第39話 湖を見つめて

 もじもじしながら、無言で洞窟を進む。やがて、少しずつ行く手が明るくなってきた。ようやっと、向こう側にたどり着いたのだ。


「あ、着いたよ。そこの湖、底なしって言われてるから気をつけてね」


 そうして二人で、洞窟の出口から外を見る。崖の斜面にぽっかりと空いた穴のふちを、しっかりとつかみながら。


 前に来た時はまだ一面白に覆われていた景色は、むき出しの岩肌と生い茂る草に置き換えられていた。


 かつては恐ろしげな冷たさに満ちていた湖も、今ではとろりとした優しさをたたえている。あ、魚の影が見えた。


 私が前にここを通ったのは、冬の終わりのことだった。婚礼の馬車から逃げて、崖を下って。


 ここに飛び込めた時は、ようやくエミール・マリオットとの結婚から逃げおおせそうだとほっと胸をなでおろしたものだ。


 でもまさか、こうしてまたここに来ることになるなんて思いもしなかった。


 それも、一年と経たずに。しかも、義理の息子になっていたかもしれない人物と手をつないで。そしてなんと、マリオットの領地を王国の兵から守るために。……正直言って、もう何が何だか分からない。


 こっそりとため息をつく私の隣で、セルジュは目を丸くして上下の崖を眺めている。


「……命綱を用意していたとはいえ、この斜面を滑り降りた、か……よくそんな恐ろしいことを思いついたな」


「ここじゃないけど、崖を滑り降りる方法はティグリスおじさんに教わってたし、実際に何度もやったことがあるから」


「そのおじさんとやら、狩人だと聞いてはいるが……恐ろしい人物だな」


「すごい人だって言ってよ。それに、ここでもちゃんと事前に練習したから、まあ失敗することはないかなって。……さすがに、婚礼衣装で滑り降りたのは初めてだったから、本番は緊張したけど」


 私の言葉に、ふとセルジュが身をこわばらせる。


「……そういえば、その時の婚礼衣装はどうした? さすがに無傷とはいかなかっただろうが……」


「ああ、えっと、ぼろぼろになっちゃったし……持ち歩いて正体がばれたらまずいと思って、その、そこに」


 もごもごとつぶやきながら湖のほうを見ると、セルジュもそちらを見て目を細めた。そしてそのまま、じっと湖面を食い入るように見つめている。


 どうしたのかな、と思って彼の顔を見上げる。けれど外から差し込んだ光がやけにまぶしくて、彼の表情は見て取れなかった。


「……まあ、それも仕方のないことか。お前は、逃げるのに必死だったから」


 やがて、セルジュがぽつりとつぶやいた。いつになく暗いその口調に、どうしたの、言いかける。けれどそれより先に、彼は厳しい口調で言い放った。


「だが、俺たち貴族の富というものは、元をたどれば民たちが納めた税だ。それをわきまえ、無駄にするなというのが父さんの口癖だ」


 そう言って彼は、ちらりと流し目をよこしてくる。斜め上からの、しかも鋭い目つきの流し目は、なかなかにどすが効いていて、見事な迫力だった。


「お前はかなり無駄にしたからな、いずれ埋め合わせを考えておいたほうがいいぞ」


 ただその目には、さっきのような暗さはない。むしろ彼は、意識して明るくふるまっているようにも見えた。


 だからさっきの問いかけはそのまま胸にしまい込んで、こくんとうなずいた。


「うん。……いつか、こっそりバルニエ領に出かけて、聖女の力で守ってあげられたらいいなって思う。リュシエンヌ・バルニエとして戻るのが一番いいのかなとも思うけど、僕はもうあそこには戻りたくない。そこだけは譲れないから」


「そうか」


 それから二人で、もう一度湖を見つめる。しばしの沈黙の後、ふうと息を吐いて口を開いた。


「さあ、そろそろ用事を済ませてしまおうよ。のんびりしている間に何かあったら大変だし」


 バルニエ領で育った私は全く知らなかったけれど、マリオット領においてこの湖は、信仰の対象になっているのだそうだ。


 マリオット側から険しい山を越え、あの湖に花を投げ込む。マリオット領の人たちは、なずっと昔からそうやって巡礼の旅をしていたのだとか。


 そうして人々の信仰を集めたこの湖でなら、聖女印を発動できる。そうすれば、マリオット領の全てを守りの力で包み込むことができる。実際、過去の聖女がここで祈ったという記録があるのだそうだ。


「それじゃ、いくよ」


 セルジュと手をつないだまま、空いたほうの手でそっと胸を押さえる。目を閉じて、ゆっくりと深呼吸した。


 湖を渡る涼しい風、静かな波の音、つないだ手の温もり。そんなものを感じていると、震えるような感情が込み上げてくる。


 私は守りたい。今の幸せな日々を。


 今、マリオットはレシタル王宮から危険視されている。今回は使者と兵士のみならず、後詰めの部隊まで控えていた。絶対に聖女を逃がすなという、そんな強い意志を感じる。


 確かに、イグリーズのみんなが聖女だなんだと大騒ぎしたのは事実だ。私が、聖女の名のもとに悩み相談をし始めたことも。


 それに、国に逆らおうとしていたカゲロウの若者たちを捕らえるどころか、逆に鍛えてやったのも事実だ。私たちのほうに、後ろめたいところがないといったら嘘になる。


 でも、そもそも陛下がきちんと国を治めてくれていたら。もうこの国は駄目だな、なんてみんなが見切りをつけたり絶望したりするような状況になっていなかったら。


 もしそうだったら、聖女が現れても、みんなあそこまで大騒ぎしなかっただろう。それに、悲壮な顔をした若者たちがあんなにたくさん集まってしまうこともなかっただろう。


 ……まあ、どっちが悪いとか、そんなことはもうどうだっていい。私は私の大切なものを守る、それだけだ。どんな手を使ってでも。


 そう強く念じたその時、閉じたまぶた越しにでも分かるくらいに強い光がわき起こった。


 目を開けると、すぐ近くの水面に聖女印が浮かび上がっているのが見えた。こないだのものと似たような紋様だ。


 しかしこの聖女印は、それはもう大きかった。庭や離れまで含めたマリオットの屋敷がすっぽりと入ってしまうくらいはありそうだ。かなりの迫力だ。


「大きいな……」


 そう言いながらセルジュが、用意していた地図を取り出した。器用に片手で広げて、私のほうに差し出してくる。


「この聖女印がどの辺りを守っているか、分かるか?」


 その問いに、無言でうなずく。


 礼拝堂で最初に聖女印を発動させたあの時、ふわっと意識が広がって、高く飛んでいくような感覚があった。私の体は礼拝堂にいるのに、視線だけがイグリーズの町全てを見ている、そんな感覚だ。


 エミールによれば、そうやって私の意識を飛ばせる範囲が、そのまま聖女印の力が及んでいる範囲なのだそうだ。


 目の前の聖女印を見つめ、意識を飛ばす。大きな山や川など目立つ地形を確認しながら、あちこち見て回る。そうしてまた意識を引き戻して、地図を指さしていった。


「ここから……この辺りまで。それと、この地域もだね」


「よし、確かにマリオット領は全て守れているな。周辺の他の領地も含まれているが……そちらについては戻ってから父さんに相談しよう」


 何だかんだ言って、セルジュはお父さんっ子だ。私との結婚話やら何やらのせいですれ違いまくっていただけで。エミールについて話している彼の顔には、まぎれもない信頼の色が浮かんでいる。


 いいなあ、とうらやましく思ってしまう。でも私にも、お母様がいるもの。次のお喋りの時にでも、こんなことがあったって思いっきり喋ろうっと。


 その時、ふと気がついた。地図を凝視して、もう一度聖女印の効果範囲を確認する。


「どうした、リュシアン? 難しい顔をして」


「……いや、大したことじゃないんだ。ただ、よく見ると……バルニエの屋敷も守られちゃってるなあって。隣のルスタの町もすっぽりと入ってるのはありがたいんだけど」


 今は父だけがいるはずの、私が生まれ育ったあの屋敷。そこはぎりぎり、聖女の力の範囲内だった。ルスタの町の、不安そうな顔をしていた町人たちを守ることができるのは嬉しいけど。でも、父を守るのは、ちょっとね。


「お前の父親が守られているのなら、それはいいことだろう。それに、バルニエの民のことも。迷惑かけた分、さっそく力になれて良かったじゃないか」


「うん、民についてはそれでいいんだけど……でも父については、どうせならちょっとくらい、痛い目を見てほしかった気もする……」


 父なりに、私のことを思ってくれてはいる。そのことは、ブローチの一件で分かった。けれどそれでも、色々と思うところはあるのだ。まだちょっと、手放しで父を許す気にはなれない。


 えり元のブローチに触れながらそうつぶやくと、セルジュがしんみりと微笑んだ。


「……そっちも色々あるようだが、いつかきちんと和解できるといいな」


「……うん」


 彼の言葉に、素直にうなずく。それから一緒に、来た道を引き返していった。しっかりと、手をつないだまま。

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