第6話

翌日は残業もなく定時には帰れた。とはいえ電車を降りる頃は夜7時は過ぎているのだが、こんなに早く帰れるのは久しぶりだった。


ボクはいつもの様にコンビニで夕飯とツマミとビールを買い込み、今日からなるべく部屋を綺麗にしとかなきゃ、とアパートの階段を上る。

隣人の部屋の前で一瞬立ち止まったが、首を横に振ってインターホンを鳴らさずに通り過ぎた。

昨日の件で、何だか関わりづらくなった。もう壁太鼓にも応戦するまいと思った。


3分でチーンと食事の用意が出来、すぐ食べ始める。

隣のおじさんは毎日自炊しているのかと思ったが、頭を振って彼の事は考えから遠ざけた。

コンビニの乾き物で2缶目のフタを開けようとした時、「ピンポーン」とインターホンが鳴った。最近では少なくなったけどまた何かの勧誘かと思って、煩わしさを顔に出しながら「はい」と扉を開ける。

 

そこに立っていたのは隣人のおじさんだった。

ちょっと伏せ目で視線を合わさず、口元を緩ませて「よっ」

と彼は言った。

「今朝穫れたクロダイを捌いたんだけど、食いきれなくてよ。良かったらどうだ」

単なる理由づけかも知れなかったが、向こうからコンタクトをとってくれたのが嬉しくて

「どうぞ」

とボクは部屋へ招き入れた。

「お、そうかい。それじゃあ」

おじさんは皿に盛られた刺し身片手に、少しホッとした様に見えた。



「もう飲んでたんだな」

空の缶を見て彼が言った。

「あ、大丈夫です。今始めたばかりなんで」

そうか、と言っておじさんは皿のラップを取った。

盛り付けも、さすが元料理人という感じで美しく美味しそうだった。

「せっかくなんで、あれ、出しますか」

ボクは引き戸を開けて、実家から送ってもらった日本酒を取り出した。

「いいのか? “ 春風の如し ” っていやぁかなり貴重な代物だぞ」

「そうなんですね。でもそれなら尚更です。独り占めなんかしたらバチが当たります」

おじさんは嬉しそうに笑った。それは貴重なお酒が飲めるからだけではない、というのをボクには何となく分かった。


新鮮なお刺身に最高のお酒を嗜みながら、ボクは何と切り出そうかと考えていた。

先に口を開いたのは隣人のほうだった。

「エライ剣幕だったなぁ。ありゃあ、相当なもんだぞ」

「はぁ…。その節はうちの妻がお騒がせして、本当に申し訳ありません」

「いや。正直かなり飲んでいたからな、あまり詳しくは覚えとらんが…。叱られたのは覚えてるよ」

おじさんは酒をクイッと飲んでから

「それに、騒がせたのは俺の方だからな」

と呟いた。

何だか彼が少し小さく見えた。

「女房にもよくああやって叱られてたのを思い出したよ。気の強い女だった」

少し遠い目をしたおじさんが、身の上話を打ち明けた。

「女房はな、がんだったんだ。余命宣告を受けてから、1年も長く生きてくれたよ。よっぽど俺の事が放っておけなかったんだな。…出て行ったってのは、嘘だ。そう思わにゃ、時々やってられなくてよ…」

 ボクはグッと口を結んだ。

長年連れ添った人が、病気で亡くなってもう二度と会えない。そう思うとどうにかなりそうな気持ちが痛いほど分かった。きっとボクも、同じ境遇なら耐えられず、自分に嘘をついてごまかして生きていたに違いない。どこかに出て行っただけ、知らない所で生きてるんだ、と。

そんな境遇は考えたくもない事だったが。

「病院じゃもう出来ることは無いって言われて、在宅に切り替えたよ。住み慣れた所で最後を迎えたいってな」

おじさんは視線を落とした。

「最期まで、あんたの傍に居るんだと…」

彼の声が少し震えたように聞こえた。

ボクは彼の湯呑みに酒を注ぐ。彼は片手を挙げる仕草をしてまた一口飲んだ。

「最後は哀れなもんだった。歌が好きでな。うるせぇぐらいよく喋るやつだったのに、喉に転移して声が出なくなっちまった。…それでよ、あいつは俺が起きてるか確かめる時に床をトントン叩いてた。俺も起きてる時は叩いて返したよ。時々心配になって体を叩くとな、返事するみてぇに床を叩くんだ。もうあんまり意識は無ぇみたいだったってのによ」

ボクは、彼が壁をドンドンする行為が、悪意によるものだけでは無いような気がした。

奥さんを、最後は叩き返してくれなくなった亡骸を、返事を求めて何度も叩いている姿を想像した。

ボクは、勝手に涙が出て来た。

グズっと鼻をすするボクに、「喋りすぎたな。飲めよ。まぁあんたの酒だがな」

とおじさんは笑いながら酒をついでくれた。


 

 

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