第42話 新しい国は悩みでいっぱい

 それからは、とても忙しかった。独立に伴うあれこれの手続きやら何やらに、エミールのみでなくセルジュまでもがかかりきりになってしまうくらいに。


 正式にマリオット家の配下になった『カゲロウの叫び』の若者たちがあれこれと手伝ってくれたのはありがたかった。色々と鍛えておいてよかった、本当に。


 私は私で、イグリーズの人々の不安を取り除くために活動していた。毎日聖女の衣装をまとって、イグリーズの町を練り歩いたのだ。


 慈愛に満ちた穏やかな笑みを、救いを求める人々に振りまいて回る。それだけのお仕事。そのくせ妙に緊張する、やけに疲れる仕事だった。私にしかできないし、大切な仕事ではあるのだけれど。


 せめてセルジュが一緒にいてくれたら、緊張もほぐれたのに。毎晩こっそりため息をつきながら、それでも一生懸命に頑張っていた。


 みんなのそんな努力もあって、マリオットの内側はまあまあ安定していた。問題は、外側だった。




 ある日、少し早く仕事を終わらせて屋敷に戻った私は、エミールの執務室を訪ねていた。現状について、エミールたちに聞きたかったのだ。


「マリオットに続き、独立したものもそれなりにいるが……思ったより、様子見をしているものが多い。そのせいで少々やり辛い」


 そうしたらセルジュが、疲れた顔でそう教えてくれた。少し考えて、口を開く。


「ここみたいに、いざという時に備えている領主なんてそういないだろうし……必死に王への返答を引き延ばして、時間稼ぎをしてるんだろうね」


「王について共に沈むか、独立して戦火を招くか……民のことを思えば、容易にどちらかを選ぶことはできない。それは分かるんだが」


 そうして、二人同時に深々とため息をつく。


「さらに面倒なことに、マリオット領に隣接する貴族のほとんどが、様子見に回ってしまった。正直、聖女印がなかったらと思うと恐ろしい」


 二人でそんなことを話していたら、エミールも会話に参加してきた。書類を処理する手を、一瞬たりとも止めることなく。


「リュシアン君のおかげで、守りは万全です。ですが長引けば、民の心に不安がはびこっていくでしょう。周り中が敵となるかもしれないという状況に耐えられる者は、そう多くはありません」


 険しい顔をして、眉間にぐっとしわを寄せて、エミールはぼそぼそとつぶやいている。


「何かもう一押し、あればいいのですが。周囲の領主たちの心を、独立へと傾かせたくなる何かが。そうすれば同盟を組むことで、この状況を動かすことができるというのに……」


 その悲壮感あふれる様子が心配になって、おそるおそる申し出てみる。


「でしたら、僕が他の領主たちのところを訪ねて回りましょうか?」


 すると、エミールとセルジュが同時にこちらを見た。二人とも、目つきが怖い。


「他の領地にも教会くらいあるでしょうし、彼らの目の前で聖女印を発動させてみせれば、彼らの考えも変わるかもしれませんよ」


 そ知らぬ顔でそう言ってのけたら、セルジュがすかさず口を挟んできた。


「駄目だ。そんな危険な役目をお前に負わせられない。お前はそもそも、マリオットの者ではないんだ」


「今さら水臭いこと言わないでよ、セルジュ。それに聖女の力を見せつけてやれば、一番簡単に、手軽にびっくりさせられるよ? もしかしたら、ひれ伏して拝んでくるかも」


「……それはそうだが……やはり、危険なものは危険だ。だいたい、聖女印が発動しなかったらどうするんだ。聖女は、なぜかマリオットでしか見つからないんだぞ」


「でもこないだの聖女印、バルニエの一部も守ってるよね。案外、試してみたらいける気もするんだ。よその領地にお忍びでこっそり向かって、聖女印を発動させてから、マリオットの聖女様だぞ、って名乗るとか」


「何と言おうが、駄目なものは駄目だ。お前を危険にさらしかねない手段は絶対になしだ」


 二人でそんなことをわいわい言い合っていると、エミールがふっと首を横に振った。


「残念ながらセルジュの言う通りですよ、リュシアン君」


 そうして彼は、声をひそめる。いっそ怪談でも語らせたほうがぴったりくるような低い声で、ぼそぼそと言った。


「もし私が逆の立場であれば、聖女をおびきよせて捕らえ、それを手土産にしてレシタル王に尻尾を振るかもしれません。揺らぎ傾く国であっても、頂点近くにいればしばらくは安全ですから」


 もっともな指摘に、それ以上何も言い返せない。


「リュシアン君、君の提案は得るものも多いのですが、とても危険な賭けになってしまうのです」


「俺たちは、お前を失いたくはない。お前が聖女だからという、そのことを抜きにしても」


 二人に口々にそんなことを言われてしまっては、私は引き下がるほかなかった。もどかしいものを考えながら、書類仕事に戻る。


 知らず知らずのうちに、ため息がもれていた。




 そうこうしているうちに、お母様とのお喋りの日がやってきた。


 正直言って、お喋りを楽しむような気分ではなかった。問題は山積みだし、セルジュもエミールも夜遅くまで仕事に追われている。


 でも、お母様を心配させたくもなかった。だから面倒ごとについては伏せておいて、いつも通りのふりをしようと思った。


 しかし手鏡に映ったお母様は、私の顔を見るなり悲しげに眉を下げてしまった。


『まあどうしたの、リュシエンヌ。そんなに辛そうな顔をして。何か、あったのね?』


「……僕、そんなにひどい顔をしてる?」


『ええ。今までで一番』


「心配かけたくなくて、平気なふりをしてたんだけど……」


『もう、水臭いことを言わないの。私はあなたのたった一人の母親なのよ、心配くらいさせてちょうだい』


「うん……」


 お母様の温かい声に促されるまま、これまでのことをぽつぽつと語っていく。ぼんやりと、あらぬ方を見つめて。


 聖女を捕らえるために、王宮から使者がやってきたこと、聖女の持つ不思議な力でその難局を乗り越えたこと。


 しかし私たちが逆らったことでレシタル王が逆上し、従属か滅亡かを突きつけてきたこと。それを機にマリオットはレシタルから独立することにしたものの、どうにも状況が思わしくないこと。


 そんなことを話しているうちに、違う言葉も口をついて出た。


「僕が、もっと違う形で結婚から逃げていたら……僕があの祭りの祭壇に姿を現さなかったら……こんなことには、ならなかったのかなって、そんな気がして……」


 ずっと前から、考えていたこと。けれどわざと、意識しないようにしていたこと。


「だから、僕の手でどうにかしたいって、そう思ってたんだけど……いくら探しても、手伝いくらいしかできることがなくってさ……全然、解決には近づけなくって」


 セルジュやエミールには言えなかったそんな弱音が、次々とこぼれ落ちていく。


「おかしいよね。今までの僕なら、たぶんとっくにここから逃げ出してる。でも、今の僕は……逃げたくないって思ってる。イグリーズのみんなを見捨てることなんてできないって、そんなことを考えているんだ」


 そこまで言ったところで、うっかり泣きそうになってしまった。唇をぎゅっと噛んで、言葉を切る。


『そういうことなら、私が力になれるかもしれないわ』


 鏡の中から、とびきり優しい声がした。

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