第35話 祈り、そして

 奇跡を願ったその時、信じられないことが起こった。


 胸の内にこみ上げてきた熱が、全身を巡る。そうして次の瞬間、私は緑色の光に包まれていた。


「えっ……?」


 驚きに両手を振って、光を払い落とそうとする。けれど光は私から離れることなく、それどころか逆に、どんどん大きく、強くなっていく。


 エミールが何も言わないということは、予定通り……なのかもしれない。けれどさすがに、ちょっと怖い。


 そんな私の思いが通じたかのように、突然光がするりと動き出した。私の体を離れ、床へと広がって……そうして、礼拝堂いっぱいに大きな円を描き出した。


 淡く光る円の内側には、複雑で優美な模様が走っている。あふれんばかりに花をつけたつる草のような、そんな雰囲気だ。


 呆然としていたら、エミールの声がした。


「それこそが、聖女印です。聖女である君の祈りに応えて目を覚ました、この地を守るものです」


 ……というか、さらに訳が分からなくなってきたんだけど……この、せいじょいん? とかいうものが、本当にみんなを守ってくれるのだろうか。どうやって?


「あのっ、聖女印って一体……って、ええっ!?」


 混乱しながらエミールに問いかけようとしたその時、聖女印がひときわ強い光を放った。美しくも生き生きしたその輝きに、思わず見とれてしまう。そんな場合じゃないと、分かっているのに。


 私とエミールが見つめる中、光はどんどん輝きを増していく。やがて、ぱあんと音を立てて弾けた。


 緑色の光が、舞い上がっていく。礼拝堂を通り抜けて、教会の外へ。そうして、さらに高くへと。それに引っ張られるようにして、私も上へと飛んでいく。違う、私の視界だけが動いているんだ。


 高く舞い上がった光は小さな光の粒になって、イグリーズの町に優しく降り注いでいった。私はそれを、町を見下ろす視点……鳥か、あるいは神の視点から眺めていた。


 どこからか、声がする。エミールの声ではない。子供、大人、女性、男性、たくさんの声だ。みんな外に出て、ふわふわと降ってくる緑色の光の粒を見ていた。驚きと感嘆に満ちた声の合間に、楽しそうにはしゃぐ子供たちの声もする。


 こんなに不思議な事態だというのに、誰一人として恐れてはいなかった。使者の来訪におびえ縮こまっていたのが嘘のように、町には笑顔があふれていた。


 その中を、教会に向かって走ってくる人影がある。綺麗な赤毛に大きな体、上から見ていてもすぐに分かる、セルジュだ。見ていて気持ちよくなるくらいに、堂々と町中を走り抜けている。


「……あ」


 セルジュの無事を確認したとたん、ふっと視界が揺らいだ。目の前には、礼拝堂で微笑むエミールと、やはり淡く輝いたままの聖女印。


「その、何がどうなって……」


 もう一度尋ねようとしたら、ふっと目の前が暗くなった。


「おや、大丈夫ですか。初めて聖女の力を使ったのですから、疲れたでしょう」


 よろめいた私を支えながら、エミールがそんなことを言っている。ああ、やっぱりさっきのは聖女の力だったのか。そういえば、何だか妙に疲れた。


 じゃなくて。結局聖女印が何なのか、町は本当に守られたのか、その他もろもろ聞きたいことが多すぎる。エミールの態度からすると、ひとまず危険は去ったみたいだし、さすがにそろそろ説明して欲しい。


「エミールさん、聞きたいことがあるんですが……」


 私がそう言ったのと同時に、礼拝堂の扉が勢いよく開いた。


「リュシアン! 父さん! 無事か!」


 息を切らせて、セルジュが駆け込んでくる。この上なく真剣な、どこか悲壮感すら漂う表情だ。


 しかしすぐに、彼の目が思いっきり見開かれる。ほんのりと照れたような表情で、ぷいと横を向いてしまった。


「その、無事なようでよかった」


 ……もしかしてこれ、着飾った私を見て混乱してる? 男性ものの服はローブで隠れているし、髪もヴェールでうっすら隠れている。とどめに、床いっぱいの聖女印まで。


 ちょっと神秘的でいつもと違う雰囲気に、彼が挙動不審になるのも仕方ないか。


「君こそ、無事でよかった。屋敷で別れてから、ずっと心配してたんだ」


 そう答えて、セルジュに歩み寄る。着ている衣装に合わせて、いつもよりちょっとしとやかに。首をかしげて彼の顔を見上げたら、彼はちょっと赤くなったまま横目でこちらを見た。


「ところで、外はどうなってたの? 緑の光が降った、ってところまでは知ってるんだけど」


 できるだけいつも通りの口調で尋ねてみると、彼はほっとしたような表情で答えてくれた。


「あの緑の光がふわふわと降ってきたとたん、俺と衛兵が抑え込んでいた王宮の兵士たちが一斉に眠り始めたんだ」



「それで、応接間の様子を見にいったら、そちらでも使者と兵士が眠っていた。椅子の上や床に崩れ落ちて、子供のように無防備に。しかも、つつこうが腕を引っ張ろうが、全く起きない」


 不思議なこともあったものだ、とつぶやくと、彼は床の聖女印にちらりと目をやった。信じられないものを見るような目つきをしている。


「だから、衛兵たちに頼んで王宮の兵士たちを全員縛り上げてもらっている。俺はお前たちの無事を確認するために、こちらにやってきたんだ」


「僕たちがここにいるって、よく分かったね?」


 上から見ていた時の、セルジュの迷いのない足取りを思い出す。彼はちょっぴり決まりが悪そうに、小声で答えた。


「それは、まあ……何かあったらここに来るようにと、父さんが前から何度も言っていたし……」


 大変言いづらそうな様子で、彼はぼそぼそと続ける。


「それに外が、な……」


「外が、どうしたの? 何だかとってもすっごく嫌な予感しかしないんだけど」


「その、だな…………町の者がみな、教会のほうを泣き笑いで拝んでいて……ああ、あっちで何か起こったんだなと、一目で分かる光景だった」


「えっ」


 セルジュの言葉に、裏返った声が出てしまう。


「嘘……さっき上から見てた時は、ただはしゃいでただけだったのに……ちょっと目を離した隙に、何てことに……」


「『上から見てた』? お前、何を言ってるんだ? この教会にそんな高い場所はないはずだが……」


 そして私の言葉に、セルジュがさらに動揺する。


「……まさかさっき降り注いだ光と、あとそこの光る円、お前の仕業か……?」


「『お前の仕業』って、そんな悪さしたみたいに言わないでよ。で、たぶん……僕がやったんだと思う」


 こうしてセルジュの無事も確認できたし、ひとまず使者と王宮の兵士たちの動きも封じた。……ここからどうするのか、どうなるのかは想像したくもないけれど。


 ともかくそんなこともあって、私はちょっぴり気が抜けていた。さっきまでの緊張の反動からか、セルジュがいる安心感からか、ついいつもの調子で軽口を叩いてしまっていた。


「この光る円、聖女印って言うらしいんだ。ええっと、聖女の祈りに応えて目覚め、この町を守るもの……だったかな。綺麗だな、とは思うけど……謎だよね、これ」


 そこまで話して肩をすくめたところで、ふと気づく。


「……って、この状況についてよく分かってない僕たちが、いくら頭を突き合わせて話し合ったところで、あんまり意味がないと思うんだよね」


 そうして、視線をゆっくりと動かした。私の背後で、ずっと気配を消したままたたずんでいるエミールのほうへ。つられるようにして、セルジュもエミールを見た。


 エミールは、にこにこしていた。彼にしては珍しいことに。驚いてセルジュを見たら、彼も目を見開いて私を見ていた。


 そのまま驚き顔を見合わせて、同時にエミールに向き直る。


「……エミールさん。さっきは緊急事態だったので、ひとまず言われた通りにしましたけど……そろそろ、きちんと説明してもらえませんか。正直、何が何やらさっぱりです」


「父さん、やっぱりリュシアンにも話してなかったのか……」


 難しい顔で、私とセルジュがエミールに詰め寄る。しかしエミールは涼しい顔で、礼拝堂の入り口のほうに目をやった。


「説明すること自体はやぶさかではないのですが、かなり長くなりますので場所を変えましょう。屋敷に戻り、みなに指示を出さなくてはなりませんし」


 そこで言葉を切って、エミールはまたにっと笑った。楽しそうな、ちょっぴりいたずらっぽい笑みだ。


「凱旋は、早いほうがいいでしょうから」

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