第2話 ささやかな自由を満喫して

 男性に化けた私は、バルニエの屋敷のすぐ隣にあるルスタの町へと向かった。


 父と私の仲は冷めきっていて、父はめったなことでは私の部屋を訪ねることはない。それをいいことに、私は時折こっそりと屋敷を抜け出していた。女性にしては背が高いほうなのをいいことに、こうして男装して。


 とはいえ、男性としては小柄できゃしゃなほうではある。けれど今のところ、女性だとばれたことはない。


 町の中心、軽食を取り扱う店が集まる通りに足を運ぶ。と、私の姿を見かけた女性たちが声をかけてきた。


「リュシアンさん、今日はうちに寄っていかない? 珍しいハーブティーが入ったのよ」


「えーっ、あたしのお店に来てくださいよう。今日のシチューはできがいいって、おかみさんが言ってましたあ」


「あ、リュシアンさんだ! 一時間後に来てくれれば、焼き立てのクッキーが食べられますよ!」


 リュシアンというのは、男装している時に名乗っている名前だ。リュシエンヌとリュシアン、ほとんどそのまんまではあるけれど、私が町のすぐ隣の屋敷に住む、この町を治める伯爵の娘だとは誰も気づいていない。


 これは、父のおかげだった。複雑な気分ではあるけれど。


 平民などと関わる必要はないと日々主張している父は、ルスタの町に足を運んだことはない。当然ながら、娘である私も町に行くことはなかった。だからルスタの人たちは、リュシエンヌの顔を知らないのだ。


 女性たちに笑顔で答え、なおも町の中をぶらぶらと歩く。目についた店でお茶を買い、立ったまま飲む。いつも屋敷で飲んでいる茶の葉を使ったものではなく、草の根っこを煎って煮出したものだ。香ばしくておいしい。


 こうしていると、ほっとする。リュシアンでいる間だけは、自分の心に素直でいられる。好きなところに歩いていけて、好きなものを飲むことができる。気持ちを押し込めて上品にふるまわなくてもいいし、嫌いな人間に愛想笑いをする必要もない。


 いつか、バルニエの屋敷からも、そしてこのルスタの町からも出ていって、どこか遠くに行ってしまいたい。そうしてそこで、自由に生きていきたい。それが、私のたった一つきりの夢だった。かなうことはないのだろうなと、そう理解してはいるけれど。


 苦笑しながら、その辺の壁にもたれる。お茶を飲みながら、道行く人をぼんやりと眺めた。周囲の人たちのお喋りが、さざ波のように押し寄せてくるのが心地いい。


「ねえ、聞いた? 王都の話。ちょっと……危ないって」


 と、そんな言葉が耳に飛び込んできた。


「うん、私も聞いた。王都で、兵士をたくさん集めてるんだって。王都に住んでる親戚のお兄ちゃんが、田舎に帰ろうかなって言ってるの。このまま王都にいたら、無理やり兵士にされちゃうかもしれないんだって……」


 近くの木陰に、若い女性が数名集まっていた。どうやら買い物か何かの途中らしい彼女たちは、深刻な顔でささやき合っている。


「兵士を集めるって、どういうことなの?」


「分かんない。でもお兄ちゃんは、戦いになるんじゃないかって心配してた」


 彼女たちの会話に、思い当たる節はあった。


 ここレシタル王国は、今大変不安定な状況にある。王はまともに国を統治するつもりがないらしく、日々遊びほうけているのだとか。


 そして腹心の貴族たちや官僚たちも、王にならって好き勝手しているのだそうだ。私腹は肥やす、民は虐げる。王の名を借りて、そんなことばかりしているらしい。


 この分では、この国はいずれ自滅するか、あるいは周囲の国ともめて戦いになるか。いずれにせよそう長くもたないだろうなと、貴族たちは口にこそ出さないがそう思っている。


「……今のうちに、安全な場所を探しておいたほうがいいのかな? このルスタの町も、たぶん駄目だろうし……」


「だよね。大きな声では言えないけれど、バルニエ様は頼りにならないから」


 うん、それは全面的に同意だ。父の頭には、貴族らしく生きることしかない。娘の私が言うのだから間違いない。


 平和な世であれば、それでもやっていけたのだろう。けれど、乱世になったらどうしようもない。おろおろしているうちに戦乱に巻き込まれて終わりだ。


 私がそんなことを考えている間も、彼女たちの話は続いていた。他の領主たちの名前を次々と挙げながら、ここは安全かな、それとも危険かな、どこに逃げ込むのが一番いいのだろう、などと相談し合っていたのだ。


「あ、でもマリオット様の領地は危ないかも……反乱を起こすために人を集めてるって、そんな噂を聞いたの」


「うそ、反乱って……あっちもこっちもそんな話ばっかりで、怖い……」


 女性たちは、また黙り込んでいる。みんな、とても不安そうだ。なんとかしてあげたいな、という思いがこみ上げてくる。


 少しだけ考えて、飲み終えたカップを店に返し、彼女たちのところに歩み寄った。


「君たちの話が聞こえたんだけど、ちょっといいかな? 僕はリュシアン、時々この町に遊びにくるんだ」


 明るく呼びかけると、彼女たちは戸惑った目をこちらに向けてきた。女性たちの顔を順に見渡して、にっこりと笑いかける。


 と、不安からか眉をひそめていた女性たちの表情が、ふっと変わった。まだちょっと困惑しつつも、私に興味を持ち、ちょっぴり好感を抱いてくれている、そんな表情だ。


「王都が危険なのかもしれないって噂は、僕も聞いたことがある。でもさ、このレスタの町まで影響が出るのはかなり先のことになるよ。ここは、王都から離れているし」


 そう語りかけると、女性たちはみんな同時にうんうんとうなずいた。


「だから、逃げる先を考える時間はたっぷりあるよ。そんなに怖がらないで、落ち着いて考えよう。みんなで一緒に考えれば、いい案が出るからさ」


 彼女たちは少しの間ぽかんとしていたけれど、やがてその顔に安堵の色が広がり始める。


「そっか……そうよね」


「ありがとう、リュシアンさん。なんだか落ち着いたわ」


「あなたって、不思議な人ね。話していると怖さが薄れていくの」


「僕はただ、みんなに笑っていてほしいだけなんだ。そう言ってもらえると嬉しいな」


 それから、相談と称してあれこれとお喋りを楽しんだ。行儀作法も駆け引きも必要ないお喋りは、とっても楽しかった。




 上機嫌でバルニエの屋敷に戻り、するすると木に登る。木の枝に引っかけるようにして隠しておいた木の棒をつかんで、半分開けたままになっていた窓を大きく開ける。そうして、室内に転がり込んだ。


 それから大急ぎで元のドレスに着替え、髪を手早くとかす。よし、これで元通り。今日は外を歩いてきただけだから、身支度も楽でいい。


 前に一度だけ、好奇心に負けて酒場に行ってみたことがある。ちょっとのぞいただけなのに、煙草の臭いが髪に染みついてしまった。結局、屋敷に戻る前に町の外の小川で髪を洗う羽目になって……あれは大変だった。


 ちょこんとソファに座って、何食わぬ顔をして本を読む。今日も楽しかったな。怖がっている女性たちを笑顔にできたし、お喋りもできたし。


 ちょっと不穏な噂を聞いたけれど、それは心の隅に留めておけばいいだろう。


 そうしてすっかりいい気分で、大きく伸びをした。




 それからしばらくの間、屋敷でおとなしくしていたり、男装して町に出かけたりを繰り返しながら、割と平和に過ごしていた。


 いつまでも逃げていられると思うな。父のそんな捨てぜりふが気になっていたけれど、あれ以来不気味なくらいに動きがなかった。


 嫌な予感がする。けれど、何をどうすればいいか見当がつかない。


 ひっそりと悩んでいたある日、この上なく上機嫌の父が部屋に突撃してきた。


「リュシエンヌ! お前の結婚相手が、決まったぞ!!」

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