第3話 さあ、逃げ出そう
「けっこん……あいて……?」
全く、これっぽっちも予想していなかった言葉を投げかけられて、まともに言葉が返せない。口をぱくぱくさせていたら、目の前に書面が突きつけられた。
それは、婚姻許可証だった。ここレシタル王国では、貴族の結婚は許可制だ。といっても形だけのものなので、王宮に届け出をすればじきに許可証がもらえるらしい。
『マリオット侯爵、エミール・マリオットと、バルニエ伯爵令嬢、リュシエンヌ・バルニエの婚姻を許可する』
その婚姻許可証には、そんなことが書かれていた。侯爵。格上の家だ。
父は今まで、私の見合い相手を必死に探し続けていた。もうまともな見合い相手は残っていないと、そうも言っていた。なのにどうして突然、格上の家との結婚が決まったのだろう。
おかしい。絶対に、何かがある。もやもやしながら婚姻許可証をじっと見つめていたら、父がこの上なく楽しそうに言った。
「見ての通り、マリオット様がお前をめとってくれることになった! 既に奥方様とは死別されていて、お前は後妻ということになる。年が離れているし子供もおられるが、問題ないだろう!」
ああ、そういうことか。後妻は多かれ少なかれ肩身の狭い思いをすることが多いし、前妻の子ともめることも少なくない。後妻が子を産みでもしようものなら、凄絶な跡取り争いが始まることもある。
だから、自ら進んで後妻になろうという女性は少ないのだ。大切な娘を、後妻として差し出そうという親も。
でもどうにかして私を嫁がせたい父は、そんなことは気にしなかった。それだけの話だ。
「良かったなリュシエンヌ、これでようやっとお前も一人前になれるぞ」
父の考えは、相変わらずだ。貴族の女性は嫁ぐことが使命。子を産んでこそ一人前。そんな、伝統的な貴族の価値観。ああ、気分が悪い。私が今リュシアンだったら、遠慮なく顔をしかめていられたのに。
ただそれとは別に、もう一つ気になることがあった。マリオット。その名前に、聞き覚えがある気がしたのだ。
マリオット、マリオット……あ、思い出した!
こないだルスタの町に行った時に、女性たちが噂していた人物だ。確か、反乱を起こすために人を集めているとか、そんな噂があるのだとか。
あくまでも、噂でしかない。でももし、真実だったら。彼はいずれ、戦を起こすのだろう。
戦は嫌いだ。死ぬのはもめている張本人たちではなく、何も知らない下っ端の兵士たちだ。どちらが勝っても、失われた命は戻ってこない。
こんな馬鹿馬鹿しいことがあってたまるか。戦を起こそうなんて考えるのは、もれなく愚か者だ。
マリオット侯爵は愚か者なのかもしれないし、違うのかもしれない。でも結婚してしまってから、愚か者だと分かったら。
私は侯爵の後妻として、愚かな行いの片棒を担がなくてはいけない。
そんなことになる前に、逃げよう。それこそ、どんな手を使ってでも。
上機嫌にあれこれと語り続けている父の言葉を聞き流しつつ、全力で考えを巡らせていた。
父が出ていって一人になるとすぐに、地図を取り出して机に広げた。マリオットのところに嫁がされる前にここを出て、行方をくらます。その経路を考えるために。
まずは、この屋敷の周囲の地形を確認する。バルニエ領の南東には高い山脈がそびえていて、その向こうがマリオット領だ。一番近づきたくない王都は、もっと東のほうにある。
「北と西は森と山ばかりで、大きな町はないから……南西に逃げるのがよさそうね」
男装して逃げれば、追っ手の目をくらませるかもしれない。けれど念には念を入れて、旅人なんかもたくさんいる大きな町に逃げ込みたい。
「それはそうとして、どうやって逃げようか……」
徒歩で逃げたら、たぶん途中で追いつかれる。かといって、馬や馬車は……キスカの町で調達できなくもないけれど、そこそこお金がかかるはず。
逃げる時にいくら持ち出せるかは分からないし、新たな生活が軌道に乗るまでどれだけかかるかも分からないから、できる限りお金は節約したい。
いっそ、深い森の中に隠れて追っ手をやり過ごしながら逃げることはできないだろうか。かつて私に木登りやら武器の扱いなんかを教えてくれた狩人は、森での生き方も教えてくれた。彼の教えはまだちゃんと覚えているし、どうにかなるかも。
「……あ、でも……獣を実際に狩ったことはないし……今は冬だから、木の実や草もない……それに、暖を取るために火をたいたら、追っ手に見つかってしまうかも……」
張り切って考えを巡らせてはみたものの、すぐにそんなことに思い至ってしまった。どうやらこれも、難しそうだ。自然の地形を利用して逃げるのはありだと思ったのだけれど、残念。
ため息をつきながら、地図を指でなぞる。ふと、あることに気づいた。
「あら……? そういえば婚礼の日って、この道を通るのよね……」
バルニエとマリオットを行き来するには、間にある山脈を回り込まなくてはならない。東回りと西回りの二本の道があるけれど、西回りはかなりの大回りになるから、今回使われるのは東回りの道だ。
そしてその道のそばには、澄んだ大きな湖がある。よく一人で遠乗りに向かったから、あの辺りの地形は熟知している。
「だったら、ここを通れば……」
自然と、笑みが浮かんでくる。私以外誰も知らない脱出経路を見つけた、そんな喜びに。
それから婚礼の日まで、私はひたすらおとなしくしていた。マリオットとの結婚を受け入れたのだと、そう父に勘違いさせるために。
父は大喜びだった。それもそうだろう、ずっと結婚の決まらなかった娘が、ようやく嫁いでまともになるのだから。これで一人前だと、そんな腹立たしい言葉を何回聞かされたことか。
そうして父は、嬉々として自分の跡継ぎを探し始めた。親戚や知り合いの中で、養子に来てくれそうな若者を選び始めたのだ。
ここレシタルの法では、女性が貴族の家を継ぐこともできる。でも父は、女たるもの嫁いでこそという価値観の持ち主だ。私に跡を継がせることなんて、一度も考えていなかった。嫁入りの決まった私には、もう興味がないようだった。
浮かれる父を尻目に、私は私でこっそりと準備を進めていた。必要なものを集め、屋敷を抜け出して下見に行き、逃げるための仕掛けを作っていく。
全ては、婚礼の日のために。望まぬ結婚からも、このバルニエの家からも、逃げ出すために。
やがて、婚礼の当日となった。純白の婚礼衣装に身を包み、馬車に乗ってう屋敷を出る。もう二度とここには戻らない。もう二度と、父の顔を見ることもない。
そんなことを考えながら、遠くなっていくバルニエの屋敷に目をやる。私はあそこで生まれ育ったというのに、少しも悲しさや寂しさは覚えなかった。むしろ、浮き立っていた。今日の計画が成功すれば、逃げ出せる。自由になれる。そのことしか頭になかった。
一面の雪景色の中を、馬車は進む。湖のほとりにさしかかった時、御者に声をかけた。いよいよ、ここからだ。
「あの、すみません……緊張のせいか少し気分が悪くて……少し、外の空気を吸わせてはもらえませんか?」
緊張していたのは事実だったから、わざわざ演技をする必要もなかった。御者はすぐに馬車を止めて、扉を開けてくれた。
馬車から降りて、薄く積もった雪をさくさくと踏みながら歩く。
目の前には大きな湖。真冬でも凍らない、底なしと言われるほどに深い湖だ。ここに落ちたものは、もう二度と浮かび上がってくることはないと言われている。
御者の心配そうな視線を受けながら、ゆっくりと湖に近づいていく。鳥のくちばしのように、岸が湖に向かって突き出している場所に向かって。
くちばしの先に立つと、下から風が吹き上げてきた。両側が切り立った崖になっていて、ずっと下のほうに湖面が見える。
まっすぐに前を見て、ゆっくりと深呼吸する。口元に薄く笑みを浮かべて、一歩踏み出す。
そうして私は、崖の下に身を躍らせた。
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