第2話 目の前には初恋の人

 柳沼やぎぬま 佳純かすみ



 愛くるしい瞳。整った眉建ち。ぷっくりと色っぽい唇。

 清楚でありながらどこか色気のある雰囲気。


 椿油を塗ったような黒髪が腰まで伸びて大人っぽさを孕んでいる。


 華奢な体躯、大きな胸。くびれたウエスト。ミニスカートから伸びるカモシカのような細い脚。


 太ももはムチッとしているのに、足首はキュッと締まってふくらはぎからのバランスが神がかっている。


 肉付きの良いお尻は丸椅子で潰れて柔らかそうに押し広がっている。


 端的に言ってエロい形だ。


 女性らしさをこれでもかと表現した、美の女神と言っても過言ではない。


 そしてこれだけ容姿が完璧なのに性格も良い。気遣いが出来るし、優しいし頭も良い。


 少し引っ込み思案で流されやすいところもあるが、それも愛嬌として受け取れるくらい、魅力的な女性だった。



 彼女もまた、俺達の昔なじみであり、俺が密かに憧れていた女性でもあった。


 思春期になって、異性を意識しはじめた頃に惚れ込んだ、俺の初恋の相手。


 中学が同じで、高校で別々になった。


 そして大学の入学式で再会したのだ。


 元カノの失恋を引きずっていた俺に訪れた新しい恋の予感。


 そんな気さえしてしまうほど、彼女との再会は喜ばしいものだった。



 だが、そんな俺の気持ちは一瞬にして瓦解がかいする。


『俺、佳純かすみと付き合うことになったんだ』


 親友高彦から告げられた絶望の事実。


 再会のトキめきは肩透かしへと換わった。


 なんでも入学試験の時に同じ部屋になった高彦は、俺に知らせるでもなくその場でアタックを開始した。


 俺が佳純かすみちゃんに憧れていたことを、高彦に話したことはなかった。


 なぜなら、彼もまた佳純かすみちゃんに恋心を抱いていたことを、俺は直接聞いていたからだ。


 当時の俺としては、同じ人を好きになるって宣言するのは、何か照れくさい気持ちがあった。


 だから言わなかった。言えなかったのだ。

 ヘタレと笑わば笑え。


 行動力の塊である高彦はその日のうちに連絡先を交換し、長所でもあり最大の欠点でもある押しの強さで猛烈なアプローチを続けて、大学入学を機に交際をスタートさせたらしい。


 俺は密かに涙を飲んだのだが、どこの馬の骨とも知れぬ有象無象の男に取られてしまうより、竹馬の友である高彦と幸せになってくれた方が何万倍もマシであると思った。


 そう、思い込んだ。そう、言い聞かせた。そうじゃないとやっていられなかった。


 だから俺は自分の想いを封印し、素直に二人の交際を祝福することにした。


 そんな二人が付き合い始めて、もう1年ほどになる。


 大学生活も安定し、就職活動もまだ始まっていないこの時期が、俺達学生にとって男女交際の旬と言えるだろう。


 だがそんな折りに言われた一言が冒頭のアレだ。

 

 余所のカップルの性癖にケチを付けるつもりもないが、今回に関しては看過できないことは明白だろう。



「それで……? 何をどうしたら自分の恋人を他人に抱かせようなんて発想になるんだ?」



 俺には心底理解しがたいが、世の中には一定数そういう属性の性癖を持った人がいることは認知している。


 しかし、さっきも言ったがそれはあくまで創作物の話なのであって、現実に実行する人間と関わりを持つことになるなどと思ってもみなかった。


「実はな……お前にも言ってなかったのだが……俺は、寝取らせ属性なのだッ!」


 それはもう分かってる。俺が聞きたいのはそういうことではないのだが、高彦は自分ワールドに入って語り始めてしまった。


「初めてその衝撃的な出会いをしたのは、忘れもしないッ! 中学2年生の時だった――」


 死ぬほどどうでも良いので彼の寝取らせ属性覚醒イベントの詳細は割愛するが、奴がどれだけその願望をここの内側に秘めていたのかは痛いほどに伝わって来た。


 痛々しいという意味での痛い、である。

 長年煮えたぎらせて完全にこじらせていると言ってもいいだろう。


 煮詰めた鍋が干上がって焦げ付くレベルだ。


 高彦は様々な言葉の美辞麗句を並べ立て、自分が如何に寝取られというものに心酔しているかを聞かせてくれた。


 頭が痛くなるとはこのことだろう。


「そうなのだっ!! 佳純かすみに対して不満など一切ないのだ! むしろ、俺には勿体ないくらいの良い女だッ。しかし!! こればかりはどうしようもないのだ。俺は、俺は大好きな佳純かすみが寝取られるところを、どうしても、見たい!!」


 度しがたいほどに血迷った寝取られ願望の力説に、再び溜息を漏らすしかなかった。


 いや、溜め息を通り越して頭痛がしてきたぞ。

 こめかみがピクピクしているのがわかるほどだ。


 血管が切れそうになる感覚などと言うものを生まれて初めて味わう事になろうとは。


「だがな。どこの誰とも知れぬ男に、佳純かすみをやるわけにはいかないのも分かっている。失いたいわけではない。嫌われたい訳ではないっ! 愛しているんだ。愛しているから、他人に奪われて変わっていく彼女が見たい。でも失いたくないッ」


 あまりにも身勝手極まりない理論だ。


 心理学的にはそういう状態もあるらしいが、だからと言って「性癖だからしょうがないよね」では済まされないぞ。


「だからこそ、お前にしか頼めないッ! 一生に一度で良いのだッ! 親友の願いだと思って、何卒なにとぞッ! 何卒お頼み申し上げたてまつるッ!!」


「ええいすがりつくな気持ち悪い! 時代劇めいた発言で血迷った事を抜かすなッ! だいたいな、佳純かすみちゃんの気持ちを考えての発言なのかそれは?」



 力説する親友を無視して当の彼女のほうへと向き直る。


 そう、大事なのは阿呆な親友の性癖の話ではない。


 そんなのは文字通り死ぬほどどうでも良いのだ。


 当事者、ある意味で"被害者"とも言える佳純かすみちゃん本人がどう思っているのかが重要なのだ。


「どうなの佳純かすみちゃん……キミは、本当に高彦の提案を受け入れたいと思ってるの?」

「……んと……本当は、凄くイヤ」


 俯いたままそう答える彼女を見て、俺は感じていた予感が正しかった事に安堵した。


 もしもこれで彼女が嬉々として受け入れて他の男とセックスしてみたいなどと言われたら、それはそれでショックだったであろう事は想像に難くない。


 やはりどこの世界に自ら寝取られたいなんて考える女性がいるものか。


 いや、もしかしたらいるのかも知れないが、全人類の総数で言えば相当な少数派であると信じたいところだ。


「だけど、高彦くんの頼みだから一回だけなら。私も、高彦君には喜んで欲しいし」


 戸惑い、緊張に包まれながら、可憐な下唇を強く噛んで、その言葉を絞り出す。


 辛いのだろう。それはそうだ。


 お互いの利害が一致しての提案であるなら、まだ良い。理解はできないが許容はできる。

 

 いや、逆だな。許容できるようなものではないけど、それが恋人同士の幸せの形であるなら、理解しようと努める事はできると言った方が正確か。


 つまり佳純かすみちゃんに寝取られ願望があるのなら問題はないのである。


 しかし、そんな様子は微塵も見て取れないのは明らかだ。


 それでも好きな男のためにそこまで自分を投げ打つことができる彼女を、俺は本当に凄いと思った。


「勿論、本気で寝取られては困る。だから佳純かすみが出した条件は、相手の男は佳純かすみ自身で選ぶ事。それが、お前なんだよ」


「な、なるほど……」


 こくんッ、と……彼女の細い首が縦に振られ、小さな頭が肯定の意を示す。


「知らない男の人に抱かれるのは、絶対に嫌。だけど、高彦君がどうしてもってお願いしてくるから……勇太郎君になら、良いかなって……ううん、勇太郎君以外は、絶対に嫌なの」


 今度は彼女に対して絶句せざるを得なかった。

 それはなんだ? 俺は人畜無害な安全牌あんぜんぱいとでも思われているのだろうか。


 それだけ佳純かすみちゃん的には男として認識していないと言うことか?


 それとも寝取る度胸もない根性無しだとでも?


 妥協点として選ばれたことを憤慨するべきか、それとも憧れの女の子に選んでもらえたことを喜ぶべきか。


 いやいや、違うだろ! そうじゃないだろ!


 彼女の言葉をそのまま信じるなら、高彦という条件が外れたら、俺を信用できる男として、抱かれても良いと認識してもらえていると好意的に解釈することもできるだろう。


 そうだと信じたい。


「凄く悩んだんだけど……私が知ってる中で勇太郎君以上に優しい人はいないし、昔なじみで為人ひととなりも知ってて、一番安心感を覚えるって言うか……」


 俺は口角が上がりそうになるのをうつむいて押さえ込む。

 憧れの佳純かすみちゃんにそこまで信頼してもらえていることがたまらなく嬉しかった。


「なるほど……それは光栄な話だ」


 一瞬、タイミングさえ違えば、高彦の位置に座っているのは俺だったのかもしれない、と。考えてしまった。


 俺は考え抜いた結果……。


「分かった」


 肯定の意を示した。

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