第8話
今日は明らかに機嫌が悪い。まるで初めて会った時のようだ。何となく居心地が悪いが、隣人は冷蔵庫からビールを取り出してきて「まぁ飲め」と、手製のツマミと一緒に置いてくれた。
「あ、じゃあ、せっかくなんで」
彼ももう一つビールを開けたが、今日は乾杯する気分でも無いらしい。
かなり飲んでるだろうにまだグビグビ飲みながら、彼は「はぁ~」っとため息をついた。
「なにかあったんですか?」
とりあえずそう言うしかない。
隣人は口を尖らせて眉間にシワを寄せ、「生活保護の額が下げられた」と打ち明けた。
なんだそんな事かと思ったが、彼にとっては死活問題だ。ボクは何とも言いようがなく黙っていた。
「世の中金のある、ろくでもねぇ奴んとこには余るほど金が行くってのによ。仕事出来なきゃ、年寄りなら生活が苦しくても死んでもいいってのか!」
気持ちは分かるがボクに言われても、と思う。
「あんたはまだ若くてこれからなんだってやれる。病気さえしなきゃな。だが問題は歳をとってからだ。相当器用に生きてりゃ別だけどよ、真面目に働いてたってろくな老後はねぇってこった。真面目なんざクソ喰らえだ」
客と飲みながら包丁を握ってたのが真面目かどうかは分からないが、彼は彼なりに、慎ましく懸命に働いてきたに違いなかった。
「こうなったらもう悪い事してでも金を稼いだモン勝ちだな。世の中そういう仕組みに出来上がっちまってんだ。あんたも考えといた方がいいぞ」
余計なお世話だと言いたいところだが、確かに真面目に一生懸命働く人が報われる世の中で無いと言うのは一理ある。
「…悪かったな。いきなりまずい酒にしちまってよ。鶏でも揚げるから、飲み直そうや」
その状態で火を扱う事に不安を覚えるが、きっといつもの事なのだろう、とボクは甘える事にした。こういう時は逆らわない方がいい。
慣れた手つきであっという間に一皿唐揚げを盛って、枝豆と一緒にちゃぶ台に置いてくれた。
「遠慮せず食ってくれ」
そういえば帰ってから何も食べてなかった事を思い出し、「いただきます」と本当に遠慮なく頂いた。
おじさんがわんこそばの様に追加してくれるビールも美味くてグビグビ飲んだ。
「さっきの話じゃないですけど…」とボクもついつい愚痴が出て来た。
大して仕事してなさそうなのに上に気に入られて出世していく奴。ちょっと厳しく指導するとすぐ辞めていく若いやつ。1日中スマホをいじってるのに定時にはサッと帰る女子社員。
普段見て見ぬふりをしてても心のどこかでやっぱり不愉快に感じていたのだ。
壁でも殴りたい気持ちになってくる。人の部屋だからやらないが。
おじさんも一緒になって腹を立てて同情してくれた。ひとしきり吐き出して、ボクも少しスッキリした気がした。
「立派なセットだな。俺もいくつか持ってたが、全部売っちまった」
おじさんが興味を示したので、ボクはゴルフバッグを引き寄せて開けて見せた。
始めた頃はどれを買えばいいか分からずとりあえずセットを買ったのだが、今は劣化や、自分のスタイルに合ったものを選んで少しずつ買い替えるようになっていた。
「このアイアンなんかは実にいい。振りやすくてコントロールもしやすそうだ」
ボクがかなりこだわって選んだ一番高いクラブをおじさんが褒めてくれて嬉しかった。
「もうゴルフはやらないんですか?」
「いやぁ、体が無理だな。もともと仕事の付き合いで始めたしな。定年してからは一度も、握ってすらねぇ」
隣人はパターを出して「ゲートボールぐらいの趣味があれば良かったけどな。人と一緒に何かやるのに疲れちまった」
だから今でも孤独なのだろう。だが、本人がそれを望むのなら、そういう生き方もありかも知れないと思った。
昔ゴルフをやっていたという人たちは、棚やあちこちにトロフィーなどを飾りたがるものだと思ったが、彼の部屋にはそういう類は一切ない。付き合いで無理矢理やっていた事もあって、あんまり思い出したくもないのだろう。
「今は、何か趣味はないんですか?」
ボクがあげた日本酒を、また二人でちびちびやりながら訊いてみる。
「趣味、かぁ…。まぁ酒だろうな」
苦笑いした彼に、あと壁太鼓ですねと言いかけたがギリギリのところで飲み込んだ。
あれは趣味じゃない。悲しみと怒りの「鎮魂の儀」だ。冗談にしてはいけない。
それからもボクらは飲み続け、明日が休みという事もあってかボクもかなり酔っ払っていたと思う。日本酒が空になると僕は自分の家からもう一本を持って来た。勿体無いだろとおじさんは言ったが調子に乗っていたボクは「何言ってるんですか。これも空けちゃいましょう」とお互いの湯呑みに注いでグイグイ飲んだ。
隣人が歌い出したので、ボクは機嫌が直って良かったと手拍子をして盛り上げた。何も解決しないのだが、こうして飲むしかない、飲まずには絶えられない、そんな気持ちがボクにも分かった。
記憶を失くすまで飲む事を危惧していた妻の顔が一瞬浮かんだ。
いや、今は何も考えず、ただ楽しい時間を過ごすべきだ。
そう自分に言い聞かせてボクはいつの間にか、コテンとなるまで飲み続けた。
いつの間に寝たのか、どちらが先だったのか、全く覚えが無かった。
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