第一章 太陽と月②
門を抜けた馬車は本棟と呼ばれる大きな建物の前で止まった。ヴィルジールが先に降り、手を差し
研究員の一人が私達に近づき、一定の
「ヴィルジール様と……シャルロット様。こちらへ」
ヴィルジールが研究員の後ろについていくので、
目の前の巨大な建物に向かう二人に慌ててついていく。
古めかしい巨大な建物にただただ
正面
次に目についたのは高い
改めて正面に顔を
そんな生成色の人々は、私達が扉を開けた瞬間からだろうか、じっとこちらに注目しているのがわかった。私は思わず息が
ああ、どれだけ時間が経っても、私はまだ──過去の
「わっ……」
何事かと目を白黒させていると、今度は
どうやらヴィルジールが着ていたローブを
「あの、ヴィルジールさん……」
「大丈夫。行くぞ」
また大丈夫って……。どうやら彼なりに気を
「あれ何かしら」
不意に女性の声が耳に入ってきた。明らかに私のことを言っている。ヴィルジールは無視して歩くものだから、ローブがずるりと頭から離れそうになる。私は慌てて彼の隣についた。
「新しい犬だろう」
「ええ? あれが?」
後ろからくすくすと
それにしても、犬とは。どういう
ヴィルジールの顔を見上げれば、彼は
研究院の中を進み、人気の無い
中にはたくさんの書類がぎゅうぎゅうに詰め込まれた本棚が
「あ、ヴィルジール様いらっしゃい!」
「ああ。紋章の登録に来た」
「聞いていますよ。さあこちらに」
男は
「シャルロット様、そんなに
ヴィルジールが無言で左手を机の上に乗せたので、私もそれに
紋章を書き写すのは、研究院の管理下に置くという意味合いもあるが、
あれから六年。私の手の甲に刻まれた太陽と月の紋章は、ミレイユ先生と共に過ごした
「良い紋章ですね! 太陽と月。お二人共、よくお似合いで」
「早く書き写せ」
「まあそう言わんでくださいよ。こんな時でもなきゃ、大魔法使い様と
男は口を
そうか、ヴィルジールも紋章が変わっているのか。そんな当たり前のことに気付けないほど、今の私に
思わず手に力がこもる。すると男は紙面から顔を上げて、人好きのする
「シャルロット様。私はここで書記をやっておりまして、ここに所属する研究員は
「それは……ありがとうございます」
私がお礼を言うのも変だが、何も言わないのも変な感じがして、ぺこりとお
そう、先生はすごい人だった。こうして名も知らぬ人にまで知られているくらいには。
ふと彼が言った言葉が引っかかって、私は下げていた頭を元に戻した。
「あの……ここに所属している研究員の方々を把握している、と
「ええ。そりゃあもう、一番上から一番下まで、大体は」
「では、アンという方をご存知ないですか」
アン。私の文通相手で、私の
手紙の
あんな遺書みたいな手紙を送ってしまって、アンは
男は一瞬手を止めて、天井を見上げて、またすぐに目線を私達の手の甲に移した。
「アン、ですか。それって本名です?」
「さあ……わかりません」
「外見は?」
「文通しかしていなかったものですから」
そういえばアンのこと、何も知らない。研究院で何の仕事をしているのかも知らないし、どんな見た目か、何が好きで何が
男はさらさらと
「アンって
「そ、そうですか」
私はぎくりと
確かに短い名前だとは思っていた。けれどそれがただの愛称という可能性なんて考えたこともなかった。だって、アンはアンだったんだもの。
すると男は何かを思い出したようにパッと顔を上げた。
「ああ! そういえばヴィルジール様のつがいの方も」
「おい」
部屋に
声の発せられた方──ヴィルジールの方を見ると、全身で
「早く進めろ」
「ハヒ……すんません……」
「ごめんなさい……」
私と男が謝罪の声を上げたのはほぼ同時だった。
やっぱりこの人、
ヴィルジールはバツが悪そうにそっぽを向いて、改めて口を開いた。
「俺のつがいはアニーという名だった。アンではない」
「そうそう。
「
男は「はぁい」と子どもっぽく返事をして、今度こそ紋章の登録に集中した。
それきり誰も言葉を発しないまま、私達はつがいとして改めて研究院に
***
紋章の登録が終わり、私達が暮らすという屋敷につく
研究院の
「長旅お
「ああ」
「そちらの方が?」
「新しいつがいだ」
シンプルな白いエプロンを着けたメイド服姿の女性が、美しい若木のような
「はじめまして。ゾエと申します」
「は、はじめまして! シャルロットと申します」
「ヴィルジール様よりお話は
ミレイユ先生と暮らしていた時は私が使用人みたいな仕事をしていたから、どう接すればいいのかわからず「よろしくお願いします」と頭を下げることしかできなかった。あれ、こういうのって使用人に対して失礼に当たるんだっけ……? これは失敗だったかと、心臓がバクバクとうるさく鳴る。あんなに死んでしまいたかったのにこんなことで
するとゾエはそっと私の左手を両手で包みこんだ。
「ミレイユ様のこと、残念でした」
「あ……」
「心が
「いや。先に食事を人数分」
「かしこまりました」
ゾエは私ににこりと
「……あの方がここを一人で管理されているのですか?」
「ああ。彼女は簡単な魔法を
──いいなあ。
魔法が使えるからと一言で言っても、
魔法とはマナを
加えて強い魔法使いになるためには、一種の才能と、マナの
しかしわずかな魔法の力でも、生活の助けとなることを考えれば百人力だ。
私は
「シャルロット?」
ヴィルジールに顔を
出会ったばかりの彼のことを、私はまだ何も知らない。しかし確実に言えるのは、私の力はこの人のためにあるということだ。
精一杯の笑みを
「……シャルロット」
「は、はい」
ヴィルジールはじっと私を見て、何か言いたそうに口を開いた。
「──おおーい! ヴィルジール!」
しかし聞こえてきた声は女性のものだった。
声がした方を見れば、そこにはすらりと背の高い女性が、ヴィルジールと同じ
自信に満ちたサファイアの
「何しに来た?」
つれないヴィルジールの
「相変わらず無愛想だな。君が
「…………」
ヴィルジールはまた何か言おうとして、苦虫を
「ねえ、君がヴィルジールのつがい?」
「うわっ……!」
突然後ろから話しかけられ、私は再び飛び上がってしまった。
見ればそこには背の低い少年がいた。
彼は美しい
誰も彼も
彼は私よりも年下だろう。そんな少年とも目を合わせることができないなんて、自分が情けない。なけなしの自尊心でなんとか意識を保ちながら、私は彼にお
「は、はじめまして。シャルロットと申します」
「はじめまして。僕はルネ。そこの大魔法使いのつがいの魔封士だよ」
ルネと名乗った少年が無愛想に銀髪の女性を指さした。
女性は
「つがいが失礼した。私の名前はレティシア・ド・ラ・フォンティーヌ。フォンティーヌ
そんなことを思っているとレティシアはヴィルジールを
「可愛い子で良かったなぁ、ヴィルジール」
レティシアの一言にヴィルジールが
「シャルロット、ヴィルジールの顔は怖いかもだけど悪い人じゃないから安心してね」
「おいルネ」
「そうでしょ?」
私よりも背の低い少年に何も言い返せずにいるヴィルジールを見ていると、この三人は以前からこんな調子で仲が良いのだろうとわかる。
よっぽど所在なさそうに見えたのだろう、ルネがふわりと微笑んで私を見上げた。
「研究院へようこそ、シャルロット」
「は──はい。ありがとうございます。これからよろしくお願いしますね」
今度こそうまく笑えただろうか。ルネは満足げに
「そうだ! せっかくだ、
レティシアが良い思い付きだと言わんばかりに満面の
「やかましいだろう。迷惑なら迷惑と言っていい」
二人から
「いつもこんな感じなんですか?」
「今日は特別うるさい」
「私、こんなに
「
「──いいえ」
存外、つるりとその言葉が出て、自分でも驚いた。ヴィルジールもまた、目を丸くしている。
こんなに感情が乱高下したことは、この十六年間を思い返しても初めてのことのように思える。
「なら、よかった」
そう言ってヴィルジールは、ほんの少しだけ微笑んだように見えた。
この人は表情が読めなくて、何を考えているのか全然わからなくて、
私はこの人のつがいの魔封士だ。この人の力にならなくてはいけない。私にそれができるだろうか。
「あの、ヴィルジールさん」
「さんはいらない」
「……ヴィルジール」
「なんだ」
「私──」
私、
なけなしの勇気を
大魔法使いと死にたがりのつがい いちしちいち/角川ビーンズ文庫 @beans
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