第21話 父はあまりに不器用で

「はあ……本当に何だったんだろう、あの洞窟……」


 また別のお休みの日、私は離れの居間でごろごろしていた。セルジュはエミールに用事を頼まれていて不在だ。そんなこともあって、私はただひたすらに暇を持て余していた。


 テーブルに頬杖をついて、これまでのことをぼんやりと思い出す。町の人たちに面会して悩みを聞くあの活動はすっかり軌道に乗って、それに伴い町の人たちの態度も変わってきたようだった。


 最初は喜びをもって私を迎え、やがて救いを求めて私のもとに殺到してきた人々は、今では不思議な落ち着きを見せるようになってきた、らしい。私はまだ町の中を見て回れていないので、セルジュからの伝聞でしかないけれど。


 ひとまず、そちらは問題ない。問題なのは、あの洞窟だ。というか、洞窟とセルジュだ。


 私にしか見えないあの洞窟には、もしかすると何か重大な意味があるのかもしれない。だからいずれまた、きちんと準備をして調べにこよう。奥に何があるのか、それも気になるからな。セルジュは、そう言っていた。


 けれど、私は知っている。あの洞窟の奥にあるのは、あの冷たい湖だけだ。


 もし、セルジュをそこに連れていったとして。彼が、そこはバルニエ領だと気づいたら? リュシエンヌ・バルニエが落ちた湖だと気づいたら?


 彼は賢い。何かの拍子に、それらの事項と私を結びつけ、そのまま私の正体にたどり着いてしまうかもしれない。


 自らの手で真実にたどり着き、失望した目をこちらに向けるセルジュ。そんな姿を想像しただけで、ぎゅっと胸が苦しくなった。


「……今からそんなことを悩んでも仕方がないよね。大丈夫、きっと大丈夫」


 そう自分に言い聞かせていたら、扉が叩かれ、メイドが姿を現した。静かなところでのんびりしていたいので、使用人たちは本当に必要な時しか離れに足を踏み入れない。


「ああ、どうしたの?」


 私の言葉に、メイドは「エミール様がお呼びです」と、とても礼儀正しく答えたのだった。




「お休みのところ、すみません。少々、君と内緒話がしたかったのです」


 少し後、私はセルジュの執務室でお茶をごちそうになっていた。ソファに腰を下ろし、カップから立ち上る温かな湯気に目を細める。目の前の低いテーブルには、おいしそうな小さなお茶菓子がいくつも置かれている。


 ちらりと隣を見ると、とびきり大きな執務机が目に入った。その上には、相変わらずたくさんの書類が積み上げられている。


 ここに来るたび思うのだけれど、エミールは仕事を抱え過ぎだ。領主が普通に領地を治めるために必要な量の、倍は働いている。


 彼の亡き妻が最後に遺した、『みんなを幸せにしてあげて』という思いに応えるために、彼は民たちを助け支える事業をどんどん増やしている。


 おまけに、最近では私たちが民の困りごとを持ち込むようになったから、さらに忙しくなっている。「私では気づけなかった問題を洗い出していただいてありがとうございます」と感謝されてはいるものの、そのせいで彼の労働時間が増えているのも事実だ。


 正直そろそろ、彼の体が心配になってきた。セルジュによれば、エミールはほっそりとしている割にはかなり頑強で、若い頃は涼しい顔で何日も徹夜していたらしいけど。


 そんなことを考えていたら、エミールが近づいてきた。私の前のテーブルに、ことりと小さな箱を置く。小ぶりな装飾品などを入れるのに使われる、ビロード張りの箱だ。


「実は、バルニエ伯爵からこれが届いたのです。どうぞ、開けてみてください」


 どうして私に、とは言わなかった。こちらを見つめてくるそのまなざしを見ていたら、理由はすぐに理解できたから。やっぱり彼は、私が誰なのか分かっている。


 だから素直に箱を手に取って、慎重に開けた。すると、雪の結晶をかたどった銀のブローチが姿を現す。


 冬の朝の雪に似た繊細なきらめきを見せるダイアモンドに囲まれるようにして、深い湖の青をたたえたサファイアが輝いている。明らかに上等な品だけれど過度に華美ではないし小ぶりなので、普段使いもできそうな品だ。


「これはバルニエ伯爵が、娘のリュシエンヌのためにひそかに作らせていた品なのだそうです」


 思わず、驚きに息を呑んだ。父が私のために、こんなものを作らせていた? どうして、そんなことを? 何のために?


 頭がついていかなくて混乱する私に、エミールは淡々と語り続ける。私にとっては衝撃でしかない、そんな内容を。


 父は私とエミールの結婚を取りつけた後、このブローチを急いで作らせたらしい。私の髪と目の色に合わせた、銀と青のブローチを。それも、結婚祝いとして。


 そして結婚が決まった直後、父はエミールに、こんなことを言っていたらしい。


『私は焦るあまり、娘をとんでもないところに嫁がせてしまうところでした。あなたが申し出てくださって、本当に助かりました』


『あなたはうちのおてんば娘には過ぎた、とても立派な方です。どうか、娘をよろしくお願いします。あれは素直ではないし理屈っぽいし気が強いし、とにかく淑女とはいい難い女性です。ですが心根はまっすぐな、いい娘なのです』


 予想もしていないとんでもない言葉の数々に、幾度となく声を上げそうになっては必死にこらえ、その拍子にうっかりうめき声をもらしてしまう。


 エミールが語る人物、それは本当に、私の知るあの父なのか。父のふりをした別人なのではないか。そう思えてならない。


 父はとにかく偉そうで、しかも考えが古くて女を一段下に見ていて、とどめに若い頃は浮気ばかりしていた。それはもう、男性の駄目なところを煮詰めたような人物なのだ。


 あれを見て育ったからこそ、私は恋愛も結婚もこりごりだと、そう思うようになっていたのだから。


 でも、父は父なりに、私のことを愛していたと、そういうことなのだろうか。正直気持ちが悪くてたまらない。ただ、嬉しいという気持ちも確かにある。認めたくないけれど。


 ぐっと眉間にしわを寄せ、くしゃりと髪をかき回す。全く、何てことだろう。父の不器用さに、呆れずにはいられない。


 ある日突然、一方的に結婚許可証を突きつけるような無茶苦茶をするのではなく、これこれこんな訳でこんな方との婚約が決まったよと、そう言ってくれさえすれば。


 そうすれば私は、あんな風に逃げたりしなかったかもしれないのに。


 ……ああ、でも。もし私がそのままエミールに嫁いでいたら、セルジュが義理の息子になってしまう。やっぱりそれはちょっと、複雑だ。


 延々と物思いにふけっていたら、エミールがまた口を開いた。


「やがて、このブローチが完成しました。けれど今もなお、リュシエンヌさんは行方不明のままです」


 エミールがおかしそうな目でちらりと私を見て、けれどそ知らぬ顔で話し続ける。


「バルニエ伯爵は、悩んだようです。そうして彼は、このブローチを私のところによこしてきました。娘が見つかったら、必ずそちらに連れていきます。そのブローチは、その時まで預かっていてください、と」


 その言葉に、また別の思いがちくちくと心を刺した。たぶんこれは、罪悪感、かな。


 押し付けられた結婚から逃げると決めた時、父の心配はこれっぽっちもしていなかった。あれだけひどい人間なのだし、ちょっとは痛い目を見ればいいんだ。むしろ、そんな風に考えていた。


 でも今、その考えが揺らぎ始めていた。


 エミールの厚意。とんでもない縁組から私を救い、自由にしてやろうという、そんな心遣いを踏みにじってしまったから。


 セルジュの信頼。私のことをもっと知りたい、そのためにもっと一緒に過ごしたいという友情を裏切っているから。


 そして、父の思い。どうやら私はずっと、それを知らずにいたらしい。逃げるよりも前に、それこそ力ずくで縛り上げてでも、腹を割って話すべきだったのかな。


 自由に生きたいという、その思いは今でも変わらない。でももっと、他にやりようがあったのではないかと、そんな気がしてきたのだ。具体的にどうすればよかったのかまでは分からないけれど、それでも。


 うつむいてぎゅっと唇をかみしめていると、向かいのエミールがいたずらっぽく言った。


「ところでそのブローチですが、落ち着いた雰囲気の品ですし、男性でも使えそうですね」


 ぼんやりと、手の中にあるブローチに視線を落とす。それは私の迷いなんて無視するかのように、きらきらと品の良い輝きを放っていた。


「そういうことですので、それは君が持っていてください。せっかくですから、身につけてみてはいかがでしょうか」


 少しためらってから、ブローチをえりに留めてみる。視界の端できらきらと輝く銀と青が、不思議なくらいにしっくりくるのを感じていた。


「思った通り、よく似合っています。……これで、君を呼んだ一つ目の用件が片付きました」


「一つ目、ですか?」


「はい。実は、君に折り入って頼みたいことがあるのです。図々しいと、承知の上で」


 エミールが険しい顔をして、目を伏せる。いつも冷静な彼がこんな顔をするなんて、その頼み事とやらは、よほど重大な話なのかな。


「……セルジュを、見守っていてはもらえませんか」

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