第9話 セルジュは思い悩む

 そうしてセルジュと二人、エミールの執務室を出る。


 エミールは話が済んだとたんまた仕事に戻ってしまい、退室していく私たちのほうを見ようともしなかった。どうも彼は少々……かなり変わった人らしい。


 扉を閉めて廊下に出るなり、セルジュが深々とため息をついた。


「父さんの物言いが分かりにくくてすまない。頭は恐ろしいくらいに切れるんだが、他人への配慮に少々欠けるところがあるんだ」


 確かに、エミールの物言いに驚いたのは事実だ。ただ私が戸惑っていたのは、うっかりリュシエンヌだとばれたらどうしようと焦っていたからでもあるけれど。


「みんなが自分と同じくらいに物事を理解し、察することができると本気で信じている、そんな節があって」


 そうしてセルジュは、深々と頭を下げてきた。侯爵家の跡継ぎが、ただの旅人に頭を下げる。そんなあり得ない状況に思いっきりあわてながら、急いで言葉を返す。


「わっ、分かったから頭を上げてよ、君が悪いんじゃないから」


 ゆっくりと頭を上げたセルジュは、とても難しい顔をしていた。


「だがこちらの事情で、面倒なことにつき合わせてしまうことになったのは事実だろう。お前ができるだけ過ごしやすいように、俺も協力する」


「ありがとう。それと……これからよろしく、セルジュ。何だか、長い付き合いになりそうな気がするし」


 苦笑しながら、右手を差し出してみる。普通の貴族なら、ただの旅人に握手を求められたとしても無視するか、会釈で返す。


「ああ、よろしく」


 けれどセルジュはためらいなく、私の手をしっかりと握り返した。


 さっきの謝罪といい、この握手といい、彼もちょっと変わっているかもしれない。でもそんなところが、好ましく思える。だいたい変わり者だというなら、私も人のことは言えない。一応、自覚はある。


「では、屋敷を案内しようか。……そこまで面白いものでもないとは思うが」


 それから、セルジュの案内で屋敷の中を見て回ることになった。エミールとの面会をどうにかこうにか乗り切ったということもあって、私はすっかりくつろいだ気分で歩いていた。


 ……彼は律儀なのか、厨房や倉庫なんかもしっかりと案内してくれた。なんと彼の私室も見せてくれたのだ。ちょっとだけだけど。


 そうして母屋を見て回り、中庭に出る。ここもきちんと手入れがされていて、しゃれた木のベンチが日だまりの中に置かれていた。


 ベンチの隣には大きな木が植えられていて、今は葉を落とし枝だけになった姿をさらしている。夏になったら、木陰の下でくつろげそうだ。


 そして中庭の奥には、明るい林が広がっていた。セルジュがそちらを向いて、低くつぶやく。


「……これからお前が暮らす離れは……あの林の中にある。こちらだ」


 やけにこわばった声に、思わず目を見張る。顔は怖いけれど意外と朗らかな彼の背中は、問いかけを拒んでいるように見えた。


 彼はそれ以上何も言わずに、林の小道へと進んでいく。急に変わってしまった態度に戸惑いながら、その後を追いかけた。


 そうして、そっとため息をもらした。この林、ぱっと見は自然のままなのに、よく見るとかなり手が入れられている。季節ごとに様々な花が咲く木が植えられていて、一年を通して様々な姿を楽しめるようになっているのだ。


 自然の伸びやかさを失わずに、かつその美しさを最大限に活かす。この林は、そんな場所だった。


 やがて、離れにたどり着いた。屋敷の母屋よりも明らかに新しい、そしてどこか優美で女性的な雰囲気の、けれどやはり趣味のいい建物だ。


 離れの前に立ち、セルジュが辺りを見渡す。


「……ここは普通の林に見えるが、屋敷の敷地の中だ。柵もあるし、警備もされている。だから不審者が入り込むことはない。野のウサギなどがよく顔を見せてはいるが」


「へえ、そうなんだ。表の庭も素敵だけど、僕はこっちのほうが好きだな。そこの黄色い花をつけた木とか、特に。何だか、お日様みたいだよね」


 同じように辺りを見渡して、何の気なしにそんな言葉を返す。するとセルジュは悲しげに顔をゆがませて、ぽつりとつぶやいた。


「……母さんも、そう言っていた。お日様のような花だと」


 私はエミールの後妻になるはずだった。つまりセルジュの母、エミールの最初の妻は、もういない。離縁か、あるいは死別か。セルジュのこの態度からすると、おそらく死別だ。


「……この林は、この離れは、母さんが静養するために作られた場所だったんだ」


 木立に目をやって、セルジュはなおもつぶやいている。


「昔から、母さんは体が弱かった。若くしてマリオットに嫁ぎ、俺を生んだ。そうして、五年前に病で亡くなった。俺が十三の時だった」


 えっ、と声を上げそうになって、あわてて口を押さえる。セルジュ、まだ十八歳だったんだ。私と一つしか違わないんだ。てっきり、もっと年上だと思ってた。


「それ以来ここは、無人のままだった。母さんがいた頃と同じように掃除は欠かさなかったが、ずっとこのままそっとしておかれるのだと思っていた」


 懐かしそうに語っていたセルジュが、不意に凶悪な顔になる。


「なのに、突然客を滞在させるなんて言い出して……それも、迷うことなく……」


「あ、あの、だったら僕、今からでも別のところに移るよ。……そもそも、別にこの屋敷に滞在しなくても、町に宿を取ればいいんだし……」


 あわててそう申し出たら、セルジュは遠い目をして首を横に振った。


「それは危険だ。やがて、聖女の噂が町に広まる。その時、お前が町に泊まっていたらどうなるか、考えてみろ」


 その言葉に、うっかり想像してしまった。


 一軒の宿が、大勢の人たちに取り囲まれてしまっている様を。で、私がうっかり姿を見せようものなら、みんなが一斉に歓声を上げて……駄目だ、想像しただけで寒気がしてきた。


 身震いしながら私が口を閉ざすと、セルジュはこちらを見ることなくため息をついた。


「この離れは、屋敷と同じく柵で守られていて、かつ屋敷とは離れている。お前を置いておくには最適の場所だと、分かってはいる。……だが、やはり納得がいかない」


 彼の声音が、ちょっと変わった。さっきまでの悲しそうなものから、いきどおっているようなものに。


「……そもそも、今回のことだけじゃない。父さんは、今でも母さんのことを思っているのだと、俺はそう信じていた。それが、まさか」


 ぐっとこぶしを握りしめて、セルジュはつぶやく。押し殺したような、そんな声で。


「それなのに、突然親子ほども年の離れた令嬢を後妻に迎えるなんて……俺より年下の義母なんて、冗談じゃない……!」


 彼がこちらを見ていないのをいいことに、こっそりと身震いする。その後妻って、私のことだ。脱走してからまだ半日も経っていないから、私が逃げたことはまだここまで伝わっていないのだろう。


 ……つまり、いずれ「花嫁は湖に落ちた、亡骸は見つかっていない」って知らせがここに来るんだろうな……あの状況からすると、そう判断するほかないだろうから……。


 その知らせを聞いた時、きっとセルジュは思い切り眉間にしわを寄せるんだろう。


 もしかすると、「父さんが縁組なんてするから、こんなことになったんだ!」とか何とか叫びながら、エミールのところに殴りこんでいくかもしれない。この上なく凶悪な顔で。


 セルジュと知り合ってからまだ数時間しか経っていないけど、この予想は当たっている気がする。


 強引に結婚から逃げたことへの後悔が、じわじわとこみ上げてくる。今からでも私が正体を明かせば、派手な親子喧嘩は阻止できる……かもしれない。


 正体を明かして、事情を説明して、エミールを説得して結婚をなかったことにして。きっとそこまでは可能だと思う。


 でもそうすれば、私はまたバルニエの家に連れ戻されてしまうかもしれない。そしてまた、どこか別の家に嫁がされるかもしれない。


 次はもう、同じような手を使って逃げることはできない。きっと、縁談がまとまってから嫁入りまで、絶対に逃げられないよう厳重に監視されるだろう。そうなれば、終わりだ。


 逃げると決めた時に、誰かに迷惑をかけることは想定していた。それを踏み越えてなお、私は自由になると決めたのだ。


 立ち尽くすセルジュを見つめ、心の中だけでそっと謝罪する。


 ごめん、セルジュ。私はやっぱり、まだ自由をあきらめたくない。だからここで、リュシアンとしてしばらく暮らす。そうしていつか、ここを出ていく。わがままだって分かってるけど、これだけは譲れない。


 すぐ近くでは、あの黄色い花が日差しを受けてのびのびと咲いている。ふくよかで優しいその香りを吸い込みながら、そっとこぶしを握りしめた。

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