第4章 今、立ち上がる時

第33話 使者、来たる

 それからしばらくは、代わり映えのしない日々が続いていた。私はリュシアンとリュシエンヌの二つの姿を使い分けながら、毎日忙しく、けれどのんびりと過ごしていた。


 聖女リュシアンとして町人と会って、謎の娘リュシエンヌとしてカゲロウの若者たちを鍛えて。それ以外の時間は町をぶらぶらしたり、遠乗りをしたり。



 今のところまだ、リュシアンとリュシエンヌが同一人物だとばれてはいないようだった。とはいえ、それも時間の問題かなという気もする。カゲロウの若者たちが聖女の面会に来てしまったら、そこまでだ。


 ……もしそうなったら、腹をくくろう。カゲロウを聖女親衛隊とか何とか、そんな感じの位置づけにして……万が一にも暴走しないように、きっちりと手元に置く。想像しただけでも面倒極まりないけれど、これしかない。


 そんなことを考えつつ、私は今の日常を大いに楽しんでいた。


 ところが、そんな日々はぶち壊されてしまった。ある日、突然に。




「……まずいな」


「……まずいね」


 私とセルジュは、マリオットの屋敷の廊下にいた。応接間の扉に耳をつけて、中の会話を必死に盗み聞きしていたのだ。


 今日、朝一番に妙な馬車がやってきた。王家の紋章を目立つように掲げた、異様に豪華でこぎれいな馬車だった。


 こちらを威圧しているようなその馬車から降りてきたのは、高位の文官だと一目で分かる身なりの老人だった。どうやら彼は、王宮からの使者らしい。


 しかもその馬車を守るように、馬に乗った兵士の一団までついてきていた。みんなきっちりと武装していて、とんでもなくものものしい雰囲気だ。


 ずかずかと屋敷に上がり込んだ彼らを、エミールがそのまま応接間に連れていく。私とセルジュはこっそりと後をつけて、こうして話を聞いていたのだった。


 あの使者たちは、どこからどう見ても友好的とは言いがたい雰囲気だった。どんな用件でここに来たのかは分からないけれど、きっとよくない話だ。


 息を殺して、必死に耳を澄ませる。そうして聞こえてきた言葉に、すうっと血の気が引くのを感じた。


『マリオットのお膝元であるここイグリーズでは、聖女なるものがもてはやされている。民は陛下の恩を忘れ、聖女にすがっている』


『のみならずイグリーズの民たちは秘密裏に人手を集め、反乱を企てている』


『陛下はこの事態を重く見ておられる。聖女を排すべし、そうおっしゃった』


 セルジュと顔を見合わせて、忍び足でその場を離れる。心臓がばくばくいっているのを感じながら、必死に離れまで戻ってきた。


 窓の外に目を走らせながら、あえて軽い調子で言う。内心の動揺を隠すように。


「ねえ、さっきのあれだけど、僕が今のうちに行方をくらましちゃえばいいんじゃないかな? そうすればあいつらも、僕を追いかけてくれそうだし」


 私と同様に周囲を警戒していたセルジュが、ぴくりと肩を震わせた。


「男装を止めて、女性の姿で旅に出ればきっと見つからない。聖女が逃げたぞって騒ぎをわざと起こして、僕は逆のほうに逃げる、なんてことができればもっと時間を稼げる。セルジュ、手伝ってくれる?」


「……手伝うことは、構わない……だが、行く当てはあるのか?」


 絞り出すような声で、セルジュが低くつぶやいた。その声音には気づかなかったふりをして、さらりと返す。


「うん。隣国ソナートに知り合いがいる。ソナートとここレシタル王国は国交がないし、国境さえ越えてしまえばこっちのものだから」


 あと数日で満月、お母様とお喋りする日がやってくる。そこで事情を話して、国境まで迎えを出してもらうのもいいかもしれない。


 ティグリスおじさんから教わった数々の技を駆使すれば、森の中に潜みながら国境を目指すことだってできる。ここから国境まで、ずっと森をたどって移動できるし。


「たぶん、のんびり構えている暇はないと思うんだ。あの使者たち、たぶん僕を連れていくつもりみたいだし」


 連れていかれた先のことは、想像したくもない。よくて幽閉……でもたぶん、処刑になる気がする。今の王、そういう感じの噂しか聞かないし。


 だから私は、何が何でも逃げなくてはならないのだ。


「まずは裏門から出て、そのまま西の森に逃げ込もうと思うんだ。だからあの使者たちを引き留めるか、東に誘導してくれると助かるよ。……それじゃあ」


 荷物をまとめようと、離れの奥に向かおうとする。と、いきなりセルジュに腕をつかまれた。


「……行くな」


「でも、あいつらに捕まったら……」


 うつむいていて彼の顔は見えないけれど、その手には力がこもっている。


「……俺たちで、守る。俺たちがお前を引き留めたせいでこんなことになったのだから、責任は、取る」


「別にいいよ。その結果、君たちにもしものことがあったら、それこそずっと後悔するから」


 そう答えて手を振り払おうとしたものの、私の腕は空中で固定されたみたいに動かない。


「もしここでお前がいなくなったら、町の者たちの不安は増してしまう。その結果、使者たちに歯向かうかもしれない。本当に、反乱なんてことになってしまうかもしれない」


 彼の言葉に、返答に詰まる。確かに、それはありそうだ。この町の人たちは気がよくて、まっすぐで……そして、『聖女』に、あふれんばかりの思いを寄せている。


「……それに、この手を離したら……もう二度と、お前と会えないような気がする……」


「や、やだな、物騒なこと言わないでよ。僕さえ無事に逃げ切れば、大丈夫なんだから」


 そう答えつつも、胸の中で不安が膨れ上がっていくのを感じていた。


 私が逃げてしまったら、セルジュやエミール、それにこの町の人たちが責任を問われはしないか。こっそりと聖女を逃がしたとか、そんな言いがかりをつけられはしないか。


 どうしよう。考える時間なんてないのに、早く決めないといけないのに。


「……離してよ、セルジュ」


「嫌だ」


 セルジュは顔を上げずに、淡々と答える。


「……だったらいっそ、君を殴り倒して逃げてしまおうかな。そのほうが、聖女が力ずくで逃げたっていう言い訳も通りそうだし」


「俺のほうが強い」


「分かってる。でも、それが一番安全だ。だから、やるしかないんだよ」


「やれるものならやってみろ」


 いつものんびりとお喋りしていた離れの居間に、緊迫した空気が流れる。どうにかして隙をつこうとする私と、攻撃に備えているセルジュ。二人でにらみ合っていると、不意に涼やかな声がした。


「ふう、まるで駄々っ子ですね、二人とも」


「父さん!」


 それは、エミールの声だった。セルジュが弾かれたように顔を上げ、私の腕を力いっぱい引く。そのまま、私をかばうようにして身構えた。


「大丈夫ですよ。使者の方々には、少しだけ待っていてもらっていますから。……それはそうとして」


 エミールは目を細め、私とセルジュを交互に見た。


「……どうやら、話を聞いていたようですね。そして、君たちの交渉は決裂した、と」


 どうやら私たちのさっきの会話から、だいたいの状況を見て取ったらしい。相変わらずエミールは聡明だなあと、ふとそんなことを考える。


「リュシアン君。私たちは君の意見を尊重しましょう。君は、どうしたいのでしょうか」


 すると彼は、ひどく真剣な面持ちでそう尋ねてきた。


「僕は……」


 一瞬ためらって、すぐに言葉を続ける。林の小道を兵士たちがやってくるのではないかという、そんな恐れを隠しながら。


「ここから速やかに姿を消すのが、最善だと思っています。イグリーズに降りかかる火の粉も、エミールさんなら払えるでしょうから」


 まだ私の腕をつかんだままのセルジュが、かすかに身じろぎしたのが伝わってくる。


「でも……」


 一つ深呼吸して、顔を上げる。まっすぐにエミールを見つめて、言い切った。


「たくさんの人たちが『聖女』を必要としている。その思いを裏切りたくないって、そうも思ってしまうんです。ここは、とっても素敵な町だから……」


 すると、エミールが目を大きく見開いた。あまり表情を変えない彼にしては珍しい、子供のような表情だった。それからふっと、泣き笑いのような表情を浮かべる。


「分かりました。それでは君のその思いに、応えるとしましょうか」


 そうしてエミールは、ふっと笑う。いたずらをたくらんでいる子供のような、そんな顔で。この状況には似つかわしくないはずの表情が、やけにしっくりくるのを感じる。


「行きますよ、リュシアン君、セルジュ。私たちみなで、この難局を乗り切りましょう」

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