第27話 大体いつも通りの日常、だけど

 ある日、私とセルジュは、離れの居間のソファにぐったりと伸びていた。まだ午前中だというのに、すっかり疲れ果てていた。


 ソファに横たわって天井を見つめながら、しみじみとつぶやく。


「……あの二人、どうにかなりそうで良かったね」


「お前ががつんと言ってやったのが効いたな。中々の名演説だった」


 私と同じように別のソファに倒れ込んでいるのだろう、やけに低いところからセルジュの声がした。


「そんな大したものじゃないよ。必死だったのは認めるけど」


 以前、私たちのところに恋愛相談に来ていた、身分違いの恋に悩む二人。その時は二人に、ごく普通の助言だけを与えて返したのだ。


 大きな商店のお嬢様には、根気強く両親を説得するように、と。


 そしてその商店の使用人でありながら彼女と恋仲になってしまった男性には、猛烈に働いて猛烈に学べ、と。お嬢様の夫として認められるには、それ相応の能力が求められるから。


 ところがこの助言が、思いもかけない事態を招いてしまっていた。


 使用人は思いのほか根性があったらしく、短期間のうちにめざましい成長を見せていた。


 その頑張りが周囲に認められて、店の者たちは次第に二人の味方をするようになっていた。彼なら、俺たちの次の主として認められる。そんな空気が、店に漂うようになったのだとか。


 一方で、お嬢様も懸命に両親を説得していた。しかしこちらは、中々うまくいかなかった。お嬢様の両親である店主夫婦は、それはもう猛烈に反対した。周囲がみな賛成しているせいで、余計に意地を張ってしまったのかもしれない。


 たまたま店主夫妻は、事業拡大のため別の町に支店を開く準備をしているところだった。そうして二人は、邪魔な使用人をその支店に送り込んでしまおうと考えた。


 そうすれば優秀な人材を失わずに済むし、しかもその人間を自分たちの娘から遠ざけることもできる。


 店主夫妻のたくらみを知ったお嬢様と使用人は、大急ぎで私たちのところにまたやってきて、あいさつもそこそこにこう言った。


 私たち、駆け落ちしようと思います。たくさん学びましたから、イグリーズを離れてもやっていけると思うんです。


 私とセルジュは、大あわてで二人を止めた。待て、早まるな、と。そうして大至急店主夫妻を呼び出して、全力で説得したのだ。


 まずは二人の愛がどれだけ強いものか主張して、もし結ばれないとなったら二人がどんな行動に出るか分からないと、軽くおどしておく。


 その上で、使用人のことを褒めちぎった。彼はたゆまぬ努力を続ける、とてもまっすぐな心根の青年で、お嬢様にはぴったりの良い人物だ、これ以上の婿はそういない、と。


 綱渡りでもしているかのような説得を続け、ようやく店主夫妻は折れてくれた。聖女様がそうおっしゃるのなら、もう少し様子を見てみましょうと、そんな言葉を引き出せたのだ。


 これで、しばらくは大丈夫そうだ。私たちはこっそり冷や汗をかきながら、お嬢様と使用人、それに店主夫妻を見送ったのだった。


「しかし、自ら両親を説得する、か。お前がそう言い出した時は、少し驚いた」


 しみじみとした声が聞こえてきた。ごろりと寝返りを打って、セルジュのほうに向き直る。


 ソファに寝転がったまま、彼は何とも微妙な顔をしていた。ちらりと流し目をよこして、小さく笑っている。


「お前のことだからてっきり、二人の駆け落ちを手助けするとばかり思っていたが」


「えっ、何だよそれ! ……なんてね。僕には結婚から全力で逃げた前科があるから、君がそう思うのも仕方ないか」


 身を起こして、行儀悪く足を組んで座る。どんと自分の胸を叩いて、とうとうと述べた。


「僕はそこらのお嬢様とは違う。君も知っての通り、自分一人で生きていけるだけの力がある。でもあの二人は、ごく普通の町人だ。駆け落ちなんて無謀なことはお勧めできないよ」


 それにさ、とつぶやいて視線をそらす。


「やっぱり逃げなかったほうがよかったかな、って、僕でさえ時折そう思うんだ。たぶんあの二人なら、もっとずっと後悔するよ」


「俺としては、お前が結婚から逃げてくれて助かった。お前が俺の継母になるなどと、想像しただけで奇妙な気分になるからな」


 私がこっそりともらした弱音を、セルジュの力強い言葉が吹き飛ばした。いや、おそらく彼はただ本音をつぶやいただけなのだろう。


 だからにやりと笑って、軽く返す。


「僕も、自分より年上で目つきの悪い義理の息子は、ちょっと扱いに困るかな」


「何を言うんだ、男装が得意で崖を滑り降りる継母よりはましだ」


 軽い口調で言い合いながら、自然と私たちは笑っていた。困難を共に乗り切った戦友のような、そんな一体感がそこにはあった。




 昼食の後、セルジュは一人でイグリーズの町に出かけてしまった。ちょっと今日は帰りが遅くなるかもしれない、と言い残して。


 彼が一人で町に行くのは、別に珍しいことではなかった。こういう時は「いってらっしゃい、自由に出歩けるっていいよね」って私が愚痴り、「だったら一緒に行くか、聖女様?」とセルジュがからかってくるのがお決まりのやり取りとなっていた。


 でも本当は、ついていきたかった。あるいは、尾行したかった。エミールがセルジュのことを心配しているし、私も気になる。


 聖女としてすっかり顔の売れてしまった私が町に出たら、間違いなく注目の的になる。そんな状態では、尾行なんてとてもできない。


「もっとも、これからは別よ」


 何食わぬ顔でいつも通りにセルジュを送り出してから、いそいそと離れに戻る。そうして、荷物をあさった。バルニエの屋敷から持ち出して、湖の洞窟に隠しておいた、あの荷物だ。


「聖女が町に出たら、大騒ぎになる。悩み相談の人たちの感じからすると、まだ町の人たちは聖女に慣れていないから」


 そんなことをつぶやきつつ、目的のものを取り出した。


「……聖女と顔を合わせると、いまだにみんな、大はしゃぎするのよね……いい加減、慣れてくれないかしら」


 ごく普通の町娘が着ているような可愛いワンピースと靴、それに栗色の髪のかつら。これらもまた、私が結婚から逃げるために用意したものだった。


 ずっと男性のふりをして逃げるにも限界があるし、もしかするとリュシアンが私だと気づかれるかもしれない。


 だから念には念を入れて、元の自分とは違う女性の姿も用意しておこう。何なら、いくつもの姿を使い分けながら逃げればいい。そう考えたのだ。


「今までは、セルジュに正体がばれるのを恐れて、こちらの変装はできなかったけれど……もう、いいわよね」


 うかつに女装姿を見せて、こいつは女ではないか、などと疑われたややこしくなってしまう。ずっと、そのことを恐れていたのだ。でも、もう気にしなくていい。


 いったん男物の服を脱いで、特製の革下着も外す。それから女物の下着と、ワンピースを身につけていく。


 女性らしい格好をするのは久しぶりで、ちょっと落ち着かない。妙な話だけれど、今の私にはリュシアンとしての姿のほうがしっくりきてしまう。


 全く、ここまで男装に慣れてしまうなんてね。苦笑しながら、目立つ銀髪を三つ編みにしていった。ぐるぐると頭に巻きつけて、その上からかつらをかぶる。ふわふわの栗色のかつらは、私の長い髪をうまいこと隠してくれていた。


 姿見に全身を映して、自分の姿を確認する。うん、当然ながら男性には見えない。ちょっといい家のお嬢さん、それくらいの雰囲気に仕上がっていると思う。


 聖女は銀の髪の青年。みんなそう思っている。だったら、栗色の髪の女性についてはさほど注意を払わないはずだ。


 化粧をすればより印象を変えられると思うけど、平民の女性が化粧をするのは何か特別な時くらいだから、悪目立ちしかねない。


 これでもばれてしまうなら、その時はその時だ。覚悟を決めて、離れを飛び出した。

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