第1話
「ごめんください!」
思ったより大きな声が出てしまった。建物中に響き渡ってしまったかもしれない。
とりあえずドアを閉めよう。外には……何も無いよね。
はあ、見たこともないの黒い影に長い間追われていた気がする。人間って命の危険を感じると限界以上の力が出るんだ……。
ああ、上手く息が吸えない。心臓はバクバクと鳴っている。体が熱すぎる。駄目だ、足に力が入らない……。
「ど、どうしたの。大丈夫?」
お姉さんがゆっくりとカウンターの奥から出てきた。恐る恐るって感じだ。そうだよね。他人から見たら今の私は、夜遅くにいきなり入ってきたと思ったらドアの前で座り込んでいる変な女の子だもんね。ベージュの髪を長く伸ばした背の高い女性だ。いかにもお姉さんといった感じで、優しい表情をしている。
「あ、あはは、ごめんなさい。信じてもらえるかわからないんですけど、よくわからない黒い影に襲われかけて……助けて欲しくて逃げ込んで来たんですけど」
あれ、話しながら気づいちゃったんだけどこの説明って信用してもらえる? 明らかに非現実的で到底信じてもらえそうに無いよね。もしかしてこの説明を受け入れてくれなかったら私は不法侵入になっちゃうんじゃないの?
「あらーそれは大変だったわね」
あれ、このお姉さん信じてくれてる。子どもの相手をしている感じでは無いよね。ちゃんと真剣に聞いてくれている気がする。
「信じてくれるんですか……?」
「嘘をついているようには見えないもん」
私はもしかすると都合よく良い所に逃げ込んだのかもしれない。ラッキーじゃん。
「とりあえずさ、毎日掃除しているとは言え床に座り込むのはちょっと汚いかも……ほら、こっちこれる? カウンターの好きな所に座っていいわよ」
お姉さんがカウンターに来てと手招きをしている。
「あ、ありがとうございます。……あの、お恥ずかしいのですが足に力が入らなくて。お手伝いしてもらってもいいですか……?」
***
なんとかお姉さんに助けてもらって入口から一番近いカウンターに座らせてもらった。なんかこの人すごく優しい。
なんとか息も落ち着いて、走って火照った体も冷めてきた。このお姉さんには本当に感謝しないといけないな。
それにしても、このお店いい雰囲気だなあ。光をたっぷり取り込めそうな大きい窓、横に長いカウンターと窓際にある数席のテーブル席。それほど広い訳では無い。けれどこの雰囲気、私は好き。一日中居たくなる。なんだかそんな不思議な魔力があるみたい。
店内をぐるっと見渡していると、私に余裕が戻ってきたと察したのかお姉さん話しかけてきた。
「ウチ、ミカっていうの。ここのお店のオーナーよ。よろしくね」
お姉さんの方を見ると、カウンターを挟んだ向かい側で何かの機械を触っている。コーヒー関係の何かかな? 機械を使いながら話している姿、なんだかかっこいい。
「よ、よろしくお願いします。なんだかすみませんこんな時間に押しかけちゃって」
「あら、礼儀正しいね。別にいいんだよ。こういうのはよくあることだから」
え、よくある事なの?
私の困惑を見透かしてかフフッと笑うと、お姉さんは機械をいじりながら話を始めた。
「この
「あー……邪魔しちゃいました?」
「別に? 新メニューの試作とか言ってるけど半分はつまみ食いの為にやってるし」
お姉さんニコニコじゃん。
「邪魔じゃないなら良かったです……」
「せっかく来てくれたのに邪魔なんて言う訳ないでしょ? あと、試食担当が都合よく来てくれたとも捉えられるね」
お姉さん、そんな不敵な笑みを浮かべないで。
「今から何食べさせられるんですか……?」
「あはは、そんな怯えた顔しないでよ。今日は何も無いからさ。アイデアが降ってこなかったからね。せっかく来てくれたんだからキミに何か食べさせてあげたかったんだけど」
すると、お姉さんがいきなりハッとした表情をした。
「そうだ、聞くの忘れてた。ウチはミカっていうんだけど、キミ、名前は?」
自己紹介か。確かにコミュニケーションの大事な第一歩で初対面では欠かせないよね。
「私ですか? 私は……えっと……あれ?」
あれ、なんだっけ。自分の名前。
「どうしたの。大丈夫?」
ミカさんが心配そうな表情でこっちを見ている。
「あはは、大丈夫ですよ! えっと、私の名前は、名前は……えーっと」
おかしい、思い出せない。
「よし、質問を変えよう」
ミカさんはそう言うと、機械を止めて背の高い椅子を持ってきた。ミカさんはそれを私の真正面に置いて座る。目線が同じになるだけでちょっと恥ずかしい気分になるかも。
「ここに来るまで、何をしていたの?」
これなら答えられる!
「黒い影に追われて、走って逃げていました」
「じゃあ……その前は?」
「その前?」
自分の記憶は逆再生するだけ。別に難しくないはず。
「うーん、どうしてだろう……」
難しくないはずなのに。なのに、何も思い出せない。上を向いて、下をむいて、頭をぐるぐる回して、目を閉じて、それでも思い出せない。
「どうしたの」
ミカさんの優しい声色が逆に心に刺さる。
「思い……出せないです」
自分の名前と、ここ最近の記憶が全く無かった。なんだか自分にぽっかり穴が空いたみたい。私は確かにここに存在しているのに、私を作り上げたものが何も無い。
「そっかー、なんかそんな気がしたよ」
「え?」
ミカさんあんまり驚いていないような?
「いままで真夜中に助けを求めて入ってきた人たちもそんな感じだったよ。記憶がなくて、自分が誰かわからなくなってる」
ミカさんは「ふふ」と笑うと、私の前にコーヒーを一杯置いた。白くて小さいコーヒーカップに黒い液体がなみなみ注がれている。いつ淹れたのかわからないけど、湯気がたっていて温かい。
「ほら、それ飲んで」
「真夜中にコーヒーですか」
寝られなくなりそう。
「飲んだら落ち着くよ」
苦いのは苦手なんだけど……。いや、出されたものは飲まないと。
目を瞑って一気にぐいっと飲めば……。よし、ここは勢いだ。カップを持って、いざ!
「おお、良い飲みっぷりだね。お味はどうかな」
ミカさん、私がコーヒーを飲んでいる姿を愉しそうに見てくる気がする……。
「苦い……」
コーヒーを飲みきって、コトンとコップをカウンターに置く。コーヒーカップの底には黒い粒がたくさん溜まっていた。……ええ、どういう事?
「えー、苦いの苦手なのー? それならそうと言ってよーココアもあったのにー」
ミカさん、それ先に言ってよ……。
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