薄命に消える想いは

@Rikka_Hinatsuki

薄命に消える想いは

 この世界には『ハッピーエンド』や『幸福な物語』なんてものがありふれている。

 ──けど、そんなものボクには無縁のものなんだ。だって、ボク視点の世界は『バッドエンド』と『不幸な物語』しかない、救いのないモノなのだから。

 


 誰もいない通学路。この時間……午前十一時十分ともなれば、人や車の往来も少なくなって、まるでボク以外のみんながいなくなってしまった、ボクだけの世界に来てしまったんじゃないかというような錯覚に陥る。

「ふぁ〜。眠いなあ……どうせだったら、休んじゃえば良かったかもな……」

 ボクは朝がキライだ。色々と複雑な事情があるにはあるけれど、最大の理由は単に起きるのが苦であるからだ。

 ボクは、自由に好きな通りに生きたいと思っているから、こうやって何かを強制される学校というものも好きではないのだ。

「今月の遅刻、今日で何回目だっけな〜」

 それは、ようやく校門を通過して学校の敷地内に足を踏み入れ、ふと浮かんだ自らのその疑問にアンサーを出すべく、指を折り始めようとした瞬間のことだった。

「十二回目だ。寧奈、お前はいつになったらちゃんと朝から来る気だ?」

「うひゃあ!?」

 突如として、襟を掴まれて引っ張られると同時に、上方から届く野太い声に思わず驚きの声を上げてしまう。

「はあ……何もそんな体でも触られたみたいな声を出さんでもいいだろう」

「いやいや!? センセイ? 首に手ぇ、当たってたからね!?」

「知らん。そんなこと言う暇があるなら問に答えろ」

 ボクの言い分など知りもしないというような態度なセンセイに、降参の意を示すべく両手を上げる。

 すると流石にずっと引っ張り続けていた襟を開放してくれる。けれどまあ、当然と言うべきか、その目はずっと「早く答えろ」とでも言いたげな圧を放っている。

「えー……そーだなぁ……気が向いたら、かな!」

 ボクのその曖昧な返事にセンセイはため息一つ吐いてから続ける。

「単位を落として留年するハメになって泣きついて来ても知らんぞ。自己責任というやつだ」

 センセイはそう言ってから「フン!」と大袈裟に声をあげてどっかに向かって行った。

「は〜……やっと開放された〜……あのセンセイ、力強すぎるんだよなあ……」

 あの馬鹿力、ボクじゃなくてもっと不良生徒に使うべきでしょ……なんて続けようとしたところで、そういやボクもケッコーな不良なのか、と思い出す。

 毎日遅刻してるようなヤツが、不良認定されなくて、どんなヤツが不良認定されるんだって話ではあるよね。……まあ、それも別にしたくてしてるわけじゃないんだけどさ。


 教室の前。やけに騒がしい皆の声が廊下にまで漏れ出ている。

「これ、ボクが入ったら余計騒がしくなるよなあ……やっぱ、今日もサボっちゃお。向こう行こっと……」

 そうして向かう先は、もう何年も使用されていないらしい旧校舎。閉め切られて誰も入れないようになっているはずのそこはどうしてか、正面からみて右側、三番目の窓だけが開いているのだ。

 単にセンセイの閉め忘れなのか、それとも誰かがバレないように開けたのかはわからないが、こういった場所があるのは都合がいいのでありがたく利用させてもらっている。

「さてと、今日はどの教室いこっかなー。まぁ、どこでもいいし、大体鍵閉まってんだけどね」

 校舎の中に入れたとしても大体の教室の鍵が閉まっている以上、特に入れるところもなく、行く先は固定されがちだ。

 掠れていて読みにくいが3-5と書かれていることがかろうじて読めるプレートがかけられている教室。今日はそこでサボることにした。

 たしか、鍵がかかっていないのはそことあと三部屋くらい。

 今日はあんまり動き回りたい気分じゃないから最短で行けるそこを選んだわけだけど、そこにいたるまでの通路に、いつもはなかったはずのものがあった。

「これ、誰かの学生証? なんでこんなとこに……?」

 特に意味もなく、それを見てみると、すぐ持ち主は判明する。

「宮園 境華……二年の子、か。でもボク二年と接点ないしなあ……どうしよ? センセイに預けてもいいけど、どこで拾ったって聞かれたらダルいよなぁ……」

 授業もサボってどこほっつき歩いてんだー! な〜んて、言われちゃいそうだし、自力で彼女を探し当てて、届けるしかなさそうだよね。

「まあ、ここに落ちてるってことは多分、どっか探せば居るかもだよね……? まあ、あの教室いって鞄おいてからでもいいかなー……」

 適当に歩き出していくうちに、風が木の葉を揺らしたり、鳥が鳴いたりというような環境音に混じってあるはずのない音が聞こえてきだした。

「なにこれ、旧校舎から聞こえてくるピアノの音って……心霊現象かなんか? オカルト部に教えたらなんかお礼もらえたりしないかな〜」

 なんて冗談はさておき、音の発生源は明らかに音楽室だ。ならば、件の彼女……宮園境華さんとやらもそこにいるのかもしれない。

 別の人間、それこそ何かしらの教師が忍び込んで音楽に興じている可能性は多少なりともあるだろう。一応警戒しつつ開かれたままのドアから中を覗くと、小柄な少女が古びたピアノを軽やかな指遣いで演奏しているのが視界に映った。

 SNSでたまに見る、すごくピアノが上手い人たちみたいな滑らかな動きで奏でられているからだろうか、聴こえてくる音もすごく澄んでいる。

 彼女のことをよく見てみると、先ほど拾った学生証の写真に映っている人物であるということが判った。

「すっご〜! めっちゃ上手いね!」

 つい聴き入っていると、しばらくしない内に曲は終わってしまった。演奏が終わると同時に、ボクは彼女に思わず声をかけてしまった。

「わっ!?」

 と、大げさっぽい驚きの反応の後に振り返った彼女の様子を見て、ボクは自分の浅慮さに気付いた。もしこの子がボクのことを知っていれば、正直面倒なことになる。

 だって、ボクはこの学校でそこそこ有名な変わり者だから。

『お前、男なんだよな? なんで女物着たりそんな髪してんだよ?』

 学校が始まって最初の方、ボクがクラスの男子に言われたことだ。ボクは普段、所謂『女装男子』を自称している。

 ボクには人に言えない一つの秘密があるのと、過去のトラウマから、男に好意を向けられるのが怖くて、こうして嘘をついて女であることを隠しているのだ。

 幸いにも、センセイたちにそのことについて軽く入学前に話した結果、ボクのことは生徒たちには秘密にしてくれているようだし、ボクの身長もそれなりに高いほうだから、その嘘が辛うじて通っているようだ。

 ならば、なんで男らしい恰好をしないのか。それは単純な話だ。可愛いものが好きだから。好きなものを好きなまま、ボクの生きやすい道をボクは選んでいるわけだ。

 まぁ、その代償としてボクは変わり者として扱われ、クラス……いや、学校中で浮いた存在になってしまったわけだけど。結局、生きづらい道になってしまっているわけだけど。

 朝がキライな原因は、きっと、これもあるんだろうな。一人浮いてしまって、憂鬱な場所である学校にいかないと行けないと思うと、気が沈むから。

「……あの? えっと、先輩? おーい……」

「あ、ゴメン! こっちから声かけたのに考え事しちゃって固まっちゃってた!」

 最悪の想定を思い浮かべて、そこに入り込んでしまっていたボクの思考は、彼女の呼びかけによって現実へと引き戻された。

「えーと、あー……そうだ! これ! さっき、廊下で拾ったんだけど、キミのだよね?」

  ボクがそれを取り出して彼女に見せると彼女は、またしても大げさな動作と声色で反応を示した。

「落としちゃってたんだ……! ありがとうございます!」

「そんな大したことじゃないでしょ〜」

 ただ落とし物を拾っただけで、まるでなにか大きな手助けをされたかのごとくペコペコと頭を下げる彼女の姿に少々驚かされたボクはそんな風に返した。

「いえ! 先輩が拾ってくれなかったら、わたしがここに入り込んでたのがバレてしまうかもなので!」

 たしかに、結構埃っぽいとはいえ、完全に放置されているのだとしたらもっとひどいことになっていそうなのに、この旧校舎はそれなりにきれいな方であるから、もしかすると誰かしらがここに来て定期的に掃除をしているのかもしれない。

 だとしたら、あんな目立つ場所に落ちていた学生証はすぐさまその人物に発見、回収され彼女は長々とした説教、あるいは反省文を書かされることになるのだろう。

 そして、ここは完全に封鎖されて、ボクの逃げ場所もなくなる……なんて事もあっただろう。そう考えると、さっき彼女の学生証を見つけ、届けようと考えたのはほんとにファインプレーだった。

「そーだね。バレたら最悪、反省文かお説教だもんね〜」

 あえて驚かすようなトーンにしてみると、予想通り彼女は怯えるような表情で頷いてみせた。

「まあ、ボク、二日に一回くらいの頻度でここにいるけど、今まで誰も来なかったし、多分大丈夫なんじゃないかな〜」

 今度は安心させられるような落ち着いた声色で話すと、彼女はホッとしたような表情になる。

 表情がコロコロと変わるからすっごくわかりやすいなこの子。

「ってか、キミ、ボクのこと知らない感じ? なんも言ってこないし」

 特に変わった反応をしてこないから、知られていないのだろうと判断した。けれど、彼女の返答は予想とは違った。

「いえ、知ってますよ! 女装男子ってやつですよね? わたし、いつか先輩とお話してみたかったんです! 実はその、わたし……そういうの好きなので」

 珍しい子も居たものだ。純粋に期待の目を向けてくる彼女に「それは嘘で、ボクはほんとは女なんだ!」なんて決して言いだせない状況になってしまった。

 ──はは、厄介だな……。

 実際にはせず脳内だけで舌打ちをして、ボクは返す言葉を考える。

「え、ほんと!? いや〜嬉しいな〜。ボク、この学校じゃ理解者とは出会えないもんだと思ってたよ〜!」

 ──別にあれ、嘘だからな……。それを理解されてもな……。

「わたしこそですよ! まさか、リアル女装男子を見れるなんて!」

 あれのどこがいいんだろうな。ある程度背が低かったり声が高かったりしたらまだいいけど、成長して色々変わっちゃったら、それはもう、ただの男でしか無いのにな。

 ──まぁ、そんなの、人に言えない秘密を持ってるボクが言えた話じゃないか。

「あはは。ボクでいいなら、友達にでもなろうか?」

 適当に返事すべくボクがそう返すと、彼女は瞳をキラキラと輝かせてボクの手を握る。

「はい! ぜひ!!」

 手なんて握られたらバレちゃうんじゃないかって思ったけど、案外そんなことはないみたいだ。

「あ、すみません! 勝手に手握っちゃって……」

「いやいや、いいよ。気にしないで」



 あれから数日、ボクらは授業を何度もサボってこの音楽室へと集まり、いろいろな話をした。

 彼女がどうして女装男子なんてものが好きなのか、どうしてこんなところに来ていたのか、彼女はクラスではどんな立ち位置なのか、など。

「すごいな。サボってばっかのボクと違って、ちょー優等生じゃん。でも、だったらサボってこんな場所に来てるなんてバレちゃったら、成績下げられちゃうんじゃない?」

「そうかもですねー。まぁ、課題出してたら成績はもらえるので別にいいんです。それに、わたしの日頃の行い的にサボりなんて思われないでしょうし」

「あはは……ボクとつるんでんのバレちゃったらサボってるの疑われちゃいそうだけどねぇ……」

 サボり魔で問題児で異端者。そんなボクと、成績優秀で品行方正なお嬢様。そんな彼女が一緒にいるのを見れば、彼女がボクに唆されて悪の道を突っ走ってしまっているのだと思われてしまってもおかしくはない。

 正直、彼女と話すのはボクにとってかなり心地が良かった。

 ボクに、なんの変な目も向けず話してくれる、唯一の同性女の子だったから。

 ボクは、異性男の子から好意を向けられるのが怖い。なら、恋愛対象はどうなのか? それは単純。ボクは女の子が好きだ。だから、ボクは少しずつではあるけれど、彼女に惹かれていった。

 コロコロと変わる表情も、鈴のように響く声も、温かい眼差しも全て、ボクを魅了するに十分のものだった。

 彼女もどうやらボクに好意を寄せてくれているようだ。

 普通なら、喜ぶべき事なのだろうけれど、それはホントのボクに対してじゃなくて、嘘のボクに対してなのだから、何も喜べない。

 ボクが本当は女装男子なんかじゃないことがバレてしまったら、きっと彼女はボクに失望する。飽きてしまう。もう、会っても、話してもくれなくなる。

 なんでそんな事がわかるのかって話だけど、それは彼女の口から聞いたからだ。

『女装男子と女の子の恋は好きなんですけど、ボーイッシュな女の子とガーリーな女の子の恋は好きじゃない……というか、苦手寄りなんですよね。ノーマルラブは好きだけどガールズラブは苦手、的な』

 と、彼女はそう言っていたのだ。

 だったら、打ち明ける事はできないだろう。もし仮に、このまま嘘を隠し通して彼女と恋愛関係に発展することが出来たとしても、将来的にはいつかそれが破綻するのは目に見えている。

 芽生えてしまったこの感情をどうすればいいのかわからなくって、誰かに聞いてほしくってたまらなかった。

 そんなとき、ボクのもとに一つの着信があった。

「あ、ごめん。ボクだ。でも、誰だろ? ボク連絡入れてくるような人って……」

 スマホのロックを顔認証で解除して、通知を確認すると『ハル』というアカウントからだった。瞬間、ボクはそれが幼馴染……『悠也』のものであるということを察した。

「珍しいな、幼馴染からだ」

 メッセージアプリを開いて、彼とのトーク画面を開く。

『今学校いるか!? いるなら助けてくれ!』

 助けて、の文字に慌ててすぐに『どうしたの?』と返したけれど、次に来たメッセージは慌てて損した、と心の底から思わせてくるような内容だった。

『財布忘れたから金貸してくれ! 飲み物買えねぇ!』

「……ごめん、境華ちゃん。ちょっと行ってくる……」

 境華ちゃんへの想いについて、誰かに聞いてもらいたいと思ってたんだから、ちょうどいい。このお返し代わりにでも聞いてもらおう。

 なにかが引っ掛かって動きにくくなったドアを無理やり閉めて、ボクは廊下を駆け出した。

「あ……先輩……」

 そんな境華ちゃんが呼ぶ声を背中にしながら。

 道中、センセイやダル絡みしてくるようなヤツらに見つかったりしないか少し不安だったけれど、幸いにも誰とも遭遇せず目的地にたどり着くことが出来た。

「ったく、悠也ってば、どこにいるのさ……」

 自販機の付近について周囲をキョロキョロ見回していると、急に背後から声をかけられた。

「わりぃ! 来てくれてサンキュな!」

「うわ!? びっくりした……急に後ろ立つなよぉ……」

 ボクのそんな文句も受け付けてくれず、声の主……件の人物、悠也はヘラヘラと笑っている。

「いやー、ネイが今日来てて助かったぜ……このままだと脱水で死んじまうとこだった」

 そんな馬鹿なことを言うもんだから、「んなわけないだろ」と呆れたような声で返してしまった。

「んで、なに買いたいの? いつもの?」

「おう! コーラ!」

「おっけ。はい、これ」

「サンキュなー!」

 ボクがお金を渡すと彼はそのまま自販機の方へと走っていった。

 今思えば、彼とは唯一素のままで話せるから、一緒に居てかなり気が楽だ。

 彼はボクの事情をすべて知ったうえでボクと変わらずに接してくれている。

 それは、どれだけボクにとって救いとなっていることだろうか。きっと彼は、そんなことちっとも考えてないんだろうけど。

「なーんかさ、今日のネイ、機嫌悪い感じ? いつもと比べりゃちょっと元気ねぇみたいだけど」

 帰ってきて悠也が開口一番にしたその発言に少しドキリとする。話す前から察してくるとは流石だ。十数年をともに過ごしただけはある。

「……バレたか。機嫌悪いっていうか、悩みがあるっていうか……」

「ほー? どんな?」

 言葉では適当そうな彼だったけれど、その視線はかなり真剣そうで、しっかりとボクの話を聞いてくれようとしているのが明らかだった。

「好きな子……なのかはまだわかんないな。えっと……気になる子ができたんだ」

「おー、珍しいな。んで?」



 ボクはそこで、思いの丈を全て悠也に打ち明けた。

 彼は「おー」だとか、「はえー」だとかところどころ返事をすることはあったけれど、最後まで割と静かに聞いてくれた。

「なるほどなー、ネイの悩んでることは解ったけどよ……それ最終的にはお前がどうしたいかじゃねぇ?」

 帰ってきたのは、予想だにしていない言葉だった。

「……え?」

「……告るも告らねぇも、話すも話さねぇもさ、全部お前がしたい通りにしたらいいと思うぜ。そんで仮にフラれちまったとして、そんとき諦めんのか、諦めねぇのかもだ。……その子がお前のこと、好いてくれてんなら信じてみろよ。案外、本当のお前のことも受け入れてくれるかもしんないぜ?」

 全く無責任な言葉だ。けど、実際悠也がボクのことを受け入れてくれたときも「おー、そっか、なんか頑張れよ?」なんて、あっさりとした反応だった。

 でも、それも悠也の人が出来ているから、彼の人間性がたまたまボクとあっただけ、他の人なんてどんなものかわからない。

 受け入れてもらえないことばっかりだったボクが、今更悠也以外の人間に受け入れてもらえるだなんて期待してないのだから。

「お前はさー、怖がってんのかも知んないけどよ? 怖がって動けねぇままだったら、どうにもなんねぇぜ? 良い未来も、悪い未来もどっちもやって来ねぇ。多分、ずっとそれ隠したまんま生きてくことになるし、それでずっと苦しむことになっちまうと思う」

 悠也はこちらの方を見やり、笑う。

「ダイジョーブだ。フラれちまったら、お前が満足するまで美味いもん食わせに連れってやるし、見たいもん見せてやるからよ。慰めてやる準備はバッチリだぜ? なんせ、俺はお前の親友だからな!」

 ボクが彼に救われてるのはこういうところなんだろうな。適当そうに見えて、ボクのことをしっかりと考えてくれてる。彼は最悪の状況のことも考えて、そのケアもしてくれようとしている。

 そんな彼が応援してくれるなら、もし、ダメだったとしても支えてくれるって言うなら、頑張ってみたい。その応援に応えたい。なんて思えた。

「ありがとね、悠也。怖いけど、ボク、頑張ってみるよ」

 礼を告げて、ボクは境華ちゃんが待つであろう旧校舎の方へと駆け出した。

「おう、行って来い!」

 そんな頼もしい、親友の声を背に受けながら──。




 ──先輩が走って行ってしまってから、わたしはひとり残された音楽室で、ピアノでも弾こうかと立ち上がった。

 すると、視界に入ったのは先輩が出ていったドアに挟まっているなにか。

 学生証だ。先輩と初めて話した日は、わたしが学生証を落としていたけれど、今度は先輩が落としてしまっている。似たもの同士、なのかもな。

「学生証だったら、誕生日とか書いてるよね。先輩、自分のことあんまり話してくれないから、先輩のこと知るいい機会かも……!」

 先輩がまだ帰ってこないことを廊下の方を覗いて確認し、こっそりとそれを拾い上げる。

「……え?」

 書いていることを確認しようとしたわたしの目に飛び込んできたのは、性別欄に書かれた『女』という文字だった──。


 


 ──心臓の鼓動が煩い。これから、打ち明けるんだって思うと緊張と恐怖で気が狂いそうになる。

 おかしくなりそうだと思う度、悠也の「親友だからな!」という言葉を反芻して、なんとか精神を保つ。

 階段を躓きそうになりながらも駆け上る。刻一刻とその時が迫る。あと、少し。あと少しで彼女の下へと辿り着いてしまう。

 いつもは心地よいと感じるピアノの音色も、今はただの環境音と化して、それをしっかりと聴こうという気になれない。ただ、彼女に早くボクのことを、ボクの想いを伝えたい。その一心だった。

 息も絶え絶えになりながら、到着してしまった音楽室の扉を開く。

 先ほど感じた何かが引っ掛かっているというような感覚は今度はしなかった。

「境華ちゃん!」

 ボクが叫ぶと、彼女はこちらに振り向く。

「先輩、なにか……言うことはありませんか?」

「な、なんでわかるの? いや、それはいいや。ボク……言いたいことがあって!」

 真剣さがすごくて、もはや冷たいとさえ思えてしまう彼女の声に少し驚きつつも、深呼吸する。

「言ってください」

 促されてしまったので、ボクは意を決して、言葉を紡ぐ。

「ボク、キミのことが……好きなんだ! それだけじゃなくて……」

 言いかけてた彼女の表情がなにか、怪物でも見たかのようなものでボクは思わず立ち止まる。

「……先輩」

 表情だけでなく、声までもがそんな雰囲気で何があったのかすごく心配になる。

「わたしのこと、騙してたんですね」

「……え?」

 ──騙してた……? なんのこと? もしかして、隠してたこと性別がバレた? でも、だとしてもなんで?

 動揺するボクに、彼女は手に持っていたそれを放り投げてくる。

 なんとかそれをキャッチする。なんなのだろうと、視線をそちらに向ける。

 ──学生証……他の誰のものでもない、ボクのもの。

「先輩、さっきわたしのこと、好きだって言いましたよね? 人を騙しておきながら、そんなこと、よく言えますね。そんなこと、よく思えましたね。罪悪とかないんです?」

「……ち、ちがっ……ボクは……」

 何か弁明しようと必死に言葉を探すボクを、彼女は待ってはくれなかった。それどころか、ボクを絶望させる言葉を紡ぐ。

「何が違うんです? 騙してたのは違わないじゃないですか。女のクセに女が好きなんて……気味悪い」

「……あ……あぁ……」

 彼女だけは、そんなこと言わないと思っていたのに、信じていたのに。いや、ボクが最初に裏切ったんだから、そんなこと思う権利なんかないか。

「先輩には心底失望しました。もう、ここには来ません。貴女も、もう二度とわたしに関わろうとしないでください」

 冷たく言い残して、彼女はその場を去ろうとするが、ボクとすれ違う寸前、何かを思い出すかのように立ち止まって、ボクを見詰める。

「……ああ、そうだ。告白の返事、しなきゃですね。わたしは、先輩のこと、大嫌いですよ。……では」

 そんな酷な言葉を、笑顔で彼女は言って見せた。

「あは、あはは……」

 そんな、絶望的な状況で、どうしようもない状況でボクが出来たのは乾いた笑い声を発すること、ただそれだけだった。

 

 


 どこか遠くに行きたい。どこか遠くの誰も知らない場所で、消えてしまいたい。

 その一心で、ただ、カバンも学校に置いたまま、ボクは走っていた。

 ちょうど時間帯として学校が終わるくらい。そのためそこらに帰っていく生徒たちがいる。

 なんで、こんな時に限って一人になれないんだろう。

 いつも学校に来るときは独りなのに、誰もいないボクだけの世界みたいだって思えるのに。今は、どうして一人になりたい時だけはこんなにも多くの人が視界に入って来てしまうんだろう。

「おお、寧奈。今日は来ていたのか」

 そんな声がかけられる。例の筋肉教師だ。走っていたボクの肩を掴んで、引き留めてくる。

「む? 顔色が悪くないか? 大丈夫か……」

 無駄に大きな声が、頭にうざったく響く。

「……さい……」

「……ああ? 悪い、今なんと?」

「……うっさい! ほっといてよ!」

 その手を振りほどいて、ボクはまた走り出した。

 どこへ行くでもなく、ただただ、全部から逃げ出してしまうために。



 目の前には、海が広がっている。ここから落ちてしまえば、楽になれる。もう何も考えなくてよくなる。誰かを好きになることもない。受け入れてもらえなくて苦しむなんてこともなくなる。

「……ようやく……掴めると、認めてもらえると思ったのにな。……結局、今回も駄目だった。……いつになれば、幸せってのは”私”のもとに来てくれるんだろうね。……ううん。もし、そんなものがあるとするなら、こんなことにはなってない。きっと、やっぱり幸せなんてものは”私”には存在しないんだ」

 ごめんね。悠也。折角、応援してくれてたのに。

 一歩踏み出す直前、思い浮かべていたのは境華ちゃんじゃなくて、親友の顔だった。

 美味しいもの、一緒に食べに行きたかったな。綺麗なものとか、可愛いものとか、沢山見に行きたかったな。

 女の子なんかじゃなくて、ちゃんと悠也のこと、男の子のことを好きになれていたのなら、何か変わっていたのかな。

 そんなことを一瞬考えたけれど、次第に恐怖心が”私”を襲った。

 やっぱり、無理だ。男の子のことを好きになるなんて、”私”にはできなかった。それが、たとえ悠也のように、どれだけ信頼できる相手であったとしても。

 いいや、そもそも、こんな”私”が誰かを好きになること自体が、幸せになりたいと望むこと自体が間違っているんだ。

 だって、”私”は幸せに恵まれなかった存在なのだから。

「──それなら、もういいや」

 ”私”が意識を手放す前に感じていたのは、 高所から落ちたことによる浮遊感、溺れたことによる窒息感、どんどん暗くなっていく視界、迫りくる死の気配など、それらに付随する恐怖なんかではない。

 海に完全に落ちてしまう寸前に見えた気がした、悠也のひどく絶望した表情への、罪悪だった。

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