墓参り 1
「髪を整えろ」
わたしが鬼の隠れ里で暮らすようになってひと月あまりが経った頃、千早様が突然そのようなことをおっしゃった。
……ええっと、千早様の御髪を整えろと、そういうことでございましょうか?
千早様の御髪は、いつも艶やかでお美しい。今も一分の乱れもないように見えるのだけど、千早様からすれば乱れているのだろうか。
着物のあわせから、「必要な時に使え」と渡されていた柘植の櫛を取り出す。
このひと月あまり出番のなかった櫛だが、ついに使用する場面ができたようだ。
櫛を手に、畳の上に敷いた円座(わろうだ)の上に気だるげに座っていらっしゃる千早様の背後に回ろうとすると、何故か手首をつかまれた。
「何をしている」
「御髪を整えろとおっしゃられましたので……」
「違う」
千早様は形のいい眉をぐぐっと寄せた。これは機嫌が悪い時の仕草だ。どうやらなにか機嫌を損ねることをしてしまったらしい。
「お前のことだ。いい加減髪を整えろ。いつまでたっても放置したままで、いい加減見苦しいぞ」
見るぐしいと言われて、わたしはハッと己の髪を抑えた。
見苦しくならないように一つにひっつめていたのだけれど、やはり見る人は伸ばしたまま放置しているわたしの残念な髪の状況に気が付くものらしい。
千早様が寝る場所と、それからお風呂に自由に入っていいと許可をくださったので、身ぎれいにはしているつもりだった。
艶がなくなっていた髪にも心なしか艶が出たし、前ほど悲惨な状況でなくなったので大丈夫だと思っていたのだけど、お綺麗な千早様の目には見苦しく映っていたのだろう。
「申し訳ございません。すぐに切り落としますので……」
「待て、どうしてそうなる。俺は整えろと……ああ、もういい」
千早様は苛立たし気に舌打ちして、掴んでいたわたしの手首をぐいっと引く。
それと同時に千早様は立ち上がり、わたしは千早様が座っていた円座の上に座らされた。
「あの……?」
「そこにいろ」
そう言って、わたしをぽつんとその場に残したまま千早様は部屋から出て行く。
よくわからないけれど「そこにいろ」と命じられたのだからここにいなければならない。
柘植の櫛のつるりとした面を指先で撫でながら待っていると、千早様がハサミを持って戻って来た。
わたしの背後に回り込み、髪をまとめていた紐をほどくと、わたしの長い髪がすとんと背中に落ちる。
「千早様?」
「動くな」
命じられたので、わたしが座ったままじっとしていると、しゃきしゃきと背後で音がした。どうやらわたしの髪が切られていると言うのはわかったけれど、どうして千早様がわたしの髪を切っているのだろうか。
しばらくすると、後ろの髪を切り終えたのか、千早様が前に回り込んでくる。
少し顔を動かすと、また「動くな」と命じられたので言われるまま顔を正面に固定した。
千早様のしなやかな指が、わたしの醜い髪に触れている。
それがものすごく申し訳なくてしょんぼりしていると、わたしの前髪を整えていた千早様が不思議そうな顔をした。
「何故そんな顔をする」
「……わたしの、このように醜い髪に触れていただくのが、申し訳なくて……」
素直に心の内を吐露すると、千早様がわたしの髪を切る手を止めた。
「どういう意味だ」
「わたしの髪は、醜いのです。赤茶けた色で、あまり艶もありませんし……」
「なるほど、道間は黒を尊ぶからな」
千早様は一つ頷いて、わたしの髪を切るのを再開する。
「お前がどう思おうと勝手だが、ここではお前の髪を醜いと言うものはいない。それに、艶がないのが嫌なら椿油でもつけていろ」
簡単に言うけれど、椿油は高級品である。そのようなものをわたしが使わせてもらうのはおかしい。
「俺には女の必要なものはよくわからん。あとで青葉に細々としたものを運ばせておく」
「い、いえ、わたしは……」
「動くなと言っただろう」
「……はい」
ここでは、千早様の言うことは絶対だ。
千早様がそうすると言ったことにわたしが口を挟むのは無礼なことである。
だけど、千早様の気まぐれに生かされている下女のわたしが、このように優しくしてもらってもいいのだろうか。
「こんなものか」
しばらくわたしの髪を切っていた千早様が、ハサミを置いて頷いた。
「これで少しは見られるようになったな。――青葉」
千早様の呼びかけに、どこからともなく青葉様が姿を現した。
千早様の声は決して大きくなかったのに、呼びかけを聞いてすぐにやって来るなんて青葉様は大変有能である。
「なんでございましょう」
「片付けておけ」
ぽいっとその辺にハサミを投げて千早様が言う。
青葉様はわたしと、それから散らばったわたしの髪を見て、ぐぐっと眉を寄せた。
「……次は、せめて庭で切っていただけると、大変助かります」
それからわたしには風呂に入ってくるようにと告げて、青葉様は箒と塵取りを取りに行った。
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