脱走令嬢、愛され聖女になる

一ノ谷鈴

第1章 自由を求めて逃げ出して

第1話 男なんてみんな最低

「聖女様だ!」


「聖女様が、本当に降臨なされたぞ!」


 最低な父と納得いかない結婚話から、ただひたすらに逃げて逃げて、逃げ回って。ようやく逃げ切った先で、そんな歓声が私を出迎えた。


 何がどうなっているのか全く訳が分かっていない私をよそに、人々はこれでもかというくらいに大喜びしていた。みんなとっても、幸せそうな顔で。


 どうやら聖女様というのは、私のことらしい。何が何だか分からないけれど、歓迎されているようではある。


 だったらまあ、いいか。ひとまず無事に逃げ切れたことだし、のんびり様子を見ることにしよう。


 ――その判断のせいでこの先何度も頭を抱えることになるとは思いもせずに、私はただ周囲の人々の大騒ぎを眺めていた。





 それは、私がもろもろのことから逃げ出したあの日よりも、少々前のこと。


 屋敷の自室でのんびりくつろいでいたら、いきなり入り口の扉がノックもなしに勢いよく開いたのだった。


 そうしてつかつかと入ってきたのは、私の父であるバルニエ伯爵だ。怒りからか、父の顔は真っ赤だ。トマトといい勝負の赤さだ。いつものことながら、人間はここまで赤くなれるのかと感心してしまう。


 父はソファに座る私を見下ろし、腹の底から声を出して叫ぶ。


「リュシエンヌ、これはどういうことだ!!」


「どういうこと、とは?」


 父が怒っている理由に見当はついているけれど、そ知らぬ顔をして尋ねてみる。


「先日の見合いの返事が来た! 『そちらのお嬢様はたいそう馬と仲が良くていらっしゃる。うちの息子よりも、馬のほうがお似合いでしょう』とな!」


 その言葉に、こっそりと笑いを噛み殺す。私だって、あの見合い相手のところに嫁ぐくらいなら馬と駆け落ちしたほうがましだ。


 そんな思いはかけらほども見せずに、しとやかに答える。


「……見合いのあの日、二人乗りで遠出しようと誘われました。ただ、さすがに初対面の方と同じ馬というのは恥ずかしいので、お願いして別々の馬にしてもらったんです」


 偶然に見せかけて胸を触ってくるような最低の不届き者と二人乗りなんて、絶対にごめんだ。だから私は一歩も引かず、彼とは別の馬に乗ることにしたのだ。


 しかし相手はそれが気に入らなかったらしく、思い切り馬を走らせて、屋敷から離れた岩山の奥のほうまで分け入ってしまったのだ。


 で、もう日が暮れ始めた頃に彼は言い放った。それではここで、お別れとしましょう、と。そうして一人で、さっさと山を下りてしまったのだった。つまり彼は、私をあの岩山に置き去りにしようとしたのだ。


「遠乗りで山に向かったことは聞いている。だが、どうしてお前一人がその日のうちにさっさと戻ってきたのかと、先方はたいそうお怒りだ。あちらのご令息が戻られたのは次の日の午後だったのだぞ」


「帰り道で、あの方とはぐれてしまったんです。私、日が暮れる前に戻らなくてはと必死で……どこをどう走ったか、覚えていないんです」


 かよわい令嬢のふりをしながら、悲しげにそう答える。実のところこれは、まるきりの嘘だった。


 あの最低男が十分に遠ざかったのを見届けてから、私もこっそりと山を下り始めた。周囲の地形を確認し、馬の体力を温存しながら。


 そうしたら、来た道が落石でふさがれていることに気がついた。


 とはいえ小ぶりの岩がたくさん積み重なっているだけだから、岩を一つずつ根気よく動かしていけばじきに元に戻せるだろう。でも、かなり時間がかかる。何より、あの最低男と協力なんてしたくない。


 という訳で、私は迂回路を探して、そちらから悠々と下山した。


 普通の令嬢なら途方に暮れていたであろうこんな状況を、私はとても冷静に切り抜けていた。そんな芸当ができたのには、もちろん理由があった。


 子供の頃、私は一人の狩人と知り合っていたのだ。実用的な乗馬の技術、山の地形の読み方、全部彼に教えてもらった。それだけでなく、野山で生きるために必要なあれこれをたくさん習った。


 もちろん父は、そんなことは知らない。知ったらたぶん、私が令嬢らしからぬことをしないように屋敷に閉じ込めようとするだろう。父はそういう人間だ。


 当然ながら、そんな目にあいたくはない。だから私は日々、こうやって猫をかぶり続けているのだ。幸い父は割と鈍いほうなので、一度も怪しまれたことはない。


 今回もどうやら、私の言い訳を信じてくれたようだ。しかしその顔色は、相変わらず真っ赤のままだった。肩を小刻みに震わせて、押し殺したような声でつぶやいている。


「……お前の見合いが失敗するのは、これで何度目か……もう、まともな家との縁談は残っておらん。このままではお前は、間違いなく嫁き遅れだ!」


 嫁き遅れ。望むところだ。


 そもそも私は、恋とか愛とか結婚とか家庭を作るとか、そういうことに興味はないし、夢も希望も抱いていない。それもこれも全部、父のせいで。


 私が赤子の頃に父が浮気して、それを悲しんだお母様が修道院にこもり、父は激怒してお母様を離縁した。


 そこからいったい何がどうなったのか、お母様は隣国ソナートの王子にみそめられて、今では元気に隣国の王妃をやっているのだ。


 そんな複雑な家庭で生まれ育った私が、恋愛や結婚について冷めた目を向けるようになっているのは当然のことだと思う。せめてお母様と一緒に暮らせていたなら、また何か違っていたのかもしれないけれど。


 しかし私も、もう十七歳になっていた。見合いの話が次々と舞い込み、あちこちの令息と顔を合わせるはめになった。もちろん、結婚を前提として。


 そしてその結果、私は男性に対しても大いに失望するようになったのだった。


 貴族の令息たちときたら誰も彼も軟弱で、上辺をとりつくろうことばかり気にして、女のことを一段下に見ているのが丸分かりで! ああいうところは、うちの父にそっくりだ。あんな連中の妻になるくらいなら、いっそ死んだほうがましだ。


 ……どこかに、信頼に足る男性がいないかなあ。私のことを対等に扱ってくれて、本当の私を受け入れてくれて、悩み事なんかも素直に話せる、そんな人が。


 もっともそんな男性は、物語の中にしか転がっていない。残念ながら。


「……リュシエンヌ。いつまでも逃げていられると思うな」


 ものすごく不機嫌そうな声で言い放って、足音も荒く父が去っていく。ばんと大きな音を立てて、扉が閉まった。


 息をひそめて、気配を探る。父が十分に遠くに行ったのを確かめてから、深々と息を吐いた。


「ああもう、最悪の気分だわ。あのお見合いのこと、もう思い出したくなかったのに」


 こういう時は、ぱあっと気晴らしをするに限る。ソファから立ち上がり、壁に作りつけられた豪華なクローゼットを開ける。上半身をもぐり込ませるようにして、一番奥に隠してある袋を取り出した。


 袋の中身は柔らかい革のベスト、男物の服一式、それに編み上げブーツだ。みな、貴族の普段着ほど豪華ではなく、けれど平民のものにしてはちょっと上等だ。


 この革のベストは、体の凹凸を隠してくれる特製下着なのだ。そして服もブーツも、私の大きさに合わせてある。


 普段着のドレスを脱ぎ捨てて、ベストを身につける。それから服とブーツをまとって、長い髪を首の後ろで縛る。姿見の前に立って、全身を確認した。


 ゆるく巻いた銀色の前髪がしゃれた印象を与える、青い目の青年が鏡の中からこちらを見返していた。


 長いまつ毛にぱっちりとした目、凛々しい顔立ちの、きゃしゃではあるけれど生き生きとした美青年だ。我ながら見事な化けっぷりだと思う。


「うん、いい感じだ。さあて、遊びにいこうか」


 窓を開けて、目の前にせり出した木の枝をつかむ。そのまま窓の外に身を躍らせて、するすると木を降りていく。もうすっかり身に染みついた、慣れた動きで。


 こうして、いつもと同じように屋敷を脱走した私は、すぐ隣にある町へと足を向けた。屋敷を離れるにつれて、少しずつ気分が軽くなっていくのを感じながら。

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