第2章 聖女様がやってきた

第10話 知らない町をふらふらと

 こうして私は、本来結婚させられるはずだったエミール・マリオットのところに、客人として滞在することになってしまったのだった。あれだけ必死に逃げたにもかかわらず。


 しかも、伯爵令嬢リュシエンヌ・バルニエとしてではなく、ただの旅の青年リュシアンとして。とどめに、私には『聖女』だなんて謎の肩書がくっついた。男装してるのに。


 こんなことになるなんて、誰が想像しただろうか。


 私がたまたま知っていた洞窟の出口が、よりにもよってマリオットの屋敷のあるイグリーズの町の近くにつながっていた。


 さらに私は、聖女を迎えるための祭壇の上に飛び出してしまった。そのせいで、私はこっそりその場を立ち去ることすらできず、結果として現状に至る。


 ……こうして思い返してみても、あり得ない。どうかしてる。何なの、この偶然。


 マリオットの屋敷の離れで一人、ため息をつく。


 さすがにセルジュのお母様が寝起きしていた部屋を使うのは忍びなかったので、他の部屋に泊まることにした。そう申し出たら、セルジュは泣き笑いのような顔で一言、ありがとう、と言っていた。あんな顔もできるんだなと、思い出すたびにちょっと落ち着かない。


 色々ともやもやしつつ、寝台に横たわる。私はしょっちゅうバルニエの屋敷を抜け出していたけれど、さすがに外泊したことはない。


 知らない部屋の、知らない寝床。緊張してしまって、眠れそうにない……と思ったのだけれど、気づけば眠りに落ちていた。


 たぶん、慣れない崖下りやらエミールとの顔合わせなんかで疲れていたのだと思う。自分の人生で一番刺激的な一日だったし。


 次の朝、とてもさわやかな気分で目覚め、大急ぎで男装して、運んでもらった朝食をきれいに完食する。さほど豪華ではないけれど、とてもおいしかった。


「……外出は止められてなかったし、遊びにいくなら噂が広がる前の、今のうちだよね」


 そんなことをつぶやきつつ、屋敷を抜け出す。堂々と出ていってもいいのだけれど、何となくこそこそと。


 さて、せっかく知らない町に来たことだし、どっちに行ってみようかな。何があるのかな。


 そう、わくわくしていたのだけれど。


「……あのさ、どうして君がついてきてるのかな?」


「父さんの命令だ。イグリーズは治安がいいが、それでも足を踏み入れないほうがいいところもある。お前が町に慣れるまでは、ついていてやれと言われた」


 屋敷の門を出てすぐに、セルジュが追いかけてきたのだ。たいそう不服そうな顔で。


「女子供じゃないんだし、そこまで過保護にしなくても大丈夫だってば。あと、その眉間のしわは何とかしたほうがいいよ。怖い」


「これは生まれつきだ。それはそうとして、お前は細身でか弱そうだからな……おまけにやたらと美しい。男とは言え、良からぬ気を起こす馬鹿がいないとも限らない」


「ふうん、セルジュは僕のこと、そんな風に見てるんだ?」


 生真面目にそんなことを語るセルジュを見上げつつ、流し目を送ってみた。そうしたら彼は、真っ赤になって首をぶんぶんと横に振り始めた。ちょっとからかっただけでこの反応、面白い。


「お、俺は一般論を述べたまでだ! 男をそんな目で見る訳ないだろう!」


「……だったら、女装して迫ったらどうなるかなあ」


「頼むから止めてくれ! どうしていいか分からん!」


 どうやらセルジュは、見た目通りの堅物のようだった。いっそ気持ちがいいくらいに女性慣れしていない。


 もし私がエミールのところに素直に嫁いできていたなら、たぶん口もきいてもらえなかったんだろうなと、そんな気がした。実母との思い出を巡って、エミールに思うところもあるようだし。


「ごめんごめん、からかい過ぎた。せっかくだから、町を案内してもらえるかな」


「これ以上、からかわないと約束するのなら」


 セルジュに謝って、二人一緒にぶらぶらと歩いていく。すると通りすがりの町人たちが、次々と声をかけてきた。


「あっ、セルジュ様だ! おはようございます! そっちのお兄ちゃんも、おはよう!」


「おはようございます、セルジュ様、それと……ご友人の方」


 元気に走っている子供たちに、散歩中らしい老人。昨日も思ったけれど、彼は町の人たちに慕われているようだった。頼りにされている、といった感じかも。


 こちらからも挨拶を返していると、今度は華やいだ声が聞こえてきた。買い物帰りらしい若い女性たちだ。私のことが気になっているのか、ちらちらと視線を向けてくる。


 やはり女性は苦手なのかちょっぴり腰が引けているセルジュを置いて、すっと進み出る。そうして、彼女たちに笑顔で話しかけた。


「こんにちは、素敵なお嬢さんたち。僕はリュシアン。旅人だよ。訳あって、マリオット様のところに滞在してるんだ」


 そう名乗ると、女性たちがきゃあと歓声を上げた。ごく普通にふるまっているつもりなのだけれど、なぜか男装した私はルスタの女性たちに気に入られていた。どうやら、ここでも同じらしい。


「僕、このイグリーズのことはろくに知らないんだ。よかったら色々教えてくれないかな?」


 ルスタの町をぶらぶらしていた頃、よくこうやって女性たちに声をかけた。そうして一緒にお茶を飲んだりおやつを食べながら、ゆったりと談笑していたものだ。とても楽しいひと時だった。


 そしてその時間は私にとって、貴重な情報収集の機会でもあった。


 父は、私を箱入り娘に育て上げようとしていた。余計な情報を与えないことで、余計なことを考えない、従順な娘となるようだろうと考えていたのだ。


 そのせいで、私は友人を作ることもできなかったし、令嬢たちのお喋りの場に出ていくこともほとんどなかった。


 もっとも私はといえば、たまたま出会った狩人から様々な技術を学び、脱走と男装の名人になっていたのだけれど。


 そうしてこっそりルスタの町を歩いて、人々の話に耳を傾けた。ちょっとした噂話をかき集めて、つなぎ合わせて。ようやく私は、レシタル王国のとんでもない現状や、貴族たちの動きなどを知ることができたのだ。


 ここイグリーズでなら、また違った情報が得られるかもしれない。そう考えたのだけれど、彼女たちはちょっと意外な反応を見せた。


 彼女たちは困ったような顔を見合わせると、ちらりと私の背後に目をやった。そうして中の一人が、申し訳なさそうに口を開く。


「……その、リュシアンさんはセルジュ様のお連れ……なんですよね。セルジュ様って、女性は苦手ですから……」


 なんと、遠回しに断られてしまった。しかもセルジュのせいで。


「ああ、気にしないで。君たちみたいな素敵な子たちとこうやって話せただけで、僕は満足だから。また機会があれば、その時はよろしくね」


 残念な気持ちを隠して軽やかにそう言うと、彼女たちはほっとしたような顔になってうなずいた。はい、また今度ご一緒させてくださいと、そんな言葉を口にして。


 彼女たちに手を振って、セルジュと一緒にその場を離れる。しばらく進んだところで、先にセルジュが話しかけてきた。


「……おい、リュシアン。今のはなんだ。やけに甘ったるい声を出したりして」


「何って、あの子たちと一緒にお茶がしたかっただけだよ。お茶やおやつを一緒に食べながら、話に花を咲かせる。とっても楽しいよ。僕の趣味の一つだね」


「…………趣味……?」


 しかし私の言葉を聞いたセルジュは呆然とした顔で、あらぬ方を見つめている。相当衝撃を受けたようだ。


 まあ、それも仕方がないか。私としては、女の子同士のお喋り……のつもりだけれど、はたから見れば、女性をたらしこんでいる優男、にしか見えないだろうし。


「……駄目だ、いくら考えても理解できない。だがひとまず、俺がついている間は、ああいったふるまいは控えてくれ」


「けち」


「……すねても、譲らんぞ。だいたい話がしたいのなら、俺に話しかければいいだろうが」


「でもセルジュ、話とか苦手だろ。付き合いの浅い僕にも分かるよ」


「……まあ、そうだが……努力する。手始めに……何か、聞きたいことはあるか?」


 深々とため息をつきつつ、セルジュがそう申し出てくれた。聞きたいこと。たくさんあるけれど、まずは。


「だったらこの機会に、聖女のことをもっと教えてほしいな。噂になっちゃう前に、きちんと知っておきたいんだ。でないと、色々困りそうな気がするし」


 私は絶対に、聖女ではない。自信はある。でもきっと、町の人たちは私のことを聖女だと認めてしまうのだろう。


 そうなった時にどうふるまうか、どの辺りでここを逃げ出すのか。そういったことを判断するためにも、聖女についての情報は必要だ。


「……分かった。長い話になるし、どこかに腰を落ち着けよう。……俺では、女性たちのように楽しく談話とはいかないだろうが、我慢しろ」


 生真面目にそう言って、セルジュは歩き出す。彼と二人でお喋りというのも案外悪くはないかもしれないな、などと思いながら、すぐ隣を歩いていた。

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