用があるから今日はここまでだ。テレビもエアコンも部屋にあるモンは自由に使ってくれていい。だがニュースのたぐいは見ない方がいいぜ。それじゃあな」

男は鍵もかけずにドアを開けて出ていった。逃げる事も無いだろうと思ってるのか。それはそうだろうなと思った。

でも何となく不安で、ボクは防犯上、鍵が閉まるかやってみた。ガチャッと音がして、ノブを回しても開かない。少し安心した。

多分彼らは鍵を持っているだろうから、とりあえずここにいる間は鍵を閉めとこうと思った。


 

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