第2話

「いや、何でもない。穂乃花が来た」

「うわあ、わかった。急げ急げ急げ」

 急げ、を連呼するうちに妙な節をつけてオリジナルの曲を歌い始めた。美香は交際しているときから料理中にオリジナルの曲を即興で作って歌う癖があり、昔はよく「何だよそれ」と茶々を入れていたが、今はもう聞き流している。

 鍵を開けると、リュックを背負った穂乃花が立っていた。裾の長いコートを羽織っており、冷風が入り込んでくる。

「ただいま、寒いねえ」

 滑り込むように玄関に入ってきた。

「あっちは雪降ってたか?」

「ううん、でも朝は路面が凍ってたよ。今は車が通ってだいぶん砕けてるみたいだけど」

 穂乃花は大学を卒業してから、同じ県内の北部に一人暮らしを始めた。よく雪が積もる地域で、穂乃果は車の運転が苦手だったため、自動車を所有せず、いつも電車とバスを利用して家まで帰ってきていた。健治は穂乃花の横に立つ男に視線を移す。男はおどおどしながら深く一礼した。思い切り息を吹き付けてやればよろめくのではないかと思うほど弱々しい体躯だった。かろうじてスーツ姿であることが誠実な印象を与えている。

 悪いやつではなんだけどな……。

「お母さーん、ただいまー、今日のお昼ご飯なにー」

「焼きそばにしようと思ったけど、オムライスにするー」

「方向転換がすごいけど、大好きだから嬉しいー」

 穂乃花は健治の横をすり抜けて洗面所に行き手を洗ったあと、リビングへと入っていった。男は玄関に立ったまま動かなかった。健治は一度こたつに入ったが、やはり落ち着かず、立ち上がって玄関に向かった。

「お、おとうさん」

 男は弱々しく言った。

「竹中くん、こんなこと何回も言いたくないんだけど、君は穂乃果と結婚はできないんだよ」

「お願いします。大事に守ります。何でもします」

「穂乃花を思う気持ちは嬉しいんだけどね」

 竹中と喋っていると、キッチンから美香の声が聞こえてきた。

「あれ? お父さんどこ? ご飯できたよ!」

「今行く!」

 玄関から叫ぶと美香は「寒いからドア閉めてよ」と言う返事が届いてきた。

「お父さん、僕はそばにいるだけでいいんです」

「俺はダメだと思う」健治は唾を飲みこんだ。「君は成仏した方がいいよ。苦しいだろ」

「イヤです。お父さんお願いします。娘さんを、穂乃果さんを僕にくださいっ」

 男は玄関の床に額をついて土下座した。

「ダメだよ。君だけは絶対にダメだよ」

「なんでですかっ」

「死んでるからだよっ」

「お父さんっ、ドア閉めてって何度も言ってるじゃないっ。さっきから何ぶつぶつ一人で行ってんのよ」

 美香の険のある声が響いてきた。健治は謝って、土下座する健治を見下ろした。

「今日は認めてもらえるまで、ここを動きません」

「わかった、とりあえず、リビングまで来なさい。君がここにいると、何だか良心が痛む」

「し、承知しました」

 男はすくりと立ち上がった。動くのかよ、と健治は心の中でこぼしながらリビングに戻っていった。

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