第5話 状況がまるで分からない
洞窟を出たところにあった、謎の木の壁。そこに空いていた穴をくぐった先にいた、着飾った人々。
彼らは今、声の限りに叫んでいた。やったあ、わあい、ひゃっほう、などと。嬉しくて嬉しくてたまらない、そんな思いに突き動かされているような叫びだった。
それだけならいいのだけれど、彼らの視線はひたすらに私に注がれている。しかも彼らは、なぜか私を聖女様とか何とか、そんな風に呼んでいる。
私は今きっちりと男装しているのに、聖女様って……まさか、女だとばれてしまったのだろうか。
戸惑いながら、辺りを見渡す。今私がいるのは、木でできた大きな舞台のような場所だった。辺りには、まだ真新しい木の匂いがする。
真四角のこの舞台は、大きさはバルニエの玄関ホールくらいあって、高さは少年の身長くらい。正面と左右には、下の草原に上り下りするための階段が作られている。
私の背後、奥側にはやはり大きな壁がそびえている。その壁にぽっかりと空いているあの穴を通って、私はここに出てきてしまったのだ。
そして人々は、この舞台を囲んで祭りか何かを開いていたらしい。祭壇の下の草原にたくさんの机が並べられ、食べ物や飲み物が並べられているのがここからでもよく見える。
そんなことを考えつつ、もう一度舞台を眺める。……どちらかというと、舞台というより祭壇といったほうが正しいかも。とても念入りに飾り付けられていて、華やかなのに清らかな雰囲気が漂っている気がする。
祭壇を彩るのは、ややつたないながらも丁寧に、思いを込めて描かれたことが一目で分かる絵の数々、素朴な布をせっせと縫って作られたであろうリボン。それに、冬でも咲く花々。
私が出てきた穴、というより飾り窓は、特に念入りに飾り立てられていた。赤い実をつけた木の枝や柔らかな幅広のリボン、それに風に揺れてちりちりと鳴る小さな金属の飾り。他よりも上等で愛らしい、そんなあれこれが窓枠を囲むように取りつけられていた。
「あの、これって何の祭り、ですか……」
そろそろと周囲の人たちに呼びかけると、みんなが同時にぴたりと動きを止め、こちらを向いた。そうして次の瞬間、一斉に私を取り囲んでくる。
人々はなおも楽しげに叫びながら、私を拝まんばかりにしている。いや、本当に拝んでいる人もいるんだけど。感極まったように泣き出す人まで。え、何で。
どうしよう。状況がまるで分からない。とにかく一度、この人たちに落ち着いてもらわないと。
困りつつ口を開こうとした時、離れたところから声が聞こえてきた。この大騒ぎの中でもしっかりと通る、力強くて頼もしい雰囲気の声だった。
「おい、どうしたんだ。聖女がどうとか聞こえたが。何があった」
大喜びしていた人々が、ぴたりと黙って声がしたほうを見た。つられて私も、そちらを向く。祭壇の階段を、きびきびとした足取りで誰かが上ってくるのが見えた。
燃えるような赤毛に、初夏の森のような濃い緑の目をした、すらりと背の高い青年だった。たぶん、私よりいくつか年上だろう。
意志の強そうな、中々の美男子だった。目元がくっきりした凛々しい顔立ちに、不思議なくらい視線が吸い寄せられる。
さっきの物言いといい、この気品のあるたたずまいといい、彼は貴族なのかもしれない。着ている物も、周囲の人たちより質がいいし。
ただ彼は、とにかく目つきが悪かった。しかもご丁寧に、眉間にしわまで寄せている。明らかに、不機嫌そのものだった。気の弱い人間なら、ひとにらみされただけで震え上がってしまうだろう。
彼は人をかき分け、私のすぐ前までやってきた。とても背が高い。私も女性にしては背の高いほうだけれど、彼は私よりもずっと大きかった。
感心しながら見上げると、彼は不機嫌な顔のままこちらを見返してくる。
しかし私の周囲の人々は、そんな彼にまったくひるんでいないようだった。浮かれた口調で、てんでに彼に話しかけている。
「聞いてくださいよ、セルジュ様!」
「最高の知らせですよ。聖女様が降臨されたんです。ほら、こちらの方です」
「ここ何十年、聖女様はおいでにならなくて……それでもこの祭りを一生懸命に続けたかいがありましたよ……死んだばあさんが聞いたら、泣いて喜びますよ……ううっ」
「ええ、ええ。そこの祭壇の飾り窓から、ふわりと降り立たれたんですよ。あの神々しいお姿、セルジュ様にも見ていただきたかった」
セルジュと呼ばれた赤毛の青年は、無言で人々の話に耳を傾けていたけれど、突然こちらをにらみつけてきた。気の弱い令嬢なら、それだけで気絶しそうな表情だ。どう考えても、初対面の相手に投げかける視線ではない。
「……おい。お前、名前は」
「リュシアン。通りすがりの、ただの旅人だよ。君はセルジュ……でいいのかな」
「ああ。すまない、名乗るのを忘れていた。それでリュシアン、お前はどうしてここにいる。その飾り窓から現れたというのは本当か」
セルジュの声が、どんどん低くなっている。怖い顔だなあと冷静に分析しながら、できるだけいつものリュシアンらしく答える。明るく、軽く。
「う、うん。僕はすぐそこの洞窟の中を探索してたんだ。で、外に出ようとしたら、洞窟の前に木の壁が立ちふさがってて……仕方ないからよじ登って、そこの飾り窓をくぐって出てきた。それだけ」
婚礼から逃げるために、花嫁衣裳で崖を滑り落ちてきたなんてことは口が裂けても言えない。
だから、こんな風に答えるしかないのだけれど……いつ洞窟に入ったんだとか、中で何をしてたんだとか、色々聞かれそう。さて、どうやってごまかそうかな。
案の定、セルジュは難しい顔をして首をかしげていた。
「洞窟? この辺りに、そんなものがあったか?」
え、まずそこが問題になるの? と口に出しそうになって、ぐっとこらえる。
こちら側の出口は、草原からでもはっきり見える。あれに気づかないはずがない。
「あったよ。現に僕は、ついさっきまでその洞窟を歩いていたんだから」
「……やはり、覚えがない。しかしそんな見え透いた嘘をつく理由もなさそうだが……」
悩むセルジュの後ろで、またみんながわいわいと騒ぎ出した。
「きっとそこは、聖女様にしか見えない、特別な道なんだよ!」
「その道を通って降臨されたんだ!」
「そっちのお兄ちゃん、本当に聖女様なんだね!」
男が『聖女』って、それでいいのだろうか。しかし人々は全く疑問を抱いていないらしく、とっても嬉しそうにはしゃいでいる。私を見つめながら。
歓迎されてるのは分かるのだけれど、ちょっぴり背中がむずむずする。誰でもいいから、聖女について説明して欲しい。
そんなことを考えていたら、セルジュが深々とため息をついた。
「仕方がないな。リュシアン、ちょっと一緒に来てくれ。俺の手には余る」
彼は私を、どこに連れていくつもりだろう。聖女だ聖女だと騒ぐ周りの人たちとは違い、どうも彼だけは私のことをいぶかしんでいるようだった。
どこに連れていかれるのだろう。警戒しながら無言で彼を見つめると、彼はもう一度疲れたように息を吐く。
「心配するな、すぐそこだ。少々、話を聞くだけだ。悪いようにはしない」
「だったら、まあ……」
彼が指しているのは、草原の向こうに見えている町。前に見つけてから、一度行きたいとずっと思っていた町だ。あそこに連れていかれるのなら、まあいいかな。
私が納得したのを見届けると、セルジュは声を張り上げた。
「……みな、聞いてくれ!」
次の瞬間、辺りがしんと静まり返った。みんな、ちょっぴりわくわくした顔でセルジュに注目している。彼らはセルジュを慕っているんだなと、一目で分かる態度だった。
「突然現れたこの青年は、聖女かもしれないし聖女ではないかもしれない。これから彼を父のもとに連れていき、状況を再確認しようと思う」
父……もしかして、あの町の隣にある屋敷の主かな。
「いずれ、何らかの形でこの件について知らせる。だがそれまでは、ここで起こったことも、彼のことも黙っていてくれ。一歩間違うと、大混乱になりかねない」
セルジュの言葉に、周りの人々は一斉にうなずいた。その目には、信頼の光がきらめいている。
この感じだと、たぶんセルジュはあの町を治める領主の息子か何かみたいだけど……うらやましくなるくらい、町の人たちといい関係を築いている。
「それでは、みなはこのまま祭りを楽しんでいてくれ」
そう締めくくって、セルジュはこちらに向き直る。
「よし、行くぞリュシアン。少し歩くが、構わないな」
「ああ。ところであの町って、何て名前なんだい?」
「イグリーズだ」
イグリーズ。どこかで聞いた気がしなくもないけれど、どうにも思い出せない。まあいいか、少なくともここは、バルニエの領内ではない。それだけは確かだ。
それにここは、バルニエと比べるとずっと暖かい。雪もないし、緑も残っている。厚着しているとはいえ、この季節に外で祭りなんて、バルニエではとうてい考えられない。
くすんだ緑の草原を、セルジュに続いてのんびり歩く。
さて、これからどうなるかな。聖女だなんだって言われてちょっと驚いたけれど、そういうのも面白いかも。後で詳しく、話を聞いてみよう。
ちょっと予想外のことが起こったけれど、ともかく私はもう自由だ。これからは、思うまま好きに生きられるんだ。
そんなことを考えながら、前を行くセルジュの背を見つめていた。
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