第8話 エミール・マリオットという人
セルジュの父親にしては、かなり若々しい。エミール・マリオットについて最初に思ったのは、そんなことだった。この感じだと、まだ四十歳にもなっていないかも。
彼は冷静で知的な雰囲気で、息子よりも明るい緑の目をした、目つきの鋭い男性だった。セルジュのあの目力の強さは、父親譲りなのかもしれない。
けれど私を見つめるエミールの目は、とても穏やかなものだった。失礼にならない程度の関心を示しつつも、こちらの心の奥まで見透かしてくるかのような強さを持った、不思議な視線だった。
彼はほとんど表情を変えることなく、やはりゆっくりと口を開いた。
「聖女が降臨、ですか。セルジュがそういうからには、民はそう信じてしまっているのでしょうね」
独り言のようにつぶやいて、それから彼は優雅に会釈する。
「私はエミール・マリオット、ここの主です。どうぞよろしくお願いします」
「……は、はい。その、リュシアン、です。もっとも、僕はただの通りすがりであって、たぶん聖女……ではないと思いますが」
そう答える私の声は、ほんの少しこわばっていた。まあ、ごく普通の旅人が領主と面会することになったら、こういう反応になってもおかしくはない……と思いたい。
ただ、さっきからエミールが探るような目をしているような気がする。どこか怪しいところがあるんだろうか、私。
「なるほど、そうなのですね。……よければ、聞かせてもらえないでしょうか。君がセルジュに連れられてここに来ることになった、そのいきさつについて」
エミールの声はやはり淡々としていたし、その表情は変わらない。けれど彼と接していると、不思議と落ち着く。何というか、ほっとするのだ。
セルジュとエミール。この親子は二人そろって、お世辞にも愛想がいいとは言えない。でもなぜか他人の信頼を得ることができる、そういった何かを持っている。
そんなことを考えつつ、さっきセルジュに話したのと同じことをもう一度説明していく。
自分はただ気ままにふらふらしていただけで、あの祭壇に姿を現してしまったのは本当にただの偶然に過ぎないのだと、そこのところを強調しながら。
そこまで話したところで、セルジュが話を引き取った。
ひょっこりと顔を出した私を見て、民たちがどれほど大騒ぎしたのか、大喜びで私を迎え入れたのか。
私たちの話を一通り聞き終えたエミールは、何やら真剣に考え込んでいるようだった。そうやって熟考している様は、さらなる落ち着きと頼もしさを感じさせる。
じっと黙って彼の言葉を待ちながら、頭の中では別のことを考えていた。
彼は、どうして私のことを後妻に迎えようとしようとしたのだろう。
セルジュという立派な跡継ぎがいるのだから、わざわざ後妻を迎え入れて家の中をごたごたさせる必要なんてない。それに、妻に先立たれて寂しい……という感じでもない。
家の格で言うならマリオットのほうがずっと上だし、バルニエとつながりを持つことで得をするようなこともない。うちの家、人脈も名産品も何もないし。
ということは、政略結婚ではない。かといって、恋愛結婚ではもっとない。私、彼のことを知らないし。
どこかで彼が私のことを見初めて……ということならあるかもしれないけれど、彼がそういう甘々な行動に出るところを想像できない。たぶん彼は、もっと理屈っぽい人だ。
エミール・マリオット。知れば知るほど、謎が深まっていく。思ったほど悪い人間だとは思えないけれど、でもその印象すら自信が持てない。
そしてそのせいで、例の噂についてもさらに分からなくなってきた。彼がそんな浅はかなことをするはずがない、という思いと、やるならもっと巧妙にやるだろう、というとんでもない考えとが、次々に浮かんでくるのだ。
ああもう、今考えてもどうしようもない。ひとまず、エミールの出方をうかがおう。そう心を決めたまさにその時、エミールがおもむろに顔を上げ、口を開いた。
「リュシアン君、といいましたか。しばらくの間、ここで暮らしてはもらえませんか」
「……ええと?」
突然そんなことを言われてしまってぽかんとしていたら、セルジュが割り込んできた。
「父さん、リュシアンが困っているだろう。言葉が足りないのは父さんの悪い癖だ。普通の人間は、きちんと説明されないと分からない。俺も含めて」
そうやって父親をたしなめている姿は、どことなく微笑ましい。セルジュは否定していたけれど、やっぱり親子仲はいいのだと思う。
「彼を引き留めるということは、彼は本当に聖女ということなのか? 俺は正直、信じていないんだが……」
その問いに、エミールが答えた。とても静かに、よどみなく。
「ええ、私も信じてはいませんよ。しかし祭りの場にいた民たちは、みな聖女が降臨したと信じ切っています」
ゆったりとした川の流れを思い出させるような話しぶりだった。
「いずれ聖女の噂は、イグリーズ中に広がるでしょう。そして信心深い民たちは、その存在に救いを見出します。……このレシタル王国がこうも不安定なこのご時世では、なおのこと」
このままだと、私がまつりあげられてしまう。そんな嫌な予感がして、とっさに口を挟んだ。
「でも、僕は聖女なんかではありません。救いだなんて言われても、何もできませんが」
するとエミールは、ふっと目を細めて答えてきた。
「君が聖女であろうとなかろうと、関係ないのですよ。重要なのは『聖女が降臨した』と、民がそう信じるであろうということだけなのです」
「信じるであろう、というか、もう信じてしまっているな、あれは」
祭りの時の大騒ぎを思い出しているのだろう、セルジュが凶悪な顔になっていた。それを見て、エミールがかすかに微笑む。
「しかしその噂が広まった時に、リュシアン君が既にこの地を去ってしまっていたら、民はどう思うでしょうか? 聖女は我らを見放したもうたと、そう感じてしまうかもしれません」
彼の言いたいことは、よく分かる。
ここの人たちにとって、聖女という存在がどれほど重要な意味を持つのか、何となくではあるけれど察していた。聖女がいなくなったと知ったら、きっとあの人たちはものすごく悲しむのだろうということも。
考え込む私に、エミールがそっと声をかけてきた。
「君は当てのない旅の途中だと、そう言っていましたね。でしたら、しばらくここに留まっていても構わないのでは?」
「それはまあ、そう……ですが」
よりによって、エミール・マリオットのところに滞在する。いくらなんでも恐ろしすぎる。いつ正体がばれるか分かったものではない。できることなら一刻も早く、イグリーズを離れたい。
そんな本音に引っ張られて言葉を濁していたら、エミールがさらに食い下がってきた。
「私の客人として、可能な限りのもてなしをすると約束しましょう。ですからどうか、お願いできませんか? 私のためではなく、民のために」
彼の声はやはり淡々としていたけれど、そこにはどことなくせっぱつまったような響きがある。
民のためと言われてしまっては、もう断る訳にはいかない。ここで逃げたら人でなしだ。私はもう貴族の娘ではないけれど、それでも困った民たちを見捨てることはできない。
「……そう、ですね。しばらく、ここに滞在するのも悪くはないかもしれません。どうぞ、よろしくお願いします」
神妙に答えながらも、心の中だけで叫ぶ。どうしてこんなことに! 自由になったはずなのに! と。
エミールは私のそんな葛藤に気づいているのかいないのか、ほっとしたように小さく息を吐いた。
「ありがとうございます、リュシアン君。分からないことは、セルジュに聞いてください。セルジュ、屋敷を案内してあげてください。そうですね……離れを、彼に使ってもらいましょうか」
離れ。その言葉を聞いた時、セルジュが一瞬肩をこわばらせたように見えた。けれど彼は何も言わず、ぎこちなくうなずくだけだった。
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