第13話 私が強くなれたのは
裏路地の入り口を離れ、そのまま急ぎ足でひたすらに進む。お互い、無言のまま。そうして治安のいい区画までやってきたところで、セルジュが唐突に尋ねてきた。
「ところで、リュシアン。さっきの戦い方はどこで身につけたんだ? あの武器は狩人のものと似ていた気がするが……お前は狩人の子には見えないし」
どうやら彼は、ずっと気になっていたらしい。今までで一番、興味深そうな顔をしている。何だか子供みたいだなあとこっそり苦笑しつつ、語って聞かせることにした。
「僕は子供の頃に、訳あって家を抜け出したんだ。そうして、年老いた狩人と出会った」
道端の木のそばで立ち止まって、さらに話す。懐かしさを感じながら。
「それ以来、僕は彼のところに通うようになった。そうして、様々なことを教えてもらったんだ。彼は僕を支えてくれた、大切な恩人なんだよ」
あれは、私が九歳の時のことだった。私のもとに、お母様からの手紙がひそかに届けられたのは。
お母様は私が赤子の頃に亡くなったと、そう聞かされていた。なのにそのお母様が実は生きていて、しかも隣国ソナートの王妃になっている。そんな手紙の内容に、ただ混乱することしかできなかった。
私には、相談できる相手はいなかった。父との仲は既に冷え切っていた。私を箱入り娘として育てようとやっきになっている父のやり方は、ひどく息苦しいものだったから。
お母様に会いたい。でもきっと、この手紙を父に見せてはいけない。子供心にそう悟った私は、どうしようもなくなって屋敷を飛び出した。手紙をしっかりと、胸元に抱えたまま。
そのまま近くの森に駆け込んで、何も考えずにめちゃくちゃに走って。
そうしたら、いきなり目の前が開けた。森の奥、木々に囲まれた小さな空き地に、彼はいた。ふわふわでたっぷりとした真っ白なひげが目を引く、優しそうな老人だった。
彼は突然現れた貴族の少女に驚いているようだったけれど、私に薬草茶を勧めてくれて、静かに私の話を聞いていてくれた。
そうやって胸の内で渦巻いているものを吐き出していたら、ようやく考えがまとまってきた。
返事を書こう。お母様は手紙の中で、返事を出す時はこうすればいいと助言してくれていた。そうやってお母様とこっそりやり取りしながら、時を待とう。父のもとを逃げ出して、お母様のところに向かうことができる、その日を。
だから彼に礼を言って、屋敷に戻ることにした。彼は穏やかに笑いながら、帰り道を教えてくれた。
それからというもの、私はその空き地に足しげく通うようになった。彼はいつも、穏やかな笑顔で出迎えてくれた。そのたびに、ほっとするものを感じていた。
彼はティグリスという名と、狩人であること以外何も明かしてくれなかった。けれど彼は私に、様々な知識や技術を教えてくれたのだ。
身の守り方。旅の仕方。野山で食料を得る方法。私が次々と物事を覚えていくのが楽しかったのか、彼は野で生きていくのに必要な事柄を、惜しみなく伝えてくれた。
その中には、ロープ一本で崖やら木やらを上り下りする方法なんかもあった。先だっての大脱走が成功したのも、彼のおかげだ。
「でも彼は……ティグリスおじさんは、数年前に突然いなくなってしまった。でもそれからも、僕は彼に教えられた通りに鍛錬を続けているんだ」
彼はある日、ぱったりと姿を消してしまったのだ。何度あの空き地を訪ねても、もうあの笑顔には出会えなかった。あの時のことを思い出すと、今でも寂しさに苦しくなる。
もしかしたら彼は、年を取って狩人暮らしが辛くなったので、どこかの町に移住してのんびりと暮らしているのかもしれない。そう自分に言い聞かせて、無理やり納得することにした。あの頃の私には、彼を探しにいくことはできなかったから。
だから婚礼から逃げ出すことを決めた時、ちょっと期待していた。バルニエの屋敷を離れてあちこち旅をすれば、また彼に会えるかもしれないって。まさか、こんなところで足止めをくらうなんて、思いもしなかったけれど。
私の話を聞き終えたセルジュは、しみじみと、とても優しい声で言った。
「そうだったのか。……お前は、いい師にめぐりあえたんだな」
「うん。ティグリスおじさんがいなかったら、今の僕はないよ」
「しかしついでに、お前の軽いところも治しておいてもらったほうがよかったんじゃないか?」
「あはは、さすがにそれは無理だよ。おじさん、割と大らかな人だったし」
冗談なのか本気なのか分からないセルジュの言葉を、軽くかわして笑う。それから、ちょっと声をひそめて、静かに付け加えた。
「……お母様以外で、僕が彼のことを話すのは、君が初めてなんだ。内緒にしておいてもらえると嬉しい」
「ああ、構わない。……他者に知られると、何かまずいことでもあるのか?」
「ないよ。ただ、おじさんとの思い出はずっと、僕の心の中だけにしまっていたから……今さら、他人に不用意に踏み荒らされたくない。そんなところかな」
その言葉に、セルジュは妙に真剣な、重々しい表情でうなずいていた。彼のこの生真面目なところが、今はとてもありがたかった。
それからもうしばらく町をぶらぶらして、エミールの屋敷に戻る。離れでのんびりしていたら、メイドが夕食だと呼びにきた。そうして、私とセルジュ、エミールの三人で夕食の席につく。
食卓は、恐ろしいほどに静かだった。何となくそんな気がしていたけれど、エミールは無駄口を叩かない、というより世間話すらほとんどしない人物のようだった。とても美しい仕草で、黙々と料理を口に運んでいる。
そしてセルジュは、見事なまでの仏頂面だった。昼間とは大違いのその態度は、おそらくエミールがいるせいだろう。亡き母の思い出をないがしろにした父親を、彼は許せずにいる。
私もちょっと……かなり複雑な家庭で生まれ育ってるし、セルジュの気持ちも分からなくもないかも。
ただエミールは、うちの父よりはましなんじゃないかという気がする。彼は彼なりに、何か考えがあってのことなのではないかという気もする。
しかしそれを確かめようとすると、必然的にエミールに近づくことになる訳で……そうすると、私がリュシエンヌだとばれる危険性も上がる訳で……。
確かめてみたいなという気持ちと、これ以上危険を冒せないという思いとの間でゆらゆら揺れていたら、いつの間にか食事が終わっていた。
食後は急いで離れに戻り、湯を使う。セルジュの母が静養するために建てられたというだけあって、ここは浴室もきちんとしたものだった。
ただ当然ながら、メイドに手伝わせる訳にはいかない。そんなことをしたら、男装しているのがばれてしまう。恥ずかしいからとか何とか理由をつけて、一人でぱぱっと入浴を済ませる。
体形を隠す革の下着は脱いで、代わりにさっと布を巻き、胸のふくらみを隠す。寝間着はゆったりしているから、これでも十分ごまかせる。
大急ぎで寝室に飛び込み、鍵をかけた。荷物の中から銀の手鏡を取り出して、窓の外に目をやる。
「月が昇ってきた……そろそろかな」
そうつぶやいた時、手鏡の表面が淡く光った。さっきまで私の顔が映っていたそこに、別の人物の姿が現れる。
『こんばんは、リュシエンヌ』
軽やかで優しい女性の声が、鏡の中から聞こえてきた。
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