第45話 絶体絶命の、その中で
あと少しで、国境を越えられたのに。
馬車の中で震えながら、懸命に周囲の状況をうかがう。森のあちこちで、金属がぶつかり合う音がしていた。
そしてその合間に、誰かの叫び声がした。その声は確かに、「一人たりとも生きて帰すな」と言っていた。
奇襲だ。おそらく森の中に、レシタルの兵士たちがひそんでいたのだ。たぶん、こちらの倍はいる。もしかすると、もっとたくさん。そして彼らは、有無を言わさずに襲いかかってきた。
今の私たちは、ただの旅の商人一行にしか見えないはずだ。マリオットの名もソナートの名も聞こえてこないから、たぶん私たちの正体はあちらにばれていない。
王国兵が私たちを怪しいと思ったとしても、いきなり矢を射かけてくるのではなく、まずは馬車を止めて話を聞くだろう。それが、普通の対応だ。
だったらなぜ、こんなことになっているのか。混乱した頭で、必死に考える。
この王国兵は、たぶんこの辺りの警備を担当しているのだろう。森の中にちらりと見えるその姿は、長い旅をしてきた者のそれではない。たぶん少し離れたところに、警備兵の拠点があるのだと思う。
そんな立場の人間が、どうして旅の商人を殺そうとするのか。
悩んで悩んで、はっと気がついた。
「まさか、そんな……でも、あり得ない話じゃない……」
この街道の先にあるのは、ソナートとの国境のみ。つまりここを通るのは、ソナートと行き来する者だけだ。
現在、レシタルとソナートの間に国交はない。ただこの街道だけは、そのままになっているのだ。
ソナートから入ってきた時の使者たちは、襲われなかった。でもレシタルから出ようとしたら、襲われた。
もしかしてレシタル王は、自分を、レシタル王国を見捨ててソナートへ逃げようとしている者を一人残さず消そうとしているのではないか。自分に服従しなかった、罰として。そしてここの警備兵は、その命令に従っているだけだとしたら。
根拠なんてない。でもこれが、一番しっくりくる答えだった。
「……みんな、どうか……無事でいて……」
なおも聞こえてくる戦いの音に、ぎゅっと両手の指を組み合わせる。もちろん、いくら祈ったところで、聖女印は現れない。何も起こらない。
今までで一番、自分の無力さを呪った。
私は、普通の女性とはまるで違う。そこらの男に負けはしないし、剣だって人並み以上に使える。身のこなしにも自信はあるし、男装だって得意だ。
かつて私はそんなあれこれを使いこなして、自分の人生を切りひらくことにした。望まない結婚から逃げて、自由をつかみ取ることにした。あの頃は、何でもできるような気がしていた。
でも私は、それでもやっぱり女性だ。どうやっても筋力には劣るし、体も軽い。手合わせ程度ならまだしも、剣を取って本気の殺し合いなんて、できない。
悔しい。この状況で、一人だけ隠れていなければならないことが。私にもしものことがあれば、マリオットの人々の心の支えである聖女が失われる。マリオットとソナートとの、唯一の接点も。
唇を噛みしめながら、必死に周囲を見渡す。耳を澄ませて、状況をつかもうとあがく。今の私にできるのは、自分の身を守ること。ただ、それだけ。
「……少しずつ、押されてる……?」
気のせいか、戦いの音が近づいてきているようだった。懸命に脱出路を探しつつ、セルジュのことが心配でならなかった。
と、足音が一つ、こちらに近づいてきた。敵か、味方か。とっさにナイフを手にして身構える。
しかし近くのやぶをかき分けて姿を現したのは、セルジュだった。息を弾ませて、険しい顔をしている。
肩や腕にうっすらと血がにじんではいるものの、大きな怪我はしていない。そのことに、心からほっとした。
そうして彼は、声をひそめて呼びかけてきた。右手に提げていた剣を、さやに収めて。
「行くぞ、リュシアン!」
突然のことにぽかんとしている私に歩み寄ると、彼は私を抱え上げてしまう。そうして、全力で走り出した。
「えっ、な、何!?」
荷物のように担がれながら、戸惑いの声を上げる。セルジュはどんどん走りながら、小声で言った。
「このままではいずれ、押し切られかねない。その前に、お前だけでも国境を越えさせる」
「でも、まだみんな戦ってて」
彼の言うことが正しいのだと、すぐに理解はできた。でも戦っているみんなを置いていくのは、どうにもためらわれた。
「国境を越えれば、目的地はすぐ近くだ。ソナートの者たちに、協力を頼もう」
その間も、セルジュは力強く走り続けている。それも、私をしっかりと抱きかかえたまま。ずっと戦っていたから疲れているはずなのに、そんなことを少しも感じさせない走りっぷりだ。
セルジュはやっぱり、力強いな。そう思った拍子に、ふと思い出す。
前にも、こんな風に彼に抱えられて運ばれたことがあった。
あれは、マリオットの屋敷に町の人たちが殺到してきた、あの朝のことだった。みんなして、聖女に会いたいって大騒ぎして。
彼は人垣から私を大根みたいに引っこ抜いて、そのまま横抱きにして屋敷から逃げ出したんだった。あまりに突然のことに、抵抗することすらできなかった。正直、結構恥ずかしかった。
……あの頃は、平和だったな。こんな形で危険な場所に乗り出すことになるなんて、思ってもみなかったな。
うっかり泣きそうになったのをこらえて、できるだけいつもの声音でセルジュに呼びかける。
「だったら、僕も自分の足で歩くよ。ずっと隠れてたから、体力はまだまだあるし」
このまま私を抱えていたら、セルジュが疲れ果ててしまう。ところが彼は少しも足を止めることなく、腕の力も緩めることなく、きっぱりと答えた。
「お前を抱えていても、俺のほうが速く走れる。それにお前、そこまで体力はないだろう」
その時、嫌なことに気がついた。誰かが、私たちを追いかけてきている。味方ならいいけれど、敵だったら。
……ああ、あれは敵だ。ソナートやマリオットの兵士たちは、護衛のふりをするためにみんな革の鎧を着ている。でも追いかけてくる足音たちには、がちゃがちゃという金属の音が盛大にまとわりついていた。
私と同じことに気づいたのか、セルジュがぽつりと言った。今まで聞いたこともないくらいに、弱々しく。
「……だから、せめて……最後までお前を守らせてくれ」
「最後だなんて、縁起でもない!」
震える声で、必死に否定する。
「だが、それを覚悟しなくてはならないくらいに状況は悪い」
「あきらめちゃ駄目だってば!」
そんなことを話している間にも、後ろの気配が少しずつ近づいてくる。
セルジュの首につかまったままそっとそちらをうかがうと、追いかけてくる王国兵の姿が遠くに見えた。それも、五人も。少しずつ、こちらとの距離が縮まっている。
絶句していると、セルジュの静かな声が聞こえてきた。
「俺は……お前といると、楽しかった」
「……どうしたの、急に……?」
「お前はとにかく変わっていて、最初は戸惑った。だが慣れてみれば、性根がさっぱりしていて、細やかな気遣いのできる、いい奴だった」
「……何を言ってるの?」
一生懸命に呼びかけても、セルジュはこちらを見ようともしない。まっすぐに前を向いたまま、独り言のようにつぶやいている。
彼の口元に浮かんでいるのは、とても優しい笑みだった。こんな状況には、まるで似つかわしくない。
「お前が女だと知った時は驚いた。でも同時に、俺は心が浮き立つのを感じていた」
「ねえ、セルジュ!」
「もっとお前を知りたいと思った。そばにいたいと思った。他の人間に渡したくないと思った」
「セルジュってば!!」
「たぶん、この思いは恋心なんだろう。もっとも俺は、お前が言うように女性慣れしていない。お前が可愛らしく笑いかけてくるたびに、どうしていいか分からなくなっていた」
「だから、もういいよ! 弱音を吐くなんて、君らしくないって!」
悲鳴のような私の声と、くすぐったそうに過去を振り返るセルジュの声。背後のがちゃがちゃという音が、さらに近くなっていた。
「……リュシアン。いや、リュシエンヌ。もし、生きてこの窮地を脱することができたなら、その時は……俺の願いを、聞いてくれないか」
「なんでも聞くから! だから、生きよう! 二人一緒に!」
ああ、王国兵がもうすぐそこまで来てしまった。セルジュは私を下ろして、剣を抜く。あんな無茶な走り方をしていたからか、すっかり息が上がってしまっている。
私もナイフを構え、彼の隣に立った。いつか、酔っ払いを片付けた時と同じように。けれど、あの時とは比べ物にならない覚悟を胸に。
「……生き延びる。そのためなら、何だってする」
王国兵たちのあの鎧、よく見るとあちこちに隙間がある。あそこを狙えばいい。私の頭には、もうそのことしかなかった。
人を殺すことへのためらい。戦うこと、傷つくことへの恐怖。そんな思いは確かに胸の奥に巣くっていた。けれど、セルジュを死なせるものかという思いのほうが遥かに強かった。
しっかりとナイフの柄を握りしめて、王国兵たちを見すえる。彼らが間合いに入ってくる瞬間を逃さないように。
私が彼らより圧倒的に有利な点が、一つだけある。身軽さだ。それを生かせば、最初の一撃だけは彼らの予想できない動きができる。奇襲ができるのだ。
そうやって一人仕留めたら、腰に巻いている革紐でもう一人を転ばせよう。そちらも倒せば、あと三人。
かつて、獣にとどめを刺すのがかわいそうだと言っていた私が、今ではとても冷静に、人を殺すための計算をしている。こんなことを知ったら、セルジュは私に幻滅するかな。それでもいい、彼が生きてくれるのなら。
どれだけ血に汚れようと、この状況を、ひっくり返してやる。
あと数歩で、先頭の王国兵が私の間合いに入る。腰を落として、その時に備える。
しかしその時、いきなり目の前が真っ白になった。
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