第9話
それが何故、こんな事態になってしまったのか思い出せない。
アテもなく歩き、ひとまず公園で水をかぶりそれからたっぷり飲んだ。酔いと頭痛を少しでも抑えたかった。
それでも、どう考えても分からない。
真面目に普通に生きてきた自分が、こんな大変な事をしてしまうなんて。何があったにせよ、カッとなって人を、血が出るほど殴るなんて事があるだろうか?
分からない。
酒は恐ろしさを秘めている。普段大人しい人間が気が大きくなって無茶をしたり、日頃抑えられている鬱憤が爆発してしまうなんて事もよく聞く話だ。
でもボクが?このボクが、そんな事を?
今になって、彼が生きているのかどうか確かめて来なかった事を悔やんだ。まだ生きていれば、やったことはともかく命を奪う事にはならないかも知れない。殺人と傷害とじゃ罪の重さが違う。
そこまで考えて、ボクはハッとなった。
彼の命の事を、自分の罪の重さうんぬんで考えてしまっていた事に気付いた。
結局、ボクは自分本位で身勝手な人間だったんだ。日常では分からない、非日常の時こそ本質が出る。
ボクは自分自身に失望した。
交番ヘ行こう。いや、その前に隣人の様子を見に行くべきではないのか。
ボクはあの部屋の、異様な状況を思い出して身震いした。
…ダメだ。こわくて近寄れない。あの光景を、
もう二度見たくない。
やはり自首すべきだ。傷害にしろ殺人にしろ、犯してしまった罪は消せないのだから。
一人で悶々としていて、もしかしたら無意識にブツブツ言ってたのかも知れない。ボクの座ってるベンチの傍らに、明らかにホームレスと思われる人が座っている事に全く気が付かなかった。彼は興味深そうにボクを見ている。
ベンチを立とうとした時、
「なにやらかしたんだ」
と、ホームレスの人が突然声を掛けてきた。
ボクはビクッとして、「な、何がですか」と明らかに動揺した。
ホームレスの人はイッヒッヒとねちっこい笑い方をして言った。
「おれぁなぁ、色んな人間見てきてんだよ。表にゃ顔出せない、コソコソ隠れて生きる奴等をなぁ。あんたの目にもそれが出てる。ヤバい事やってきたって焦ってる目だ。盗みか。女に乱暴したか」
他人事だと思って可笑しそうに喋りかけるこの人物にボクは我慢出来なくなって歩き出した。
そんな事するもんか、と怒鳴りたい気分だった。
その背中に向かってまだしつこく話し掛けてくる。
「こ◯したか」
ギクッとしてボクは立ち止まってしまった。
恐る恐る振り返ると、ホームレスはどこかそっぽ向いて「やっぱりな…」と呟いた。
「や、やっぱりって。ど、どういう意味ですか!」
荒げたつもりだがその声は震えている。
「言ったろ。目ぇ見りゃ分かんだよ。追われるものから逃げるような怯えた目だ。しかも、やっちまった事に後悔もしてる」
この人物は、何者だろうと思った。
まさに的確に、ボクの犯した罪と心理を見抜いている。
でもボクは、この人物に敵意を抱いていた。見た目の偏見も、もしかしたらあったかも知れない。人を見た目で判断する、ボクの心理も。
「だとしたらどうなんです?警察に通報しますか?どのみちボクはこれから交番に行って全部話すつもりな…」「人生を棒に振るぞ」
…それは、言われなくても分かっていた。
いや、分かっているつもりだ。ただそれは想像の中だけで、現実はどうなるのか分からず不安でいっぱいだった。
家族の顔が、思い浮かべると涙が出そうだから考えないようにしていたが、やっぱり家族の事を思うと、急に申し訳なくて泣きそうになる、
ホームレスはタバコに火をつけて
「捕まらずに、逃げてみようとは思わねぇか」
と持ちかけてきた。
ボクは心が揺れた。
「あんたに家族がいるのかどうか、それは分からねぇ。だけどよ、人殺しで捕まって会えなくなんのも、失踪すんのも同じこった。心配されんのも迷惑かけるのも変わらねえ。一つ違うのは、殺人犯じゃなく失踪したってなれば、少なくとも身内の人間に罪悪感は抱えさせずに済むわな。」
ボクはこのホームレスの目的が分からなかった。
ただ自首して捕まれば、家族が悲しみ、周りに冷たい目で見られ、平穏な家庭が崩壊するのは理解できた。
この男の言う通り、「居なくなって」しまえば、少なくとも世間から後ろ指さされる様な辛い思いはさせなくて済むだろう。
しっかり考える事が出来ず、ボクの口からは勝手に「どうすればいい」
という言葉がついて出た。
男はニヤリとして、「付いてこい。それ専門の人間の所に連れってやる」
と、タバコを消して歩き出した。
男の後を付いて行きながら、(もう、後には戻れない)と、心の中の何かが知らせているのを感じていた。
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