第10話
作戦を決行する夜は、薄月を体現したようなものだった。今なら、昔の人が俳句を読みたくなる心情も理解できる。
今宵、私は彼女の秘密を暴く為の鍵となる、あの部屋にいくことにした。私は入念にルートを確認した。だから、この作戦は必ず成功する。
いや、成功しなければならない。
「大丈夫、全てうまくいく」
私はそう祈りをこめた声を出す。月光が窓越しに私を照らしており、寂寂とした空間は、私に確かな恐怖感を抱かせる。
木の軋む音、空気が窓に当たる音。全て、私にとっては繊細な一本の音色のように聞こえる。
私はその廊下の一角にある、目的の部屋に来ていた。
不用心にも鍵はつけられていなく、もう何年も使われていないのだろう。
「すぅー....はぁー....」
私は深呼吸をする。三度ほどし、視界を見上げる。
「よしっ」と小さい声を呟き、ドアノブに手をかける。
ガチャ、と私の気持ちには似つかわない、軽い音が響く。
もう少しで真実にたどり着ける。そんなところだった。
「...やめてください」
不意に、後ろから声がした。それは、静かな怒りや焦燥感から発せされた、ぐちゃっとしたものだった。
「ほんっとうに...やめてください」
忠告するような声色だった。私からは冷や汗が流れ、どうしようかといった思考ばかりが、脳を巡っていた。
「...芽衣」
私はそう彼女の名前を言う。私達の間には、なんともいえない距離感があった。
「...そこは、姉さんの部屋なんです」
「聞いたことある」
「はい。絶対に入ったら駄目なんです。ほんっとうに」
彼女の声には、形容できない切なさや、抑えきれない感情が滲み出ていた。
「...でも!お願い、ちょっとだけ」
私はそう叫ぶ。彼女の返答は、容易に予測できたものだった。
「駄目です」
「どうしてもだめなの!?」
私は彼女の答えを聞いた後、問いかけるようにそう叫んでいた。私の心中を支配している焦燥感が、早く部屋に入れと言っているようであった。
「お願い!少しだけ!」
「駄目ですっ!!!!」
彼女は私の言葉を完全に拒絶するように、そう叫ぶ。
だが、ここで引くわけにはいかない。彼女の秘密を理解するため、一歩も引くことを許されてない。
「いや!お願い!!!」
私はそう叫んだあと、沈黙する。どうしようもない感情や、どうやって打開をしようとかと、思考をしていた。
強行突破しか策はない。という狭いものとか出なかった。
ならば、それしかない?。
ドアノブは握ってるし、その気になればいけなくはない?。
「やるしかない」心の声を小さく呟く。何もしらずに帰れるわけがない、彼女が話してくれる気もしないし、何かしらの秘密が埋まっているこの部屋に入るしかない?。
私はもう一度強くドアノブを握る。
「...そこは、ほんとに駄目なんです」
彼女はもはや涙目であった。正直、心は痛んだが、ここは心を鬼にする他ない。だって、そうしないと私が居た堪れないから。
ごめん、そう私は心の中で懺悔の言葉を吐く。
ガシャ
扉が開けられる音は、あまりにも軽快だった。
「駄目!」
後ろから彼女の叫ぶ声が聞こえた。足音が響き、私の方へ走っているのだろうと分かる。
あのメモを。
あの病名が書かれたメモを。
彼女が私の事を忘れている理由を!。
「やめてっ!」
バサッ、と音が鳴った。その時、私の視界は上空へ向いていた。
あまりにも無機質な白色の天井ばかりが、見えていた。
机の上に積み重ねられていたメモは飛んでいて、私は初めて体の向きが変わっていることに気が付いた。
やけに腹の上が温かい。私は瞼を擦り、目の前の視界を見る。
「やめて...ください」
彼女は私の腹の上に馬乗りになり、涙目で私の事を見つめていた。
芽衣の声は震え、必死に私の事を押しとどめようとする。涙が頬を伝い、落ちていた。
「...ぁ...ぇ...?」
私は掠れた声しかでなかった。だって、まさか泣いてしまうとは、彼女の事をまた傷つけてしまうなんて、私にとっては最悪だから。
「...ご、ごめん」
さっきまでの威勢はどこにいったのやら、私は静かにそう呟く。
「でも...少しだけ..お願い」
私はかすれた声でそう訴えた。彼女は涙が瞳を潤わせ、私の事を見つめていた。
駄目だ。彼女の表情を見ていると、どこか昔の面影を感じてしまう。
「....本当に、やめてください」
身動きをとり、辺りを見渡そうとした私を、彼女は包み込むように抱きしめてくれる。温かい、母のような愛を感じる。
「...わ、わかったから」
涙目になり、目の周りを腫らせていた芽衣を諭すように、そう言う。
「...これは、あくまで久遠さんを拘束するためのものなんです」
その言葉はまるで、彼女自身で自身を縛っているかのようだった。
彼女は抱きしめる力を強くし、ゆっくりと瞼を閉じている。
「...わかった」
私は重々しく、そう返事する。
心地が良い。本来の目的なんて忘れてしまうほど、彼女の匂いや慈愛は美しい。私は彼女に届かない。
こんな特別な関係、私だけのものであってほしい。そんなことを思うのは罪だろうか。
だが、一つだけ収穫はあった。
部屋から見て右側の壁に会った一つの付箋。遠く、あまり見えなかったが少しだけ確認できた。
何かの症候群だ。彼女は、名称のわからない、特別な症候群を抱えている。
その事実を知っただけで、私の胸は随分と軽くなった。
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