第7話 偶然にしては悪趣味で

 エミール・マリオット。


 ついさっきまで、私はその名前から逃げていた。自由になるために。


 崖を滑り降り、洞窟を抜けて、祭りの祭壇のど真ん中に飛び出して。これだけめちゃくちゃに逃げまくったのだから、もう大丈夫だと思っていた。


 それがまさか、新たな旅立ちの始まり、その一歩目で、蜘蛛の巣のど真ん中に飛び込んでいたなんて。


 偶然にしては悪趣味すぎる。それとも、これは神の意志なのだろうか。何がなんでも私をエミール・マリオットと結婚させるぞ、という。


 いやいや、神なんているはずがない。もしいたとしても、こんな善良な乙女にこんな嫌がらせをするほど性格が悪いはずがない。……それが邪神でなければ、だけど。


 つまりこれは、ただの偶然だ。最悪の偶然だけど。


 イグリーズって名前に聞き覚えがあるなって、さっきからうっすらそう感じていた。そして今頃になって思い出した。逃げる計画を立てている時に、地図で見たんだ。


 マリオット領イグリーズ。マリオットの当主は、代々そこで暮らし領地を治めている。ああ、もう一時間、いや三十分前に思い出していれば。そうすれば、あれこれ理由をつけて逃げ出せたのに。


 でもここまで来てしまったら、もうどうしようもない。連れが普通の男性なら、殴って縛って逃げ出すこともできただろう。ちょうど、リュックに縄も入ってるし。


 けれど……セルジュには勝てない。見たら分かる。実戦経験なんてほとんどない私にも分かる。彼に立ち向かったら、一瞬で取り押さえられて終わりだ。だってこの人、隙がなさすぎるから。


 ……覚悟を決めて、エミール・マリオットに会うしかなさそうだ。私がリュシエンヌ・バルニエだとばれなければ、何とかなる。その可能性に賭けるしかない。


「おい、どうしたリュシアン。顔色が悪いぞ」


「……ちょっと緊張してきただけだよ。いよいよ領主様に会うんだな、って実感しちゃって」


 とっさにごまかしたその時、さらに余計なことを思い出した。マリオット侯爵は、こっそりと人を集めている。おそらくは、レシタル王に反乱を起こすために。ルスタの町では、そう噂されていた。


「領主様、なんて身構えなくてもいい。父さんは領地を切り盛りしているだけの、雑用係のようなものだから」


 セルジュのその言葉に、さらに考え込んでしまう。


 イグリーズの町は、ルスタの町に比べてずっと平和で、笑顔にあふれていた。エミール・マリオットは、少なくとも統治の腕は確かなのだろう。きっと日々、勤勉に働いているのだと思う。息子が割と真面目な顔で、雑用係呼ばわりするほどに。


 それほどの領主が、わざわざこの平和を乱すような真似をするだろうか。ルスタの町に伝わったあの噂は、根も葉もないものなのだろうか。


「本当に大丈夫か? 体調が悪いのなら、少し休むか?」


 考え込んでいるうちに、足が止まってしまっていたらしい。セルジュが身をかがめ、私の顔をのぞき込んできた。


「大丈夫。ありがとう。……セルジュは、お父さんのことを尊敬しているみたいだね。雑用係だなんて言ってたけど、なんか誇らしげだった」


 ふとそう付け加えたら、彼の様子が変わった。心配そうに私を見ていた顔が、ぐっとしかめられる。最初に会った時を彷彿とさせる、凶悪な表情だ。


 顔立ちがはっきりしていて力強い雰囲気の男前な分、凄味が出るんだろうな。この顔を見るのも二度目ということもあって、冷静にそんなことを考えてしまう。


 侯爵の息子ということは、彼も貴族だ。あんまりそれっぽくないので、気楽に接していたけれど。だったらこの顔、どうにかしたほうがいいと思う。私はともかく、普通の令嬢がこれを見たら悲鳴を上げかねない。


「……あのさ。顔、かなり怖いよ」


 小声で告げると、セルジュがはっと真顔になって額に手を当てた。あ、ようやく怖くなくなった。


「……どうやら僕、余計なことを言ったみたいだね。さっきのは忘れて」


 セルジュは父親のことを好いているように感じたのに、尊敬しているのかと指摘したとたんにこうなった。色々複雑な事情があるのかもと思ったせいか、ちょっと彼に親近感がわいてしまった。


「いや、俺のほうこそ……みっともないところを見せた。忘れてくれ」


 そうこうしているうちに、マリオットの屋敷のすぐ前までたどり着いた。門番が人懐っこい笑顔をこちらに向けて、のんびりとした動きで門を開ける。


「おかえりなさいませ、セルジュ様! そちらはお客人ですか? ようこそ、マリオットの屋敷へ!」


 正体不明の青年でしかない私に、門番は朗らかに声をかけてきた。とっても友好的だ。普通は、もうちょっと警戒するものだと思う。領主の息子が一緒とはいえ、こんな応対をされるとは思わなかった。


 ……どんどん訳が分からなくなっていく。首をかしげながら、マリオットの屋敷に足を踏み入れた。


 ここに、私の夫になっていたかもしれない人がいる。


 花嫁衣裳を着てここにたどり着き、婚姻許可証に二人一緒にサインをしたら、私と彼は正式に夫婦になっていた。


 けれど今、私はリュシアンとしてここにいる。しかも聖女だか何だか、謎の騒動に巻き込まれて。


 こんなことになるなんて。つくづく、ついてない。前を行くセルジュの背中を見ながら、こっそりため息を噛み殺す。


 そうやって廊下を歩いていたら、仕事の途中らしいメイドたちと行き合った。彼女たちはすっと壁際に退いて、おっとりと微笑みながら上品に頭を下げている。


 門番に、メイド。みな心穏やかに過ごしているのが一目で分かるたたずまいだった。


 それだけではない。歴史を感じさせながらもよく手入れの行き届いた建物に、冬の可憐な花々がひっそりと、しかし生き生きと咲き誇る庭。


 ここは、素敵な場所のように思える。生まれ育ったバルニエの屋敷より、ずっとずっと。


 ……やっぱりあの噂って、根も葉もないものだったんじゃ……あそこまで必死に、逃げなくてもよかったんじゃ……。


 そんな考えがふと浮かんで、ぶんぶんと首を振って否定する。


 私が逃げたのは、自由になるため。バルニエの家から、貴族の娘であるという立場から、そしてお母様を一度は不幸のどん底に追い込んだ、結婚というものから。


 その思いは、揺らいでいない。嫁ぎ先がちょっとよさそうなところだったからって、心変わりすることはない。


 ……だいたい、後妻だっていうのは聞いてたけど、こんなに大きな連れ子がいるとか聞いてないし。父め、わざと黙ってたな。


「リュシアン、着いたぞ。ここが父さんの執務室だ」


 こっそりと腹を立てていたら、セルジュの声がした。我に返って辺りを見渡すと、私たちの目の前には豪華な扉があった。


 いよいよ、エミール・マリオットとの顔合わせだ……と覚悟を決めようとしていたら、セルジュがいきなり扉を叩いた。


「父さん、俺だ」


 そして彼は中からの返事を待つことなく扉を開け、そのままずかずかと部屋に入っていってしまう。


 一瞬ぽかんとして、急いで後を追いかけた。失礼します、と小声で言いながら。


 室内は、意外に質素だった。飾り物のたぐいはほとんどなく、大きな本棚が壁際にずらりと並んでいる。


 その本棚に囲まれるようにして、大きな机が置かれている。その上には、大量の書類が山を作っていた。


 そしてその大机で、男性が淡々と書き物をしている。彼がエミール・マリオットだろう。下を向いているせいで、落ち着いた栗色の髪をしていること以外何も分からない。


 手を止めることなく、そして顔を上げることもなく、彼はゆったりと口を開く。思っていたよりもずっと深く豊かな響きの声に、驚いて目を見張った。


「セルジュ、私が返事をするまで待っていてくださいといつも言っているでしょう。今は仕事の途中なのですから」


「どのみち父さんは仕事を止めないから、どちらでも同じだろう」


「ふむ、言われてみれば、確かにそうですね。それで、何の用でしょうか。どうやらどなたかを連れてきているようですが」


 エミールはやはり顔を上げることなく、淡々と尋ねている。そんな彼に、セルジュがいらだたしげに息を吐く。そうして、ぶっきらぼうに答えた。


「……聖女が降臨したから連れてきた」


 その言葉に、エミールの手が止まる。彼はそのまま固まっていたけれど、唐突に顔を上げた。その視線が、まっすぐ私に向けられる。


 私とエミールは、そのまま無言で見つめ合っていた。

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